9 嫌になるほどわかる
修道院跡を出る前に、緑の馬車を確認する。
宿の裏に置かれていた。白鹿亭で見たものと同じだ。座席には、馬車酔いでもしたのか、汚れを拭いた跡がある。
床には泥。窓の桟には、白い粉が少しついている。
ジェイが指で触れる。
「白粉ですね」
「シャーリーン様の?」
「たぶん。けれど、本人はここに来ていない」
「なら、布か手袋につけておいて、ここにもいたように見せた?」
「そこまでした可能性はあります」
本当に、変なところに頭が回る。その頭で、赤ん坊の乳母を下がらせることも思いついた。
夫を一人で立たせることも思いついた。追手を遅らせることも思いついた。
なのに、ヘンリーのことは考えなかった。
「行くわ」
「川沿いの倉庫ですね」
「ええ」
「町へ戻る道もあります」
「そちらは後で押さえられる。荷馬車に乗られたら面倒」
「同意します」
ジェイはすぐ馬に乗る。私もベスに跨がる。
森の古道へ入ると、道はさらに悪くなった。枝が外套に触れる。濡れた土の匂いがする。
ところどころ、馬車の車輪ではなく、人の足跡が残っている。
「クリス様は徒歩?」
「おそらく」
「大丈夫なの」
「兄は歩くのが嫌いです」
「では、すぐ嫌になるわね」
「もう嫌になっていると思います」
少しだけ、胸がすく。しかし、その程度では収まらない。
森を抜けると、石切り場の横に出た。白い石を切り出した跡が段々に残っている。
そこから川へ向かう道に、荷車の跡がいくつも重なっていた。追いにくい。
どれが新しいのか、ぱっと見ただけでは分からない。ジェイは馬を下り、膝をつき、泥の上の跡を見る。
「ここで馬車から荷車に替わったなら、もうかなり紛れます」
「足跡は?」
「兄の靴は分かります。踵の金具が少し欠けているので」
「よく知っているわね」
「私が修理に出せと言ったからです。兄はまだ履けると言いました」
「本当に変なところで雑ね」
「はい」
ジェイ様は短く答え、足跡を追う。しばらくして、川沿いの倉庫が見えてきた。
木造の長い建物。横には荷馬車が三台。川には平底の小舟がいくつかつながれている。
果物の籠と、羊毛の袋が積まれていた。
ここからなら、荷に紛れて町まで行ける。あるいは川を下れる。厄介だ。
倉庫番らしき男が、こちらに気づいて帽子を取る。
「何かご用で?」
「若い男女が来たはずよ。金髪の女と、茶色の髪の男」
「さあ」
男は目を逸らす。今日は、こういう顔ばかり見る。
私は馬から下りる。外套の内側から、白鹿亭で回収した真珠の耳飾りを包んだ布を出す。
「このようなものを代金にした人はいない?」
男の目が布に落ちる。知っている顔だ。
「答えて」
「……私は、直接は」
「誰が受け取ったの」
「うちの親方が」
「呼んで」
「親方は今、船着き場に」
そこでジェイが聞く。
「船は出ましたか」
「一艘、さっき」
「行き先は」
「下流のロムジーです」
ロムジー。小さな町だ。そこから王都街道へ戻れる。
また一歩先。奥歯が鳴りそうになる。
「乗ったのは二人?」
「いえ、女の人だけです」
「男は」
「後から来ると」
私はジェイを見る。
「分けた?」
「はい。追手を分散させるつもりでしょう」
「どちらを追うべき?」
「シャーリーン様です」
即答だった。
「なぜ?」
「兄は一人では遠くへ行けません。金も道も、たぶんシャーリーン様に持たせている」
「クリス様は?」
「こちらを引きつける役か、後で合流する役です」
「そんな役を引き受けるの?」
「自分が彼女を守っていると思えば、喜んで」
ああ。分かる。とても分かる。
クリスはそういう人だ。英雄の役が好き。誰かを守っている自分が好き。
でもそのために誰かを傷つけていることは、横へ置く。
「では船を追う」
「はい」
「馬で川沿いを下れる?」
「道はあります。船より速い。ただし、途中で橋を渡る必要がある」
「行きましょう」
倉庫番は慌てて口を挟む。
「あの、親方には」
「後で来るわ」
私は男を見る。
「その時までに、受け取ったものを揃えておいて。エルフォード家のものか、フェンウィック家のものか、確認する」
「へ、へい」
「隠したら、盗品を扱ったことにする」
男の肩が跳ねる。ジェイは静かに続ける。
「フェンウィック伯爵家からも正式に問います」
「そ、それは困ります」
「なら困らないように働きなさい」
自分で言ってから、少し驚く。ジェイもこちらを見る。
「何?」
「いえ」
「何か言いたそうだけど」
「今のは、よい言い方でした」
「誉めているの?」
「はい」
「なら受け取っておくわ」
馬に乗る。
川は、陽を受けて鈍く光っている。下流へ向かう流れは穏やかだが、船ならそれなりに進む。
まだ追える。けれど、一歩遅れるたびに、あの二人の手が何かを汚していく。
兄の贈った耳飾り。エルフォード家の馬車。父の眼鏡箱。……次は何を使うつもりだろう。
「ジェイ様」
「はい」
「捕まえたら、まず荷物を全部開けさせるわ」
「賛成です」
「身につけているものも」
「必要なら、女性の立ち会いを用意します」
「助かるわ」
今度は素直に言えた。ジェイは少しだけ目を伏せる。それからすぐ、川沿いの道を見る。
「行きましょう、アマンダ嬢」
「ええ」
馬を走らせる。川下へ。
逃げた二人を、元の場所へ戻すためではない。戻ってこられても困る。
ただ、持っていったものを返させるため。書くべきものを書かせるため。
そして、兄とヘンリーの前から、きれいに切り離すため。
そのために、私たちは追う。




