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兄嫁が婚約者と愛の逃避行!? 赤ん坊を置いて持ち出した物、全て返して頂きます!  作者: さんけい


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30/33

30 とりあえずは

 室内が静かになる。外で、鳥が鳴いている。

 ジェイは、今度も逃げなかった。


「ありません」

「今はそう思っているだけ、ということもある」

「あるかもしれません」


 正直だ。


「だから、そうしないよう気をつけます。もし私がそれをした時は、アマンダ嬢に怒られますし、ウィリアム様にも止められると思います」


 兄が少し笑う。


「私は止めますよ」

「はい」

「妹も怒るでしょう」

「はい」

「かなり」

「承知しています」


 何だこの話。私の前で、私が怒る前提の話をしている。


「兄さん」

「何だ」

「私を何だと思ってるの」

「頼もしい妹だ」

「ジェイ様は」


 言ってから、少ししまった、と思う。けれど、もう遅い。

 彼はこちらを見る。


「共同作業者です」


 即答だった。


「……今は」


 ――え、付け足した。

 今は。その言葉が少し残る。兄はそれを聞いて、満足したようにうなずく。


「よろしい」

「兄さん、何がよろしいの」

「今すぐ何かを決める必要はない、ということだ」


 兄は書状を卓へ置く。


「クリス君との婚約破棄は進める。シャーリーンとの離縁も進める。賠償も受ける。だが、お前の次の婚約を、償いや体面で決めるつもりはない」

「うん」

「その上で、ジェイ殿がこの家に来ることは拒まない」


 ジェイは頭を下げる。


「ありがとうございます」

「ただし」


 兄の声が少しだけ強くなる。


「アマンダがまだ寝込んでいる間に、縁談の話を持ち込んだら追い返す」

「心得ます」

「兄さん」

「お前も、三日は大人しくする」

「五日じゃなかった?」

「自分で増やすとは珍しい」

「違う」


 兄は少し笑った。本当に少し。ジェイも、また少しだけ口元を動かした。

 小さな居間に、ようやく息が通る。

 事件は終わっていない。手続きも、賠償も、噂への対応も残っている。シャーリーンとの離縁も、クリスの処分も、これからだ。

 けれど、今ここには、兄がいる。ジェイがいる。卓の上には正式な書状がある。

 部屋の外から、ヘンリーのがらがらの音が聞こえる。ちり、と鳴る。家の中の音だ。


「ジェイ様」

「はい」

「共同作業者として、ひとつ確認していい?」

「何でしょう」

「あなたも、ちゃんと寝ている?」


 彼の動きが一瞬止まる。兄がこちらを見る。


「よく聞いた」

「兄さんも気になってたの?」

「当然だ」


 ジェイは少しだけ咳払いをする。


「昨日は、三時間ほど」

「少ない」

「ジェイ殿」


 兄の声が低くなる。


「はい」

「妹に休めと言った方がそれでは困ります」

「……今夜は休みます」

「うちで?」


 兄がさらりと言う。ジェイは珍しく言葉に詰まる。


「いえ、それは」

「客室はあります。フェンウィックへ戻ってまた来るより、今日はここで休みなさい。用件はまだある」

「しかし」

「共同作業者としての要請です」


 兄が言った。私は思わずスープを吹きそうになる。

 ジェイは私を見る。私も見る。兄さん、それを使うのか。


「……承知しました」


 ジェイが降参した。

 私は長椅子の背にもたれる。何だか、少しおかしい。おかしいと思えるくらいには、戻ってきたらしい。


 ◇


 翌朝、私はまだ居間の長椅子にいる。

 寝台に戻れと言われた。けれど、寝台に戻ると本当に病人になった気がするので、長椅子で手を打った。

 兄さんは妥協した顔をした。メアリーは妥協していない顔をした。グレイヴスは膝掛けを二枚増やした。

 つまり、ほとんど負けている。

 ジェイは、昨夜この家に泊まった。兄さんの「共同作業者としての要請」が効いたらしい。

 朝食の席に出てきた時、昨日より顔色が少しましだった。それでも目の下に薄く疲れは残っている。


「ちゃんと眠った?」


 私が聞くと、ジェイは茶器を持ったまま答える。


「五時間ほど」

「少ない」

「あなたに言われると、少し複雑です」

「私、今日は寝たわ」

「寝かされた、の間違いでは」


 言い返せない。

 兄さんが少し笑う。ヘンリーはメアリーの腕の中で、がらがらを握っている。

 まだうまく振れない。でも時々、ちり、と鳴る。その音がするたび、皆が一瞬そちらを見る。戻ってきた音だ。


 朝食が終わる頃、グレイヴスが銀盆に封書を数通載せて入ってきた。


「旦那様。フェンウィック伯爵家より。シャーリーン様のご実家より。それから……」


 グレイヴスの眉が、ほんの少しだけ動く。


「クリストファー様より、アマンダお嬢様宛てでございます」


 居間の空気が、少し止まる。


「私に?」

「はい」


 兄さんの顔が曇る。


「読まなくていい」

「読むわ」

「アマンダ」

「ここまで来て、何を書いてきたか知らない方が気持ち悪い」


 兄さんは反対しそうだったが、ジェイが静かに言った。


「私も、確認した方がよいと思います」

「ジェイ殿」

「兄は、書面でも逃げ道を作ります」


 なるほど。実弟の言葉は重い。

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