5 追いかける!
少しして、グレイヴスが御者のハリスを連れて戻ってきた。
ハリスはまだ息が整っていない。帽子を両手で握りしめ、扉のところで立ち止まる。
「お嬢様、申し訳ありません」
「謝罪は後。どこで降ろされたの」
「南の古橋の手前です」
「なぜ」
「シャーリーン様が、気分が悪いから少し外の空気を吸いたいと。馬車を止めました。するとそこに、男の方が」
「クリス様ね」
「はい。フェンウィック家のクリス様でした。私は驚きまして」
「それで?」
「クリス様が、自分で御者をすると。私は戻るようにと。シャーリーン様も、今日はもう帰らなくていい、旦那様には私から言う、と」
「それで帰ったの?」
ハリスは顔を伏せる。
「おかしいとは思いました。ですが、シャーリーン様はこの家の奥様で、クリス様はお嬢様の婚約者で……」
「それはそうね」
責めるには弱い。確かにその組み合わせなら、御者は逆らいにくい。
「荷物は」
「小さな旅行鞄が二つ。ひとつはシャーリーン様のもの。もうひとつは、クリス様が持ってきておりました」
「大きさは?」
「膝に乗るくらいです」
ジェイが口を開く。
「では、長旅の支度ではありません」
「そうなの?」
「兄は服にうるさい。逃げるにしても、王都まで行くなら大きなトランクを使います」
「シャーリーン様もよ」
私はうなづく。義姉は美しい人だった。
いや、今でもそれは否定しない。金色の髪を結う飾り紐ひとつにも、必ず文句を言う人だ。袖口のレースの幅が少し違うだけで、半日機嫌が悪くなる。
その人が、小さな旅行鞄ひとつで遠くへ行くとは思えない。
「では、近場ね」
「はい」
ジェイはハリスを見る。
「南の古橋を渡ったあと、二手に分かれますね。右は王都街道。左は湖沿いの道」
「はい」
「どちらへ向かいましたか」
「左です」
「湖沿い」
私は思わず眉を寄せる。
「あちらには大きな街はないわ」
「宿はあります」
ジェイが言う。
「湖畔の白鹿亭。兄は以前、狩りの帰りに泊まったことがあります。景色がいいと気に入っていました」
「シャーリーン様が好きそうね」
風光明媚。湖。小洒落た宿。駆け落ちにはたいそうお似合いだ。
赤ん坊を置いていった後の宿としては、反吐が出るほど似合わない。
「何時間前?」
ハリスが答える。
「朝の九つ半頃です」
「今は」
「昼を少し過ぎました」
三時間ほど。馬車なら、まだ追いつける距離だ。
ジェイを見る。
「行ける?」
「すぐに」
「グレイヴス、ベスは」
「用意できております」
「ジェイ様の馬は?」
「門にあります」
さすがだ。来た時点で、追うつもりだったらしい。
すると兄が椅子から立ち上がる。
「私も行く」
「駄目」
「アマンダ」
「兄さんはヘンリーを見て」
「だが、私の妻だ」
「だからよ」
兄の手が止まる。
「兄さんが行ったら、シャーリーン様は泣くわ。たぶん綺麗に泣く。退屈だったとか、寂しかったとか、女として見てほしかったとか、そういうことを言う。兄さんは聞いてしまう。聞いてしまったら、この子を置いていったことまで、あの人の寂しさにされる」
兄は何も言わない。
「それは駄目」
私は言う。兄の指が、机の端に触れる。ぎゅっと握るわけでもない。ただ、触れている。
「私は、ヘンリーの代わりに怒りに行く」
「……アマンダ」
「兄さんの代わりにも」
それからジェイを見る。
「それと、自分の分もね」
ジェイは短くうなずく。
「私も、フェンウィック家の分を持って行きます」
「それは重そうね」
「かなり」
初めて、ジェイの口元がほんの少し動いた。
笑った、というほどではない。けれど、それで十分だ。
「では行きましょう」
「はい」
扉へ向かう。出る直前、兄が呼んだ。
「アマンダ」
振り向くと、兄は眼鏡の奥から、まっすぐこちらを見ている。まだ顔色は悪い。
けれど先ほどより、ほんの少しだけ目に力が戻っている。
「無茶はするな」
「無茶をするのは、あの二人よ」
「分かっている」
「私は回収に行くだけ」
兄はそこで、困ったように息を吐いた。
「お前は本当に、頼もしく育ったな」
「兄さんが育てたのよ」
そう返すと、兄は何も言えなくなる。
それでいい。今は、それでいい。




