30 とりあえずは
室内が静かになる。外で、鳥が鳴いている。
ジェイは、今度も逃げなかった。
「ありません」
「今はそう思っているだけ、ということもある」
「あるかもしれません」
正直だ。
「だから、そうしないよう気をつけます。もし私がそれをした時は、アマンダ嬢に怒られますし、ウィリアム様にも止められると思います」
兄が少し笑う。
「私は止めますよ」
「はい」
「妹も怒るでしょう」
「はい」
「かなり」
「承知しています」
何だこの話。私の前で、私が怒る前提の話をしている。
「兄さん」
「何だ」
「私を何だと思ってるの」
「頼もしい妹だ」
「ジェイ様は」
言ってから、少ししまった、と思う。けれど、もう遅い。
彼はこちらを見る。
「共同作業者です」
即答だった。
「……今は」
――え、付け足した。
今は。その言葉が少し残る。兄はそれを聞いて、満足したようにうなずく。
「よろしい」
「兄さん、何がよろしいの」
「今すぐ何かを決める必要はない、ということだ」
兄は書状を卓へ置く。
「クリス君との婚約破棄は進める。シャーリーンとの離縁も進める。賠償も受ける。だが、お前の次の婚約を、償いや体面で決めるつもりはない」
「うん」
「その上で、ジェイ殿がこの家に来ることは拒まない」
ジェイは頭を下げる。
「ありがとうございます」
「ただし」
兄の声が少しだけ強くなる。
「アマンダがまだ寝込んでいる間に、縁談の話を持ち込んだら追い返す」
「心得ます」
「兄さん」
「お前も、三日は大人しくする」
「五日じゃなかった?」
「自分で増やすとは珍しい」
「違う」
兄は少し笑った。本当に少し。ジェイも、また少しだけ口元を動かした。
小さな居間に、ようやく息が通る。
事件は終わっていない。手続きも、賠償も、噂への対応も残っている。シャーリーンとの離縁も、クリスの処分も、これからだ。
けれど、今ここには、兄がいる。ジェイがいる。卓の上には正式な書状がある。
部屋の外から、ヘンリーのがらがらの音が聞こえる。ちり、と鳴る。家の中の音だ。
「ジェイ様」
「はい」
「共同作業者として、ひとつ確認していい?」
「何でしょう」
「あなたも、ちゃんと寝ている?」
彼の動きが一瞬止まる。兄がこちらを見る。
「よく聞いた」
「兄さんも気になってたの?」
「当然だ」
ジェイは少しだけ咳払いをする。
「昨日は、三時間ほど」
「少ない」
「ジェイ殿」
兄の声が低くなる。
「はい」
「妹に休めと言った方がそれでは困ります」
「……今夜は休みます」
「うちで?」
兄がさらりと言う。ジェイは珍しく言葉に詰まる。
「いえ、それは」
「客室はあります。フェンウィックへ戻ってまた来るより、今日はここで休みなさい。用件はまだある」
「しかし」
「共同作業者としての要請です」
兄が言った。私は思わずスープを吹きそうになる。
ジェイは私を見る。私も見る。兄さん、それを使うのか。
「……承知しました」
ジェイが降参した。
私は長椅子の背にもたれる。何だか、少しおかしい。おかしいと思えるくらいには、戻ってきたらしい。
◇
翌朝、私はまだ居間の長椅子にいる。
寝台に戻れと言われた。けれど、寝台に戻ると本当に病人になった気がするので、長椅子で手を打った。
兄さんは妥協した顔をした。メアリーは妥協していない顔をした。グレイヴスは膝掛けを二枚増やした。
つまり、ほとんど負けている。
ジェイは、昨夜この家に泊まった。兄さんの「共同作業者としての要請」が効いたらしい。
朝食の席に出てきた時、昨日より顔色が少しましだった。それでも目の下に薄く疲れは残っている。
「ちゃんと眠った?」
私が聞くと、ジェイは茶器を持ったまま答える。
「五時間ほど」
「少ない」
「あなたに言われると、少し複雑です」
「私、今日は寝たわ」
「寝かされた、の間違いでは」
言い返せない。
兄さんが少し笑う。ヘンリーはメアリーの腕の中で、がらがらを握っている。
まだうまく振れない。でも時々、ちり、と鳴る。その音がするたび、皆が一瞬そちらを見る。戻ってきた音だ。
朝食が終わる頃、グレイヴスが銀盆に封書を数通載せて入ってきた。
「旦那様。フェンウィック伯爵家より。シャーリーン様のご実家より。それから……」
グレイヴスの眉が、ほんの少しだけ動く。
「クリストファー様より、アマンダお嬢様宛てでございます」
居間の空気が、少し止まる。
「私に?」
「はい」
兄さんの顔が曇る。
「読まなくていい」
「読むわ」
「アマンダ」
「ここまで来て、何を書いてきたか知らない方が気持ち悪い」
兄さんは反対しそうだったが、ジェイが静かに言った。
「私も、確認した方がよいと思います」
「ジェイ殿」
「兄は、書面でも逃げ道を作ります」
なるほど。実弟の言葉は重い。




