7 借りた名を返してもらう
白鹿亭に着いた時、入口の前にはまだ馬車の轍が残っていた。
深い。新しい。
「来ていたわね」
「はい」
ジェイが馬から下りる。私も続く。
白鹿亭は、湖を見下ろす小さな宿だ。白い壁に青い窓枠。入口には鹿の角を模した看板が下がっている。
たしかに景色はいい。湖面が昼の光を受けて、銀の皿のように広がっている。
だが、今はどうでもいい。
◇
中に入ると、女将らしき女性がこちらを見て、すぐに笑顔を作った。
「いらっしゃいませ」
「フェンウィック家のクリストファー様と、エルフォード子爵夫人シャーリーン様が来たはずよ」
女将の笑顔が固まる。分かりやすい。
「……お客様のことは」
「隠さなくていいわ。こちらはフェンウィック伯爵家のジェイ様。私はエルフォード子爵令嬢アマンダ。二人を追ってきたの」
女将の視線がジェイへ動く。ジェイは懐から小さな印章を出した。
「答えてください。兄が来ましたね」
「……はい。少し前に」
「誰と?」
「金髪の奥様と」
金髪の奥様。その言い方だけで、胃の辺りが重くなる。けれど今は立っている。
「いつ出たの」
「半刻ほど前です」
一歩遅かった。腹立たしいくらい、きれいに一歩遅れた。
「どこへ」
「存じません」
女将はそう言った。言ったが、目が一度、奥の廊下へ動いた。
「奥に何があるの」
「客室でございます」
「通して」
「それは」
「通して」
女将は唇を噛む。ジェイが低く言う。
「兄は代金を払いましたか」
「はい」
「《《何で》》?」
女将は黙る。
「硬貨ではないのね」
私は言う。
「シャーリーン様は何を置いていったの」
女将は諦めたように、カウンターの下から小さな包みを出した。薄い布を開く。
中にあったのは、真珠の耳飾りだった。見覚えがある。兄が、結婚一周年にシャーリーンへ贈ったものだ。
派手なものではない。ただ、粒はよかった。兄が何日も悩んで、王都から取り寄せたものだ。
シャーリーンは、それを宿代にしたのか。
「これは、うちのものよ」
声は思ったより低く出た。
「申し訳ありません。奥様が、あとで取りに来ると」
「来ないわ」
私は包みを取る。
「これは持ち帰る。宿代はエルフォードから払う。グレイヴスに請求して」
「で、ですが」
「盗品の疑いがあるものを預かるより、きちんと請求書を出した方がいいと思うけれど」
女将はすぐにうなずいた。
「はい」
ジェイが横から尋ねる。
「兄は何か言いましたか」
「……北へ行くと」
「修道院跡?」
「たぶん。あちらへ行く道を聞かれました」
「馬車は」
「こちらで替えました。前の馬車は裏に」
「見せて」
裏手へ回る。そこには、エルフォード家の小型馬車が置かれていた。見慣れた紋が扉についている。
腹の底が一段熱くなる。
「……うちの馬車まで置いていったのね」
「御者は?」
ジェイが女将に聞く。
「クリス様が、こちらで雇いました。北へ向かうなら道を知っている者が要ると」
「名は」
「ロビーです。湖沿いの道に詳しい男です」
「戻ったら引き留めておいてください」
「はい」
私は馬車の扉を開ける。中には何もない。何もないが、座席の隅に小さなリボンが落ちている。
薄桃色の絹。シャーリーンが髪によく使っていた色だ。
拾い上げると甘い香水が、まだ残っている。
赤ん坊の布には、ミルクの匂いがあった。このリボンには、花の匂いがある。同じ朝に、同じ人が残したものだ。
「行きましょう」
私はリボンを握る。
「修道院跡へ?」
「ええ」
「その前に」
ジェイが馬車の車輪を見る。
「この馬車、返す手配を」
「今?」
「はい。ここに置いたままだと、また勝手に使われます」
なるほど。腹が立っている時ほど、こういう人は必要だ。
「女将」
「はい」
「この馬車に誰も触らせないで。エルフォードの者を取りに来させる」
「承知しました」
ジェイはさらに、厩の少年を呼ぶ。
「北へ向かった馬車の特徴は」
「緑の車体です。馬は二頭。御者はロビー。急いでました」
「どれくらい前」
「半刻ほど前です」
まだ追える。けれど、また一歩先だ。
◇
馬に戻る途中、ジェイが口を開く。
「アマンダ嬢」
「何」
「追いついたら、どうしますか」
「捕まえる」
「連れ戻すのですか」
「違う」
私はベスの手綱を取る。
「好きにしたければすればいい。二人でどこへでも行けばいい。けれど、持ち出したものは返してもらう。兄さんが贈ったものも、この家の馬車も、借りた名も」
「借りた名?」
「エルフォード子爵夫人と、フェンウィック伯爵家長男という名よ」
ジェイは黙って聞いている。
「その名を使って宿に泊まり、馬車を替え、人を動かしている。ならまず、その名から降りてもらうわ。シャーリーン様には離縁に同意させる。クリス様には婚約破棄と、フェンウィック家からの処分を受けてもらう。必要なら勘当の書面も」
「父は、同意すると思います」
「早いのね」
「兄は、『ジェイなら代わりを務められる』と書いています」
ジェイの声が少しだけ冷える。
「なら、お望み通りにします」
「頼もしいわ」
「あなたほどでは」
「私は兄さんが育てたから」
今度は、ジェイがほんの少しだけ息を吐いた。笑ったのかもしれない。
馬に乗ると、湖からの風が強く吹いてリボンを外套の内側へ押し込む。
この先に、あの二人がいる。たぶんまだ、恋に酔っている。追われているとも思っていないかもしれない。
いいわ。追われていると分かった時、どんな顔をするか見に行こう。
「行きましょう、ジェイ様」
「はい」
馬を出す。湖沿いの道へ。




