33 うちの林檎はやっぱりおいしい
その日も、夕方にジェイはやって来た。
最初はフェンウィック伯爵家の代理として。次は書類の確認役として。その次は、兄さんが呼んだから。
四度目には、兄さんが呼ぶ前に来た。
手には書類箱。それから、エルフォードの果樹園で採れた林檎を使った菓子を料理長が作ったと聞いていたのか、食卓の方を一度だけ見た。たぶん、少し期待している。
「ジェイ様」
「はい」
「今日は書類?」
「少しだけ」
「少しだけ、ね」
「それと、ウィリアム様に呼ばれました」
兄さんを見ると、平然と茶器を用意している。
「呼んだよ」
「何の用で?」
「食事を一緒にどうかと」
「兄さん」
「何だ」
「それは用件なの?」
「大事な用件だ」
ジェイは少しだけ口元を動かす。笑った。今度は分かる。
私は長椅子の背にもたれながら、ヘンリーの方を見る。がらがらがまた、ちり、と鳴る。
後始末はまだ続く。けれど、家の中の音も戻ってきている。
◇
さらに半月ほど経つと、私は普通に歩けるようになった。
メアリーはまだ少し疑っている。兄さんも疑っている。グレイヴスは椅子を出すのが早い。
ジェイも長話になりそうな時だけ、さりげなく茶を入れ直す。
皆、私を何だと思っているのか。……たぶん、前科持ちだと思っている。
その日、ジェイはフェンウィック伯爵家の正式な賠償書類を持ってきたが、それは午前中で片づいた。
昼を過ぎると、兄さんが妙に落ち着かない様子で食堂へ向かう。
「兄さん、何か隠してる?」
「隠してはいない」
「では何?」
「料理長が、焼き林檎を作った」
私は足を止める。
「焼き林檎!」
「ああ」
「湯治宿に対抗して?」
「対抗ではない。比較だ」
「対抗じゃない」
「比較だ」
言い張る。何なんだいったい。
食堂には、もうお茶の支度ができていた。窓の外には果樹園が見える。枝の間を風が抜けるたび、葉が細かく揺れる。
卓の中央に、焼き林檎が置かれていた。
小ぶりの林檎を半分に割り、芯を抜いて、蜂蜜と胡桃を詰めて焼いてある。湯治宿のものより少し色が濃い。皮の赤みが残っていて、果肉はとろりと透けていた。
湯気に、林檎の酸味と蜂蜜の甘さが混じる。私は匙を入れた。
柔らかい。けれど崩れすぎない。皮の近くに、少しだけ歯触りが残っている。胡桃がかりっと鳴る。
蜂蜜は甘いが、林檎の酸味が勝つ。
「……うちの勝ちね」
兄さんが、明らかにほっとした。
「そうか」
「兄さんが作ったわけじゃないのに」
「うちの林檎だ」
「それはそう」
ジェイも食べる。一口。少し黙る。
「どう?」
問うと、彼は真面目に答えた。
「湯治宿のものより、林檎の味がはっきりしています」
「つまり?」
「こちらの方がおいしいです」
「よろしい」
兄さんは満足そうに小さく笑う。
「公平な判定だな」
「いえ」
ジェイはもう一口食べる。
「少し身内びいきが入っています」
私の匙が止まる。兄さんも止まる。
「身内?」
兄さんが聞く。ジェイは、自分の言葉に気づいたように一度だけ瞬きをした。だが逃げなかった。
「失礼しました。まだ、そう言うには早いですね」
「早いだけ?」
私が聞く。兄さんがこちらを見る。
「アマンダ」
「何?」
「今のは、私も聞きたい」
兄さんが味方なのか敵なのか分からない。ジェイは匙を置く。
「早いだけだと思っています」
静かな声だった。
食堂の向こうで、ヘンリーの声がする。メアリーが抱いて連れてきたらしい。ちり。がらがらが鳴る。
その音で、少しだけ息が入る。
「共同作業者から?」
私は聞く。
「はい」
「それ以外へ?」
「いずれ、そう望んでもよければ」
兄さんが咳払いをする。けれど止めない。……止めないのか。
「私はまだ、婚約破棄したばかりよ」
「分かっています」
「家のこともあるし」
「はい」
「兄さんとヘンリーのことも」
「それも分かっています」
「それから、私はたぶん面倒よ」
ジェイは少しだけ笑った。
「存じています」
「早い!」
「でも知ってます。かなり」
「逃げない?」
「逃げません」
そこで、兄さんが茶を飲む。ずいぶんのんびりした音がした。
「兄さん」
「何だ」
「止めないの?」
「まだ何も始まっていない」
「そう?」
「それに」
兄さんはヘンリーを見た。メアリーの腕の中で、甥はがらがらを握っている。
「始まるなら、悪くないと思っている」
顔が熱くなる。焼き林檎のせいではない。たぶん。
ジェイは、兄さんへ丁寧に頭を下げる。
「ありがとうございます」
「礼は早い」
「はい」
「アマンダが決めることだ」
「はい」
「ただし」
兄さんの声が少しだけ強くなる。
「妹を、強いから平気だとは思わないように」
ジェイは私を見た。それから兄さんに向き直る。
「心得ています」
「よろしい」
またそれだ。兄さんは最近、「よろしい」も便利に使う。
私は焼き林檎をもう一口食べる。甘い。酸っぱい。熱い。胡桃が鳴る。
ヘンリーのがらがらも、また鳴る。ちり。
食堂の窓の外で、果樹園の葉が揺れる。厨房では誰かが皿を重ねる音がする。遠くで馬が鼻を鳴らす。
人が暮らす音だ。
シャーリーン様が退屈だと言った家。クリスが、私なら平気だと置いていった家。兄さんが守ってきた家。
私が走って、取り戻して、戻ってきた家。
「ジェイ様」
「はい」
「来年の収穫も見る?」
聞いてから、少しだけ早かったか? と思う。でも、もう言った。言ってしまった。
ジェイはすぐには答えず、窓の外の果樹園を見る。それから、こちらへ戻る。
「共同作業者として?」
「それでもいいわ」
「では」
彼は少しだけ笑う。
「それ以外の理由でも、来たいです」
ちり、とヘンリーのがらがらが鳴る。兄さんが、何も言わずに茶を飲む。
私は焼き林檎を口に入れる。
うちの林檎は、やっぱりおいしい。
END




