【10-1】星降る岬と、遠い日の記憶
マリーナの西に位置する岬は、夜の闇に沈んでいた。 港町の喧騒は遠く、波が岩肌を打つ音と、風が木々を揺らす音だけが支配する静寂の世界。 その断崖に一本だけ立つ、巨大なクスノキの下に、小さな影があった。
メルクリウス・マグヌス。 彼女は膝を抱えて座り込み、夜空に瞬く無数の星を見上げていた。その瞳は、星の光を映しているようで、どこか遠く、ここではない場所を見つめているようだった。
ガサリ、と草を踏む音がした。 振り返らなくても分かる。あの二人だ。
「……ここか」
カゲロウの低い声。彼は一定の距離を保ち、クスノキの幹に背中を預けるようにして立った。彼なりの、踏み込みすぎない配慮なのだろう。 対照的に、護はズカズカと遠慮なく近づいてきた。
「よっと」
護は、メルのすぐ隣に、どっかりと腰を下ろした。 何か気の利いた言葉をかけるわけでもなく、ただ、そこに座った。 その巨大な体温が、夜風に冷え切ったメルの肌に伝わってくる。岩のような巨体が風除けになり、不器用な優しさがじんわりと染み渡るようだった。
「……昔、パパとママとも、こうやって星を見に来たことがあったな」
沈黙に耐えきれなくなったわけではない。 隣にある温もりにほだされて、メルの口から、ぽつりと独り言のような言葉がこぼれ落ちた。
「……そうか」
護は短く相槌を打つ。それ以上、何も聞こうとはしなかった。 それが、メルには心地よかった。堰を切ったように、心の奥底に封じ込めていた記憶が溢れ出した。
「ボクの世界は、光と、不思議な匂いで満ちていたんだ」
メルは、夜空を見上げながら、遠いあの日々を語り始めた。
ボクのパパとママは、国でも指折りの優秀な錬金術師だった。 家の中は、生活の場というよりは、巨大な実験室のようだった。壁一面の本棚には、子供のボクには読めない古文書がぎっしりと並び、テーブルの上では、いつも色とりどりの薬品がフラスコの中でくつくつと煮え、美しい鉱石が穏やかな光を放っていた。 薬草のツンとする香りと、古い紙の匂い。それが、ボクにとっての「家族の匂い」だった。
二人は、いつも笑っていた。 研究に行き詰まった時も、実験が成功した時も、ボクが初めて錬成陣を描いた時も。
『メル、ごらん。この二つの液体を混ぜると、綺麗な虹色の結晶ができるんだよ』
『すごい! パパ、どうして!?』
『それはね、メル。全ての物質には、魂が宿っているからさ。その魂同士が、喜んで手を取り合うと、こんな奇跡が起きるんだ』
パパとママは、人を傷つけるための錬金術を嫌っていた。 病を治す薬を、作物を豊かにする肥料を、人々の生活を少しでも明るくするための錬金術を、心から愛していた。 ボクは、そんな二人が大好きで、誇らしかった。ボクが物心つく前から「天才」と呼ばれたのも、そんな二人の背中を見て、その全てをスポンジのように吸収してきたからだ。
幸せだった。 あの男が、現れるまでは。
ある日、一家は国が主導する大規模な共同研究プロジェクトに参加することになった。 その責任者が、大陸中に名を馳せる高名な錬金術師、ドクター・モルゴーだった。 パパとママは、憧れの人物に会えることを、子供のように喜んでいた。
『まさか、モルゴー博士と共同研究ができるなんて、夢のようだ! これで、魔物避けの魔石の研究が一気に進むぞ!』
しかし、ボクは違った。 晩餐会で紹介されたモルゴーという男。彼は、仕立ての良い服を着て、完璧な紳士の笑みを浮かべていた。だが、その眼鏡の奥にある瞳は、まるで爬虫類のように冷たく、感情の色がなかった。 ボクを見た時、彼はボクを「子供」としてではなく、「何かの部品」を見るような目で観察した。 本能的な拒絶感。背筋を冷たいものが這い上がるような感覚。
『パパ、ママ。あの人、なんだか嫌な感じがする。一度、ちゃんと調べたほうがいいよ』
ボクは必死に訴えた。けれど、二人はボクの言葉を、人見知りする子供の癇癪か何かだと思ったようだった。
『何を言っているんだい、メル。あの方は、我々錬金術師の希望の星なんだよ。失礼なことを言ってはいけない』
その時の、パパの困ったような笑顔を、ボクは今でも鮮明に覚えている。 あれが、家族としての、最後の穏やかな記憶になるとは知らずに。
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