間話 ドンナ
外から騒々しい音が聞こえる。
だだっぴろい空間によく響く音だ。
きっと、あの冒険者たちだろうとドンナは思った。
なら、通路にいた人たちはみんな亡くなったんだろうか……。
かつて同じ場所で暮らした人間たちの顔を思い出しながら、ドンナはすぐ自分の考えを否定した。
いえ、そもそもすでに一度死んだはずの人間に、命という概念を当てはめるのはおかしい……
正しくは――あるべき状態に戻った、というべきだろう。
娘と繋いだ手に、ドンナは力を込める。
絶対に手は放さない……
そう心に誓っても、すでに彼女は娘を止める余裕を持ち合わせていなかった。
頭の中がどろどろして、心臓が脈を打つたびに視界がぼやけていく。
それなのに、なぜかはっきり見えるのだ。
荒らされた血肉の跡。まる耕された畑のごとく薄らと輪郭が浮かび――空間の中心、一本の槍が突き立っている場所が。
これ以上拒んだら、きっと思想を持たない屍になってしまうだろう。
娘は、自分にそんなふうになってほしくなかった。
その気持ちはとてもよく分かる。
ドンナだってコメルともっと一緒にいたい。
彼女の成長を見守って、大人になった彼女の姿を見て、安心したい。
でも、これもあくまでお互いが人間のままでいられたら、の話だ。
「お母さん……」
娘の声だ。
泣き出しそうな、それでいてある種の懇願混じりに、すがるような声。
「お母さん、おばさん、死んじゃった」
「……」
顔を膝に埋めて、周りに漂う血の匂いを拒むように、ドンナは目を閉じる。
差し伸べられる小さな手――今しがた切り落とした骨付きの肉塊を握ったそれを、無言で押しのけた。
「コメル、お母さんと約束したでしょう。もう二度とこんなことをしないって」
「でも……」
「食べると、人間でなくなってしまうわよ」
突き放すように、ドンナは冷たい言葉を突きつける。
「あなたをそんな子供に育てた記憶はありません」
「でも……食べないと、化け物になっちゃうよ。コメル……お母さんがずっと傍にいてほしいよ」
昔飴をねだる時と同じ声で、どこか必死な様子で、コメルは再びすがってくる。
しかし、ドンナは拒絶する。
「駄目よ。このままでは、結局、私達は救われないのよ」
いまでこそ娘はおとなしく自分の側にいてくれるが……
もしあの冒険者たちがここまできたら、きっと娘は彼らを槍のほうへ誘導するだろう。
その槍に触れた者は、たちまち爆散して、肉塊になってしまう……
『慈悲』のツーベイと『謙虚』のファミリタス。
おそらく異端討伐隊の二人もそのせいで亡くなったというのがドンナの考えだ。
その遺体を口にしたのが、アズルとコメル。
再び目覚めて以来、自分たちの体はどうやら普通ではなくなったと、ドンナは自覚した。
蔓延る血肉を口にする者はみんな人とも異形とも似つかない、歪な形態になってしまったように……生物としての存在自体が不安定になって、体が口にするものの性質に勝手に近づいてしまう。
異形の肉を食べれば異形に、人間の肉を食べれば人間に。
だから、その中途半端さに気づいて、アズルが「冒険者をここに誘導して、みんなをもとに戻そう」という発想が芽吹いた。
コメルは『同化』の祝福で異形の群れを避けて偵察を行い、はぐれた冒険者たちを連れ戻す。
それからアズルが『雷』の祝福で捕獲し、仲間たちに食べさせる。
ドンナの意識が戻っているのもそのせいだ。
そうだ。そのせい、である。
コメルの餌づけで意識が戻ったものの、その状態を維持するには、薬のように間断なく普通の人間を摂食する必要があった。
でなければ、すぐもとの状態に戻ってしまう。
人を食べて、食べて……いつまでも……食べ続ける。
それは本来の目的――もとに戻る――とはあんまりにもかけ離れている。
結局、こうなってしまった以上、いつか必ず破綻するだろう。
でも、娘は違う。
みんなを助けなくとも、アズルとコメルなら人間世界に戻れるかもしれないのだ。
祝福を持っている人間の肉はどうも違うらしく、食べた人は安定した状態が保てる。
二人がそうしたいと思えば、普通を装って、聖王国に紛れ込めるはずだ。
しかし……
人を騙して、人を殺して、人を食べて。
とくに子供にとって、常識を揺るがす行為である。
こんなことをしてなお、果たしてまだ人間でいられるのだろうか
いま娘が手にしている肉も、昨日連れてきたヒャーナという冒険者のものだ。
コメルが手を下した。
というわけではない。
でも、ヒャーナが襲われるところを、コメルは何も言わずに、ただ最後まで傍観していた。
いつものように、連れ戻した人間がアズルに捌かれるのを、ぼうと見つめて。
コメルはなんの覚悟も持たず、ただずっと自分の傍にいたいと願っていただけなのかもしれない。
それでも、きっと、すでにぎりぎりのところまで来ている。
実際のところ、今回は冒険者の一行を騙してここに連れてきただけでなく、せっかく用意した料理にわざと異形の肉を混ぜた。
ドンナは冒険者たちに頼んでなんとかして娘だけでも後方に連れ戻してもらえればと考えたのに。
もしこれ以上誤ったことを実行してしまえば……
きっと、本当の意味で人間でなくなってしまい、人間の世界には二度と戻れない。
自分が卑怯なのは、ドンナも知っている。
しかし親として、どうしてもその希望は捨てきれなかった。
だから、苦しくても人の肉を食べることを断った。
――娘に、それはやってはいけないことだと教えるために。
親は、身をもって子供に示す必要がある。
いま、コメルは待っているのだろう。
アズルを倒した、あのベーゼという男を。
あの男は祝福を持っている。
そしてコメルは彼の肉を自分に食べさせようと考えるはずだ。
いまなら、まだ間に合うかもしれない。
せめて、殺人だけには手を染めさせるわけにはいかない。
「おっと、ここがゴールかな」
男の声がした。
騒々しい音にまぎれて、やがてはっきり伝わるようになる。
昔近所に住んでいた人たちが宙に舞う。
首と胴体が切り離された形で、血飛沫を纏いながら……
そして、ドンナは最後の力を振り絞って叫んだ。
「あの槍に触れてはいけない!」




