32 その後の結果
「……不思議ね」
私は言う。
「昨日まで、あんなに互いしかいないような顔をしていたのに」
「互いしかいない状態に、本当にされたからでしょう」
ジェイが答える。
「もう家名も、財産も、周囲の同情も使えない。すると、互いの重さが分かる」
「重すぎた?」
「おそらく」
兄さんが、ふっと息を吐く。
「では、好きにすればいい、というのは効いたんだな」
「効いたわね」
好きにすればいい。ただし、持ち出したものは返す。
名も返す。信用も返す。子のものも返す。そのあとに残ったものだけで、本当に好きにすればいい。
その結果が、これだ。
クリスはシャーリーンに惑わされたと言う。シャーリーンはクリスに連れ出されたと言う。
互いだけを頼りに生きる話は、どこへ行ったのか。
ヘンリーのがらがらが、また鳴る。ちり。私はそちらを見る。ヘンリーは何も知らず、丸い目を開けている。がらがらを見ているのか、自分の手を見ているのか、まだ分からない。
兄さんが立ち上がり、ヘンリーの頭をそっと撫でる。
「この子の周りには、もう少しまともな大人を置こう」
「そうね」
「まず私が、もう少しまともになる」
「兄さんはまともよ」
「優しすぎる、ようだ」
兄さんが少しだけ笑う。
「誰かが言ったの? ジェイ様?」
「ジェイ殿ではない。自分で思ったんだ。私は少々そういうところがあると」
それなら、かなり大きい。兄さんが自分でそう思うなら、この先は大丈夫だ。
ジェイが静かに言う。
「優しいことと、境目を作らないことは別です」
兄さんはその言葉を受け止めるように、少し黙る。
「そうですね」
「ウィリアム様は、きちんと判断の境目を作ればよいのだと思います」
「難しいな」
「アマンダ嬢が得意です」
「そこに妹を使うのは、また問題が戻る」
兄さんが即答する。ジェイは少し目を伏せた。
「たしかに」
私は思わず笑う。
「二人とも、本人の前で私をどう使うか使わないかの話をしないで」
「すまない」
「失礼しました」
二人同時に謝った。その揃い方が少しおかしくて、また笑ってしまう。
笑うと、少し疲れる。まだ本調子ではないらしい。兄さんがすぐ気づく。
「今日はここまでだな」
「まだ」
「アマンダ」
「はい」
素直に返事をすると、ジェイも少しだけ安心したような顔をした。何だか、悔しい。でも、少し嬉しい。
グレイヴスが手紙をまとめ、写しを取るために下がる。メアリーもヘンリーを連れて出る。兄さんは私を部屋へ戻す準備をする。
そしてジェイが立ち上がった。
「私も一度、フェンウィックへ戻ります」
「今日?」
「はい。父に直接報告を――」
私は止めかけたが、やめた。彼には彼の家がある。背負うものがある。
「今夜は寝て」
「はい」
「本当に」
「共同作業者としての要請ですか」
「そう」
彼は少しだけ笑う。
「承知しました」
その笑い方が、昨日より分かりやすくなっている気がした。
◇
数日、私は大人しくした。大人しくした、ということにしておく。
寝台と長椅子を行き来し、スープを飲み、林檎を煮たものを食べ、メアリーに睨まれ、兄さんに寝なさいと言われた。
その間にも、書状は届く。
フェンウィック伯爵家から。ベネット男爵家から。治安判事から。ハドリーの宝飾商から。白鹿亭、青麦亭、湯治宿からの請求書も来る。
ひとつひとつ、グレイヴスが確認する。兄さんが見る。ジェイが写しを持ってくる。
そのたびに、私は居間の長椅子から口を出す。
「その宿代はうちで払う分と、フェンウィック家で払う分を分けた方がいいわ」
「アマンダ」
「何?」
「休んでいなさい」
「横になってる」
「口は休んでいない」
兄さんがそう言うので、黙る。少しだけ。
クリスの長男としての権利停止は、正式に決まった。フェンウィック伯爵の切り分けは早かった。身内に甘い人ではなかったらしい。
クリスは最初、シャーリーンに惑わされたと言った。次に、自分は彼女を救おうとしただけだと言った。さらに、私なら分かってくれるはずだと書いてきた。
その手紙は、全部写しを取られた。
ジェイは淡々と、
「兄は、紙を増やすのが得意です」
と呆れた顔で言った。
「悪い意味で?」
「悪い意味で」
その答えが早すぎて、兄さんが少し咳払いをした。
シャーリーン様は、ベネット男爵家に引き取られた。実家でも泣いているらしい。ヘンリーに会いたいとも、銀杯かがらがらのどちらかを手元に置きたいとも言っているという。
兄さんは、返事を書いた。
――会うことは、今は認めない。
――品も渡さない。
――将来ヘンリーが自分で望むなら、その時に考える。
――それまでは、エルフォード家へ直接手紙を送ることも、使いを寄越すことも禁じる。
読み終えたベネット男爵は、了承した。
シャーリーン様がどう思ったかは知らない。知らなくていい。
離縁の手続きは進む。婚約破棄も進む。フェンウィック伯爵家からの賠償も決まる。
外へ出す知らせには、余計な飾りがつかなかった。
――クリストファー・フェンウィックの重大な不行跡により、アマンダ・エルフォードとの婚約は解消。
――シャーリーン・エルフォードは、本人の出奔および婚姻継続の意思なしと認められ、離縁手続き中。
――エルフォード子爵家に非はない。
短い。けれど、それでいい。
長く書くと、誰かが勝手に涙や恋を足す。短く書けば、逃げ道が減る。
その間、クリスとシャーリーン様が互いを庇ったという話は、一度も聞かない。
クリスは、シャーリーン様が先に寂しさを訴えたと言う。シャーリーン様は、クリスが自分を連れ出したと言う。
互いだけを頼りに生きる話は、どこかで落としてきたらしい。
「拾いに行く?」
私が言うと、兄さんが眼鏡を拭きながら答えた。
「拾わなくていい」
「そうね」
「拾っても、うちのものではない」
「確かに」
ヘンリーのがらがらが、ちり、と鳴る。
メアリーの膝の上で、ヘンリーが手を動かしている。まだ上手く振れない。けれど、時々ちゃんと鳴る。
家政鍵は新しくなった。食品庫も、リネン室も、薬棚も、食器棚も、女主人の小机も。
兄さんは鍵束をしばらく見て、それから私に数本渡した。
「預かってくれるか」
「私が?」
「お前が寝込んでいる間、家の中のことを改めて見た。今まで、シャーリーンに任せたつもりで、見ていなかった場所が多すぎた」
「兄さんが全部見るのは無理よ」
「ああ。だから分ける」
兄さんは今は無理に笑わない。
「お前に全部渡すのも違う。だが、今の私一人で抱えるのも違う」
私は鍵を受け取った。重い。でも、嫌な重さではない。
「分かった。預かる」
「頼む」
「でも、私が嫁いだら?」
口にしてから、少しだけしまったと思う。だが兄さんは慌てない。
「その時は、その時に考える」
「考えてる?」
「考えている」
「早いわ」
「兄だからな」
またそれだ。
兄さんは最近、「兄だからな」を便利に使いすぎだ。




