とある城にて
「しくじった、だと……!? お前のその言葉が、この私にどれ程の失望と怒りを覚えさせることになるのか、本当に分かっているのかアビゲイル!!」
天井に吊るされた魔動式角灯より発せられる、乳白色の薄明かりにぼんやりと照らされた部屋の静謐を、憤怒に満ちた男の絶叫が打ち破った。
突然に鼓膜へと叩きつけられる怒声に、思わずアビゲイルは軽く眉を顰める。
それでも、彼女は自身の苛立ちが表情へと出るのを抑えながら、二人の護衛の兵士に挟まれて正面に立つグランドール公へと、出来る限り恭しく頭を垂れた。
「誠に申し訳ございません、閣下。此度の不始末が閣下の御気分を損ね、今後への御懸念を抱かせてしまいますのは、ごもっともの事。これよりは閣下の御心痛を一刻も早く取り除くべく、これまで以上に全霊を賭して、対象の確保へと臨む所存でございます」
「そんなもの、当たり前だろうが!! そもそも、お前の弟子の所へと向かわせた悪魔を、どうしてこちらへと呼び戻しているのだ!? 捕らえるべき相手をみすみす逃したというのなら、そのまま地の果てまでも追わせれば良いではないか!!」
「お言葉ではありますが、契約者である私とかなりの距離を隔てている以上、かの者がこの人間界で活動できる時間には限りがあります。仮に、このまま継続して追跡を行えば、魔力の欠乏から行動に支障を来たすのは、火を見るよりも明らか。となれば、ここは一度こちらも態勢を立て直し、万全の状態で再び出直すのが上策かと……」
現世へと召喚された悪魔は、その契約者より受け渡される魔力を糧として力を発揮し、受肉した自らの姿形を保つことが可能となる。だからこそ、彼らは自身の契約者から魔力を供給できない状態で、長い日数を過ごすことは叶わない。
ギスティアをメリッサの元へと向かわせる際、噛んで含めるように説明したはずのその内容を完全に忘れているらしい自らの主に、アビゲイルは面を伏せたまま音を立てずに嘆息する。
一方、そんな彼女の不敬を気取る様子もなく、グランドール公はその豊かな頭髪を掻き乱しながら、骨張った相貌をひくつかせて毒突いた。
「まったく、あの役立たずの地獄の獣め―。たかが小娘一人も捕らえられんとは、これでは同じ狗でも我が猟犬の方が、まだ役に立つというものよ!」
「ですが、どれ程に優れた狩り手であっても、相手が逃げ足の速い小賢しい雌狐となれば、相応の手間は避けられぬもの。加えて、それが他人の狩場に住み着いている獲物となると、それこそ人外の狩人をおいて他に適任はいないかと」
「では何故に、あの魔犬は何も咥えず、おめおめと主人の下へと戻ってくるのだ!? あれがお前の言う通りの小賢しいケダモノだとすれば、己の責を果たさずに帰るなど、有り得ぬはずではないか!!」
淡々と言葉を返すアビゲイルに、グランドール公は憤然として口角泡を飛ばす。
しかし、その威圧的で傲岸不遜な物腰とは対照的に、朱色に染まった顔面へと収まる彼の血走った双眸は、抑えようのない焦りと怯えから小刻みに揺らいでいた。
「大体、貴様といい、あの『胴無し男』といい、悠長に過ぎるのだ!! 余の側近の中には、既に王都は我々の動きを嗅ぎ付け、偵察のための斥候を放っただ、討伐のための軍を編成しているだのと、まるで挨拶代わりに噂する者までおる! それらの小五月蠅い羽虫の羽音が、どれ程に余にとって耳障りであるのか、お前には分かるか!?」
「生来の気品と才覚に欠ける凡庸な者は、他愛もない流言に容易く惑わされ、在りもしない脅威を無知の霧へと見出すのが常。下賤の生まれである私のみならず、得体の知れない身であるあの『首だけ男』を、その崇高な目的のため配下へと加えられた、類稀な先見の明をお持ちである閣下にとって、それらが如何に無意味で煩わしいものと聞こえるか、畏れ多くもお察し申し上げます」
「ふん……世の理を操るその指同様、相も変わらず達者に動く舌よの。まあ良い、余は元より有象無象の戯言など、聞く耳は持ってはおらぬ。だが、此度の一報を受け、家臣共の間に動揺が広がりつつあるのも事実。貴様は疑心暗鬼に囚われているあやつらを、一体どう説き伏せるつもりなのだ?」
「今回における対象の捕縛は残念ながら不首尾に終わりましたが、既に例の『計画』は最終段階まで来ております。そして、万全を期した次回の作戦では、必ずやあの娘を捕えてご覧にいれます。そうなれば、閣下の大願は遠からず成就の日を迎え、王都の脅威などもはや取るに足らない瑣末なものと相成るでしょう」
「なれば、一刻も早くあの悪魔を呼び戻し、再びかの地へと放つのだ! 次また余を失望させることがあれば、主である貴様共々もう後はないと、あの黒き獣にも伝えておけ!」
最後にそう居丈高に言い放ったグランドール公は、豪奢な毛皮織りのマントの裾を振って踵を返し、革靴の高い音を響かせながら魔術工房より去って行った。
やがて、主の後を追随する近衛兵達の固い足音も、上階へと繋がる階段の先へと消えていく。
室内より彼らの気配が消えたのを確認した後、アビゲイルはゆっくりと伏せていた面を上げる。出入り口の方を見やるその切れ長の三白眼には、先程までの取り澄まされた真摯な眼光に代わり、倦怠と徒労の混ざった虚ろな眼差しが現われていた。
かつての戦乱において、手段を厭わない権謀術数にて戦功を重ね、現在の領主としての地位を得たとされるグランドール公は、典型的な野心家であり自信家でもあった。
そして、アビゲイルは城付きの魔導師として彼に仕えることになった際、その単純で不安定な性格を即座に把握していた。
だからこそ、彼女は少しばかりの弁舌と忍耐力を労するだけで、主人の気紛れな勘気を上手く凌ぎ、その権力と財力を自らの研究の助けとし続けられていたのだった。
しかし、この日のグランドール公の様子は、今までとは明らかに雰囲気を異にしていた。
彼の執拗とも言える性急さや、その臆病にも見える警戒心。
これらは、自分が城へと迎えられたそもそもの理由でもある、例の「計画」が原因であるとアビゲイルは知っていた。
彼女自身もその主導的な立ち位置にある「計画」は、先程のグランドール公に対するおざなりの返答にもあった通り、目標の達成は目前へと迫っている。
しかしながら、自分が参加してから一年近くを費やし、ようやく領主の悲願も成就を迎えつつあるこの時になって、アビゲイルはどうにも形容し難い、一抹の不安を抱き始めていた。そして、胸奥へとわだかまるその消化不良の感を解消するためには、彼のもとへと出向く必要があった。
アビゲイルは、城の一室を改装した自身の作業場と、その端に掛かる階段の先を今一度見渡し、周囲に人目が無いことを確認する。
その後、彼女は簡単な呪文を唇の合間より漏らしつつ、右手の指を腰の辺りで蠢かせる。
瞬間、湿った薄闇の空気を音もなく裂き、部屋の中央へと縦長の黄色い輪が出現した。
突如として現れた、燐光を纏った人間大のその裂け目に、アビゲイルは何ら躊躇うことなく身を潜らせる。
微風がその栗色の髪を小さく揺らし、僅かな浮遊感が彼女の身を包んだ直後。
光を放つ輪を通り抜けたアビゲイルの前には、彼女の魔術工房と同じく異能的で雑然とした、それでいて全く別種の奇怪さに満ちた空間が立ち現われていた。




