第4話 帰還
一時間後。
薄緑壁の向こう。
螺旋階段の隅っこに座り込んで、クリシスは半眼で男の奇行を眺めていた。
腰に下げた長短不揃いの二本の剣。中の短いほうを手にして、ベーゼは薄い緑の壁に間断なく斬りつける。
クリシスには武道の心得がない。
でも小さい頃よく勇者に剣の稽古を見せつけられたので、良し悪しは分かる。ベーゼがいかにも適当に発した剣技はやや不細工ながらも、たしかに冴えたるものがあった。
でも……なぜこんな不毛なところに使うのか、と彼女も思った。
閃光とともに空振りの音が薄暗い空間に響き、しかし全ては術式に触れた途端泥沼に囚われたように沈んで消えていく。
「なるほど、こりゃ確かに出られないな」
額にわずかに汗が滲んだところ、ベーゼはようやく剣撃をやめた。
「だから言ったではありませんか。お父様の『封印』と聖剣ハルパーの『空間』。最終防衛術式は両者の力を合わせて成し遂げた大魔法なのです。魔族は阻み、人間は収容する。そして一度中に入れば出られませんと」
祝福と聖遺物。
選ばれし者が生まれつき持つ異能と、祝福を持つ人間の身体を使って鍛え上げた武具。最終防衛術式はそれらに由来するもので、だからこういう特性を持つと……
クリシスとしてはもう舌が疲れるぐらい繰り返していた言葉だが、ベーゼは全然耳を貸さなかった。むしろ清々しいほどのマイペースぶりである。
「いや~こういうのってどうしても試したくなるわけよ。ハハハ、にしてもなんとも精巧に作られたもんだ。さすが術式界の重鎮ハルトマン卿、恐れ入るぜ」
剣を腰に戻して、ベーゼは両手を腰に当てて術式を見つめる。
通路のあちこちに剣戟の痕が残ったものの、肝心の術式は依然なにごともなかったようにゆったりと波を打つ。
クリシスが腕を伸ばして触れてみると、柔らかく弾き出されるだけだった。
「納得いただけましたら上へ行きましょう?」
クリシスは手を壁について踵で立つ。
ベーゼがくれた薬のおかげで足裏の状態はだいぶよくなったが、歩くとまだ痛む。
上を見る。
城塞まで続く螺旋階段は先がまるで見えてこない。
だからまたベーゼの背中を世話になる必要があった。
「ここは注意して、あとそこも」
あちこちに設置された罠を、クリシスはベーゼに教えて、二人は上を目指す。
「嬢ちゃん、隠し通路にしてはおっかないな」
「身内が使えばなんの問題もありませんわ」
「ハハハ、一理ある」
そう他愛もない相槌を打ちつつ、やがて二人はクリシスの知る正しい出口にたどり着く。
仕掛けを動かすと、ガタガタという騒音が立って、壁は内側へ凹み、光が差し込んだ。
「おお、実に貴族令嬢らしい無駄に広い部屋じゃねぇか」
極上の素材を使用した家具と調度品。職人の手により豪贅と歴史の静寂が完璧に調和された空間を、ベーゼは無駄に広いとの一言で片付ける。
無論部屋の主は不愉快になるが、いま彼女はそれよりも大事なことがある。
「ベーゼさん、しばらく後ろを向いてもらえます?」
「ん?なんだ、着替えるのか。おっと」
返事よりもはやくマントをベーゼに投げ、クリシスはクロゼットから衣類を取り出す。
できればまずはお風呂に入りたかったが、贅沢が言える状況ではなかった。
下着を通して、シャツを着込んでからコルセット式のスカートを穿く。下はガーターつきのタイツにロングブーツ。動きやすさを重視した、クリシスがいま選びうる最善の服装だ。
「嬢ちゃん、いけないな。乙女が男のいる場所で着替えるのに恥じらいの一つもないなんざ、見てるこっちも残念でしかたがない」
振り返って、クリシスは軽蔑を込めてた視線で思いっきり睨む。
マントを羽織り直した変質冒険者は腕を組んで無遠慮に眺めているのだった。
「もう何時間も自分の裸を鑑賞するような人に素肌を隠しても意味ないでしょう」
「いやはや、そう言われると返す言葉もない。しっかし、あの時といい、いまといい。全部裸であって、女の子の裸じゃないんだよね」
このひと、なにうまいことを言ったような顔をしているのかしら。
クリシスは呆れを通り越して感服すら抱くようになった。
「ベーゼさん、いったいどのようにすればそこまで図々しくなれるのでしょうか。私は」
「シっ!」
今度こそ言ってやるというクリシスの気持ちを、ベーゼはやや乱暴に断ち切る。
とことこ、突如静まり返る中、ただ部屋の外から足音が伝わってくる。
クリシスと出会ってから発していた飄々とした雰囲気がまるで嘘のように消え、ベーゼの顔から無遠慮な笑みが剥がれ落ちていく。
トントントントン。
ノックする音が律儀に四回響く。
クリシスの心拍数がぐっと上がった。
なぜなら、このノックの仕方は彼女がある少女に教えたもので、いわば二人だけの合図のようなものだ。
「ベーゼさん、やめ、」
風を切る音がした。
――抜き払った短剣を、鋭い殺気を放つベーゼは相手の喉笛を裂く寸前に留める。
予感は悪い想像のまま、現実にはならなかった。
「嬢ちゃん、声が一歩遅かったらもう遅かったぜ」
「え、えぇ」
声の震えを抑え、クリシスは腕を組んで手のひらに滲む汗を隠す。
知った命が危うく消えてしまうこと。知った人物が躊躇なく命を奪う人間であること。隠し通路で少し穏やかになった心は、一気に現実へ引き戻された。
――なのに、当事者。
小麦色肌のメイドは涼しげな顔だった。
いままさに刃物を喉に突きつけられている事実を物ともせず、髪同様琥珀色の瞳はまっすぐクリシスを見つめている。
「お嬢様、なぜお戻りになられたのですか」
クリシスがよく知る平坦な口調で、若干責立てるように問うた。
「あなたはいつどこにいても冷静ですね、リサ」
胸を撫で下ろしつつ、クリシスは苦笑する。
「いいえ、冷静ではなく、冷淡なだけでございます。いまもこうして水掛け論に参加したくないと思い、お嬢様の部屋で一息つこうかと参ったわけです。して、ひとまず自己紹介をさせていただいたほうがよろしいかしら」
そこでようやく視線を剣に落として、メイドの少女はベーゼのほうに向いた。
「初めてお目にかかります。クリシスお嬢様付添いメイドのリサと申します。以後お見知りおきを」
「ほほ、主人と同じなかなか個性的なメイドさんじゃねぇか。オレはベーゼというんだ。長く付き合うつもりはねえが、屋敷にいる間は世話になるぜ」
にんまり笑い、ベーゼは短剣を鞘に戻す。
クリシスは慌てて二人の間に入る。
「リサ、この方はお父様がお呼びした特級冒険者なの、重傷を負った私に貴重なスクロールまで使ってくださいました。しいて言えば命の恩人……かな」
言っているうちに色々こみ上げてきたせいで、最後は疑問形になった。
一方、聞いているリサは相変わらず感情の読めない顔をしている。
「なるほど、これは失礼いたしました。人を見るなり武器を持ち出すところからして、どこの難民がお嬢様の部屋に乱入したと勘違いしてしまいました」
そして口から出た言葉は主人を尽くすメイドとは思えない毒々しいものである。
「ほほ~」
ベーゼは意味深に目を細めた。
「メイドちゃんこそ、身体から変な匂いがぷんぷんしやがるが、何か心当たりはないかな」
「それでしたらきっと血の匂いでしょう。さきほど執事のクンペルの死体が発見されまして、わたくしも丁度その場にいたので」
そっけなく、まるで取るに足らないことを口にしたように、リサは答えた。
クンペルの、死体?
空白状態となるクリシスの頭に、一陣の風が吹く。
気がつくと、ベーゼはすでに部屋から飛び出していった。
「っつ!」
「なりません。お嬢様、いま行かれては大変なことになります」
部屋を出ようとしたクリシスを、リサは腕を捕まえ掴んで止める。その口調はクンペルの死を宣告した時と同じく平坦で、無感情だった。
「どういう意味ですか!」
クリシスは思わず声を荒げてしまった。
クンペルといえば領主の側近。いわば右腕に当たる人物だ。
こんな大役を担う人まで亡くなっては、屋敷内がどんな状況に見舞われているかは想像に難しくない。
目を伏せて、リサは一瞬ためらう……そして、クリシスの腕をそっと離した。
「致し方ありません。ベーゼ様も既に行かれましたし、お嬢様がお戻りになられたことを隠し通すには無理があるようですね」
「あっ、ごめん……」
屋敷で、リサはクリシスにとって一番親しい人物だ。
それだけ長い時間を共に過ごして、信頼している。
彼女がクリシスに害をもたらすことは万が一でもありえない。
さっきクリシスを引き止めたことも、思えば何かの理由があるはずだ。
「お嬢様が謝るようなことではありません。参りましょう。こうなったら早めに現状を理解していただいたほうがよろしいです」
腕ではなく、今度はクリシスの手を引いて、メイドは歩き出す。
昔はよくこうして一緒に屋敷中を駆け回ったものだ。
久しぶりに感じたメイドの温もりで、クリシスは過去のことを思い出す。
しかし、手のひらの温かみと別に、心の一部は冷えていく。
長い廊下に、無数の窓が連なる。
そこには平和と無縁の狂気が呈していた。
薄緑の光沢を放つ最終防衛術式の一枚向こう側。
関節型がうじゃうじゃと群がっている。
高低差の激しい斜路に溜め込んで、まだ居住区である上ベリーには侵入できずにいるが……武器庫、厩舎を内包する下ベリーは既に異形に落とされていた。
見渡す限り、人間の形をするモノはなかった。
いま異形の口に頬張られているのは鉄器、もしくは煉瓦、もしくは石畳。自然の木々には決して触れない異形は、人だけでなく、人の営みさえ無情に呑み込んでいく。
――まるで、人間という種を跡形もなく大地から消し去るかのごとく。
唇を噛んで、クリシスは屋内に視線を戻す。
こんな自分でも、必ず何かできることはある。
そう、信じて。




