第2話 ドレシア【イラスト:砂漠の町】
青年の嘆息が木霊する。
起床してわずか五分も経たないうちに、これで五回目。
一回目は目が覚めた時疲労を感じてついたものであり、二回目は鏡の前に立って顔色が死人臭いと自覚してついたものであり、そして三回目はパンを一口かじってまずかったためついたものである。
ため息をつくと幸せは逃げてしまう。
というのが通説だが、しかし彼にしてみればため息という行為は不幸によるもので、むしろ一般常識のほうがおかしいのだ。
土色の固まった薄暗い視界。
装飾など施されていない、というより、ややサビ臭くて、廃屋に思われても仕方がない一室に、青年――ミゲルは今日六回目のため息を盛大につく。
その理由は五回目と同じく、眼の前にある。
高窓から差し込む何筋の光は、鱗粉のように舞う灰燼を照らす。
目元に深い隈ができて、どこか気力の抜けた印象を受ける青年は寝癖のついた深緑の髪を掻いて、続いてまた「はぁ……」とため息が出る。
「こりゃ、どうするもんかね」
その手に、さっきドアを開けた時ヒューと落ちてきた手紙、つまり四回目のため息を招く元凶を握っている。
封筒の内部、何も封入されていない代わりに、微かに人を魅惑するような香りがする。
その嗅ぎ慣れた匂いは間違いなく界隈最大の商会の主――アルキュミアによるものだった。
借金主からの呼び出し。
いつものことで、別にここまで立ち尽くして迷う必要はない。
問題になったのは門をくぐった後だ。
古びたドア。
その裏に、一本のナイフが突き刺されている。
殆ど錆がついて使い物にならない獲物だが、見た瞬間ミゲルは思わず顔を押さえた。
「勘弁してくれ、こっちも起きたらすぐに来いってか」
無論、同じく呼び出しだ。
前一度放置したせいで蹴破られたドアを見て、ミゲルは更にため息を一つ。
前回のこともあるし、今日のところは旧市街に行くか。運が良ければ、すぐ商会のところに行く可能性もある。あっては、ほしくないけど……
リスクを天秤にかけて、ミゲルはとりあえず目的地を決める。
それで階段を登ることにした。
仕事の都合上、ミゲルの家は地下にある。
ゆえに家を出入りするたびに長い地下階段を通るわけだが……
路地裏に位置しているため、雨宿りのできる場所はホームレスや物乞いの住処になりがちだ。ここ半年は経済が悪化したせいで、そういう人間はとくに増えている。
地面に転ぶ儚い目つきの連中を一瞥して、ミゲルはため息をつく。
どのみち、同じく今日生きるのが精一杯の人間で、そんな奴らに気を配る余裕はどこにもない。さっさと仕事に行くのが身のためだ。
「ったく、日差しは相変わらず痛々しい」
地上に出て、路地裏から抜け出せば、いやでも日光の世話になる。
突如明るくなったせいでぼやけ始める視界。
ミゲはしばし立ち止まって、大通りの雑踏に分け入る。
「ちくしょう、今日もまったく商売にならん」
すると、いきなり文句が耳に入った。
「こんな店さっさと畳んじまいよ、おっさん。客がなきゃ無駄骨を折るだけだろう。家に引きこもってたほうがまだマシだ」
親切のつもりで助言したものの、上半身裸の魔石商人が舌打ちする。
「なんだ。ミゲルか。相変わらず死にそうな目をしやがって、毎日血反吐をはくように働いてるくせに、よくくたばらなかったな」
皮肉まじりの挨拶である。
ミゲルはため息をついて釘を差す。
「ただでさえ異形のせいで東も西も客が来ないんだ。最近じゃよく分からん病気も流行ってるらしい。稼ぎにならんなら家にいることをおすすめするぜ」
「あんたみてぇなわっぱに説教されたくねぇわい。そんなこと知っとる。こちとら商会に高い金を払ってセントラル通りで店を出してるんだ。こんなご時世だからって『はい閉める』なんてできるもんか」
怒りで、店主の山羊髭が上下に震える。
こうやって悪態をつかれるのは日常茶飯事みたいなことだから、「はいはい」とミゲルは適当に流す。
不景気でもせめて店を開く。
こういう商人の根性は分からなくもないが、いい加減現実を見ろとミゲルは思う。
いつもなら人で埋め尽くされるほど賑わう通りはすっかり去勢されてしまったように秩序のある賑やかさになっている。貿易商や観光客向けの店ほどいい位置をとるが、大陸の流通がままならない今はコストがかさばるだけだ。
その上、店主が扱っているのは魔石。
原産地として名を馳せたここでは、地元の人が買おうとしてもまずこの手の店には来ない。
もっと安く手に入れる方法なんていくらでもあるから。
「昔は人魔大戦でも普通に商売をやったのによ……」
ぶつぶつと、店主はまた不景気を言葉にする。
大陸の東西を繋ぐ商人の町――ドレシア。
高く聳え立つクレトム山脈に囲まれ、砂漠の過酷さに晒されることのないオアシス。
西大陸の神への信仰を受け入れつつも、神を否定する東大陸の姿勢も拒むことなく、大陸のありとあらゆる人間を歓迎する場所。
英雄リアン・トルヴィスの手により独立して四百年あまり、恵まれた魔石資源で魔族とも密かに協力関係を結んだことで、人魔大戦の最中でも戦火から逃れてはいたが……
今回は商いの道が絶たれただけでなく、魔族ではなく異形による脅威に放り込まれた。
「リアン様がご存命であれば、なんとかしてくれるだろうかね……」
「どうだろう。いくらあの方でも無理があるんじゃねぇ?」
二人は見上げる。
三面絶壁。
馬蹄形になるドレシアはまさに言葉通り山脈に抱擁されていた。
ただ、岩石の物々しい雰囲気はまるでなく、西側の山脈から流れ落ちる雪解け水のおかげで、むしろ木々が茂り、街全体が緑に囲まれている。
そんな町の南側――北の正門から城内に入るとまっさきに目に飛び込むところに、岩壁を利用して彫刻した巨大な石像がある。
右手に剣を、左手に宝石。
およそ百メートル以上にも及ぶ人造物は、町の創始者リアン・トルヴィスの姿を完璧に再現している。
無論、ミゲルは実際に四百年前の英雄なんて会ったことがなく、ただある年寄りの言葉を鵜呑みにしているだけだが。
かつて通商路の経由地となるドレシアは秩序がなく、派閥争いの激しい無法の地だった。
とくに重要な資源である魔石鉱が発見されて以来、各国の勢力が一斉に押し寄せて、利益を巡って醜い争いが続いていた。
当時開鉱作業に当たった労働力は殆ど奴隷ということもあり、指導者の一言で大規模な乱闘が起きるのもしばしで、掘り出した鉱物より人間の死体が多いのが日常だった。
そんな人々に共存という可能性を提言したのが、まさしくリアン・トルヴィスである。
ほんとうに大した男だとミゲルは思う。
奴隷のふりをして働き、鉱石に対する優れた洞察眼で抜擢され、のちは鉱山の責任者まで上り詰めた。にもかかわらず、奴隷を全て解放してから雇い入れることにした。
そんな破天荒な真似を、無論当時の管理者が看過するはずがないが、鉱山の利益を一ヶ月で数倍にしたことで、無理やり認めてもらった。
そこからはまさに快進撃。
蓄えた資金で廃鉱を次々と買い取ってから利益もしっかり出し、たちまちドレシアの一大勢力に成長した。
東西両方の勢力に狙われるのはごく自然の流れだった。
何しろ、奴隷の心に良からぬ妄想を抱かせて、権力者の既存利益を脅かした。
それでも、リアン・トルヴィスは奴隷制を拒否し、あくまで雇用こそ商業の正道だと訴えた。
その結果、しばらく血で血を洗う歳月が流れたものの、町に居座る組織が解体になり、現在のドレシアになった。
「今回は武力も鉱物も助けてくれそうにないがな」
時間を見計らいながら、ミゲルは相槌を打つ。
「結局頼れるのはアルキュミア様だけかい」
店主はセントラル通りの最奥に聳え立つ巨大なドーム状の建築を見る。
それは町を牛耳る最大の組織――ウリウス商会。英雄が立ち上げた組織は四百年の間に変わることなく、リアン・トルヴィスが描く理想を守り抜いてきた。
「現状から言えばそれしかないんだがな」
口ではそう言っているものの、ミゲルはため息をつく。
店主のような一般住民こそ知らないが、彼はあちこちの依頼に振り回される人間で、嫌でも水面下のことを聞かされてしまう。
「悪いことはいわねぇ、おっさん、店は閉めてちゃんと家にいたほうが身のためだぜ」
「ミゲル、おまえ……」
それでようやく言葉の裏に潜んでいるものに気づいたのか、店主の目つきが鋭くなる。
対してミゲルは相変わらず疲れた表情で肩をすくめる。
「じゃな。オレは仕事に行くんで」
そう、歩き出した。




