4 兄さんは悪くない
書斎に戻ると、兄はまだ椅子に座っていた。
膝の上で両手を組んでいる。けれど指先が落ち着かない。右の親指が、左の親指の爪を何度も擦っている。
「兄さん、赤ちゃんは眠ったわ」
「ああ」
「ルーシーが見ている。メアリーも呼ばせた」
「ありがとう、アマンダ」
「だから謝らないでってば」
「礼だよ」
そう言われると、少し困る。私は返事をせず、テーブルの上の手紙をジェイに差し出した。
「これが、シャーリーン様の手紙よ」
「拝見します」
ジェイは受け取る。立ったまま読む。速い。けれど雑ではない。ひとつひとつの文を、目で押さえていっている。
最後まで読み終えると、もう一度、上から下まで目を通し、それから便箋を畳んだ。
「兄の名があります」
「ええ」
「兄の筆跡ではありません」
「そこは見れば分かるわ」
「兄は、こちらには何も書き残していないのですね」
「少なくとも、兄さんは受け取っていない」
兄を見る。すると小さく首を横に振る。
「クリス君からは、何も」
「こちらにはこれが」
ジェイは懐から紙を出した。封筒はない。折った紙だけだ。
「読んでも?」
「どうぞ」
私は紙を受け取る。字は知っている。婚約者だった男の字だ。
妙に大きく、勢いだけはある。本人は男らしい字だと思っていたようだが、私は時々、羽根ペンが気の毒になる字だと思っていた。
――父上、母上、申し訳ありません。
――私は家を出ます。
――どうか探さないでください。
――ジェイなら、私の代わりを務められるはずです。
――いずれ落ち着いたら、すべてお話しします。
以上。
「……こちらの方が短いわね」
「はい」
「しかも、私のことが一文字もない」
「そこは、私も気になりました」
気になった。その程度で済ませるのが、ジェイらしい。
私は紙をテーブルに置く。
「クリス様は、私との婚約を忘れて出て行ったのかしら」
「忘れてはいないでしょう」
「では、わざと書かなかった?」
「その可能性が高いと思います」
「どうして」
「書けば、自分が婚約者を捨てたことを認めることになるからです」
なるほど。アマンダという婚約者の名を書かなければ、彼の手紙の中ではただの家出になる。シャーリーンの名もない。
つまり、誰を連れて行ったかも書いていない。自分が何をしたのか、紙の上から消している。
「便利な手ね」
「兄は昔から、都合の悪いものは少し横に置きます」
「横に置かれても、こちらには落ちてくるわ」
「申し訳ありません」
「だから、あなたが謝るところではないって」
ジェイは一度、口を閉じる。それから兄に向き直った。
「ウィリアム様」
「はい」
「兄が、このようなことをしました。フェンウィック伯爵家の一員として、まずお詫びします」
兄は慌てて顔を上げる。
「いえ、ジェイ殿が悪いわけでは」
「それでも、兄は私の兄です」
ジェイは頭を下げる。深く、きちんと。
兄は困っている。こういう時、兄は本当に困る。怒るより先に、相手の立場を考えてしまう人だからだ。
だから私は口を挟む。
「ジェイ様。謝罪は後でいいわ」
「はい」
「兄さんも、受け取るかどうかは後でいい」
「アマンダ」
「今ここで丁寧に頭を下げ合っても、逃げた二人は止まらないでしょう」
兄は黙る。ジェイも何も言わない。よろしい。
「まず確認するわ。シャーリーン様はどこから出たの」
扉の外に控えていたグレイヴスが、すぐ答える。
「裏手の馬車口です。今朝、奥……シャーリーン様が、少し王都の仕立屋に手紙を出したいとおっしゃって、小型の馬車を出させました」
「御者は?」
「ハリスです。ですが」
「ですが?」
「途中で降ろされたようです。つい先ほど、徒歩で戻ってきました」
「呼んで」
「すぐに」
グレイヴスが出ていく。私は兄を見る。
「兄さん、知らなかったのね」
「ああ。今朝はヘンリーがぐずっていて、シャーリーンが少し出ると言った時も、私は」
そこで兄の声が止まる。ヘンリー。
甥の名が出た瞬間、胸の奥が痛む。兄とシャーリーンの子。まだ母親の腕を探す、小さな子。
「兄さんは悪くない」
「だが」
「悪くない」
強く言う。
兄は目を伏せる。そのまま膝の上の指を見ている。
泣くなら泣けばいい。ただ、この人はたぶん今は泣けない。
赤ん坊を抱いて、家の者に指示を出されて、客が来て、謝られて。泣く場所まで奪われている。
だから余計に腹が立つ。




