6 連れ戻すためではない
廊下へ出ると、ジェイが一歩だけ後ろについてくる。
足音は早い。けれど急かされている感じはない。こちらが走れば走るし、止まれば止まる。
「着替えるわ。玄関で待っていて」
「承知しました」
「その間に、白鹿亭までの道を確認して。湖沿いの道で間違いないかも」
「はい」
ジェイはすぐに下がる。
自室に戻ると、ルーシーが先回りしていた。乗馬服が椅子の背にかけられている。
短い外套、手袋、髪をまとめるリボンまで揃っている。
「早いわね」
「お嬢様が追いかけると言ったら、これしかないと思いました」
「助かるわ」
ドレスのボタンを外している間にも、廊下の向こうで人が動いている音がする。
誰かが階段を下りる。誰かが厨房に走る。誰かが玄関で馬具を受け取っている。
家が動いている。
兄が今まで作ってきた家だ。大声で命じる主人はいない。けれど、皆が何をすべきかを考えて動く。
その家を、シャーリーンは退屈だと書いた。
リボンを結びながら、ルーシーが口を開く。
「お嬢様」
「何?」
「シャーリーン様は、戻るおつもりなんでしょうか」
「さあ」
「戻ってきても、私、前みたいにはお茶を出せません」
「なら出さなくていいわ」
ルーシーの手が止まる。
「よろしいんですか」
「兄さんの妻だからといって、何をしてもこの家の人に戻れるわけではないもの」
私は手袋を取る。
「それに、連れ戻しに行くわけではないわ」
「違うんですか」
「違う」
扉へ向かう。
「逃げたいなら逃げればいい。ただし、持って行ったものは返す。書くものは書く。兄さんとヘンリーにしたことを、泣いてごまかすのは許さない」
ルーシーは一度だけ大きくうなづく。
「行ってらっしゃいませ」
「行ってくるわ」
玄関広間へ下りると、ジェイはもう地図を広げていた。グレイヴスが横に立っている。
庭師のトムは外で馬を引いているらしい。開いた扉の向こうから、馬が蹄で地面を掻く音が聞こえる。
「白鹿亭まで、早駆けで一時間ほどです」
ジェイが言う。
「馬車なら?」
「湖沿いの道は曲がりが多い。小型の馬車でも一時間半はかかるはずです」
「なら、まだいるかもしれない」
「いえ」
ジェイは地図の一点を指す。
「兄が本当に白鹿亭を使うなら、宿に長居はしません」
「なぜ」
「景色を見せびらかすにはいい場所ですが、隠れるには向かないからです。店の者が客の顔をよく覚えます」
「華やかな逃避行には向いているけど、逃亡には向いていないわけね」
「はい」
実にクリスらしい。逃げるのに、景色のいい宿を選ぶ。
隠れるより、恋人と湖を見る方を優先する。そして後から困る。
「白鹿亭の先は?」
「二つあります。王都に戻る道と、北の修道院跡へ抜ける道です」
「修道院跡?」
「今は貴族向けの小さな宿になっています。白鹿亭より奥まっている」
「シャーリーン様が好きそうね」
「兄も好きそうです」
ジェイが地図を畳む。
「まず白鹿亭へ。そこで行き先を拾います」
「拾えなかったら?」
「宿の厩に聞きます。兄は馬車を替えるはずです」
「どうして分かるの」
「兄は同じ馬車に長く乗るのを嫌います。揺れがどうの、座席がどうの、御者の腕がどうのと言う」
「婚約している間に聞いたことがないわ」
「アマンダ嬢の前では、格好をつけていたのでしょう」
「それはどうも」
少しだけ口の端が動きそうになって、やめる。今、笑うには腹が立ちすぎている。
「お嬢様」
グレイヴスが、少し声を落とした。
「シャーリーン様のご実家、ベネット男爵家にも使いを出しておきます」
「実家……」
そこで初めて、そちらもあったのだと思う。
けれど、すぐに首を横に振った。
「ええ、お願い。でも、あの二人が叱られに行くとは思えないわ」
「私も、同じように考えております。ただ、来た時に知らぬ存ぜぬをさせないためです」
「助かる」
そうだ。
私は今、追うことしか見ていない。
だから、家に残る人間が網を張る。
「では、兄さんとヘンリーをお願い」
「承知いたしました」
◇
外へ出ると、灰毛のベスは首を高く上げ、こちらを見て鼻を鳴らした。
気性は荒い。
けれど足はある。
「お願いね」
首筋を軽く撫でると、ベスはもう一度鼻を鳴らす。機嫌が良いのか悪いのか分からない。
まあいい。今日は私も似たようなものだ。
ジェイは黒鹿毛の馬に乗る。泥が跳ねたままの乗馬靴が、鐙に入る。
「行きましょう」
「ええ」
門を出る。エルフォードの丘は、昼の光の中で穏やかに広がっている。
麦畑の向こうに、果樹園の若葉が見える。遠くの小川が白く光る。いい土地だ。
父が残し、兄が守り、私も守るつもりだった土地だ。
シャーリーンはここを静かすぎると言った。クリスも同じ気持ちだと書かれていた。
では、二人とも耳が悪い。
この土地には音がある。風の音、木の葉の音、台所で鍋が鳴る音、馬車が砂利道を通る音、赤ん坊が泣く音。人が暮らす音だ。
それを退屈だと言う人に、もうこの家の鍵は持たせない。




