8 馬鹿は馬鹿なりに逃げるらしい
湖沿いの道は、思ったより走りにくい。
片側は水。片側は低い林。道は狭く、曲がりが多い。馬車なら、速度を出しすぎると車輪を取られる。
なのに、轍は深い。
「急いでいるわね」
「はい」
ジェイは馬を寄せ、道の端を見る。
「ただ、速さが一定ではありません」
「どういうこと?」
「ここはかなり急いでいる。ですが、少し前の曲がりでは慎重に通っていた。御者が道を知っているなら、こうはなりません」
「つまり」
「御者が替わった可能性があります」
私は手綱を握り直す。
「ロビーという御者ではない?」
「あるいは、途中からクリスが自分で御者台に上がったか」
「あの人、馬車を扱えるの?」
「扱えると思っています」
それは、できるとは違う。
「なるほど」
実に分かりやすい。クリスはそういう人だった。
馬には乗れる。狩りもする。剣も振る。踊れば目を引くし、声もよく通る。
ただ、何かを最後まで面倒見る人ではなかった。
馬を褒めることはできるけど、馬具の手入れをするのは従僕の仕事だと思っている。
馬車に乗ることは好きだけど、道を選ぶのは御者の仕事だと思っている。
その人が今、駆け落ちの御者をしている。
腹は立つが、少しだけ不安にもなる。シャーリーンはともかく、巻き込まれた馬が気の毒だ。
「急ぎましょう」
「はい」
修道院跡の宿に着いたのは、白鹿亭を出て一時間ほど後だった。
灰色の石壁が、森の中に残っている。昔の礼拝堂を改装したらしく、尖った窓の下に小さな看板が出ていた。
緑の馬車はない。厩にもない。
「……外れ?」
「まだです」
ジェイは馬から下りると、厩の前にいた少年に声をかけた。
「緑の馬車は来たか」
「来ましたよ」
少年はすぐに答える。
「いつ」
「半刻くらい前です」
「客は」
「男の人だけでした」
私はジェイを見る。彼もこちらを見る。
「男の人だけ?」
少年に聞き返す。
「はい。若い男の人。金をくれて、こう言えって」
「何て」
「金髪の綺麗な奥様と一緒だった、って」
頭が痛くなってきた。いや、頭ではない。腹だ。
腹のあたりが、じりじりする。
「言われた通りに言うつもりだったの?」
「でも、本当のことを言った方がもっと金になるかと思って」
悪びれない。するとジェイが懐から硬貨を一枚出す。少年の目がそこへ動く。
「では、本当のことを全部言いなさい」
「緑の馬車は来ました。男の人だけでした。御者はロビーじゃなくて、その男の人がやってました。すごく下手でした」
「その男は?」
「馬車を置いて、裏の道へ行きました」
「一人で?」
「はい」
「シャーリーン様は?」
「見てません」
やられた。
白鹿亭で北の道を聞く。緑の馬車を修道院跡まで走らせる。ここで目撃者を作る。
その間にシャーリーンは別の道へ。
「変なところには頭が回るのね」
口から出た。ジェイも否定しない。
「兄ですから」
「悪口になっているわよ」
「事実です」
少年がこちらとジェイを交互に見ている。面白がっている。まあいい。子供はこういうものだ。
「その男はどちらへ?」
「裏の古道です」
「古道?」
「今はあまり使わない道です。森を抜けると、石切り場の横に出ます」
ジェイが地図を出す。白鹿亭で確認した地図には、その道は細く薄く書かれているだけだった。
「ここか」
「そこです」
「その先は?」
「道が二つ。町へ戻る道と、川沿いの倉庫へ行く道」
「倉庫?」
「果物とか羊毛とかを積むところです。荷馬車が出ます」
私は息を吐く。
「シャーリーン様は荷馬車かしら」
「可能性はあります」
ジェイは少年へ硬貨を渡す。
「その男は何か置いていったか」
「馬車の中に、これが」
少年は厩の柱の裏から、細長い箱を出した。見た瞬間、手が伸びる。兄の眼鏡箱だ。
革張りの、少し古いもの。兄が普段使うものではない。遠出の時に予備の眼鏡を入れる箱だ。父の形見でもある。
「これを、どこで」
「馬車の座席に落ちてました」
「落ちていたんじゃないわ」
私は箱を受け取る。
「盗んだのよ」
箱を開けると中は空だった。予備の眼鏡はない。箱だけ。
シャーリーンが持ち出したのか。クリスが何かに使ったのか。
それとも、馬車を探らせるためにわざと残したのか。
分からない。ただ、腹は立つ。父の形見にまで手を出したのだ。
「アマンダ嬢」
ジェイの声が少し低い。
「はい」
「これは、必ず取り戻します」
その言い方は、謝罪ではない。約束だった。だから、うなずく。
「お願い」
「はい」
その返事が、先ほどより近く聞こえた。




