表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
兄嫁が婚約者と愛の逃避行!? 赤ん坊を置いて持ち出した物、全て返して頂きます!  作者: さんけい


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
29/33

29 兄からの問いかけ

 次に目を開けた時、部屋の中は夕方の色だった。

 窓の外が薄く金色になっている。果樹園の方から、風が入ってくる。花の匂いと、土の匂いが少し混じっている。

 身体はまだ重い。けれど、頭の奥の鈍さは少し引いていた。

 寝台脇の机には、空になった椀がある。林檎を煮たものを食べた記憶はある。兄の声も、ヘンリーのがらがらの音も覚えている。

 それから、ジェイからの手紙。共同作業者としての要請。思い出すと、少し笑いそうになる。

 要請なら仕方ない。命令なら反発したかもしれない。お願いなら、あとでと言ったかもしれない。共同作業者としての要請なら、聞くしかない。ずるい書き方をする人だ。

 扉が軽く叩かれる。


「起きている?」


 兄の声だ。


「起きてる」


 扉が開き、兄が入ってくる。今日はヘンリーを抱いていない。その代わり、盆を持っている。


「兄さんが持ってきたの?」

「メアリーに持つなと言われたが、これくらいはできる」

「スープ?」

「鶏のスープ。パン粥も少し」

「また寝かせる気ね」

「起き上がって食べる許可は出ている」

「医師の?」

「私の」


 兄は盆を小机に置き、クッションを背中に足してくれる。手つきは少しぎこちない。

 けれど、昔からこうだ。兄は何でも上手くはない。ただ、できるまでやめない。私はゆっくり上体を起こす。

 鶏のスープは、澄んでいる。細かく刻んだ野菜と、やわらかい麦。匙を入れると、湯気が上がる。


「熱いから気をつけなさい」

「子供扱い」

「倒れた妹は、少し子供扱いされる」

「ひどい」


 ひと口飲む。昨日の湯治宿のスープより、優しい味だ。塩が控えめで、鶏の匂いも弱い。体に入っても、胃が驚かない。


「おいしい」

「料理長が喜ぶ」

「兄さんは?」

「私も喜ぶ」


 兄は椅子に座る。少し黙ってから、言った。


「ジェイ殿が来ている」


 匙が止まる。


「また?」

「ああ」

「働きすぎじゃないの」

「お前に言われると、彼も困るだろう」

「それはそうだけど」

「今日は、フェンウィック伯爵からの正式な書状を持ってきた」

「賠償の?」

「それと、婚約破棄の処理について」


 スープをもう一口飲む。温かい。けれど、さっきより味が遠くなる。


「クリスは」

「まだフェンウィックで謹慎中だ。親族会議まで外へは出さないそうだ」

「シャーリーン様は」

「実家が引き取った。向こうからも詫び状が届いている。だが、私はまだ返事を書いていない」

「どうして」

「少し時間を置かないと、ひどいことを書きそうだからだ」


 兄がそんなことを言う。私は兄を見る。


「兄さん」

「何だ」

「ちゃんと怒ってる」

「言っただろう。怒っている」

「少し安心した」

「そうか」


 兄は眼鏡を外し、布で拭く。いつもの動作だ。それだけで、こちらも少し落ち着く。


「ジェイ殿と話すか?」

「今?」

「無理なら断る」

「話す」

「倒れない程度に」

「長椅子なら」

「では、居間へ。歩けるか」

「歩ける」


 兄は何も言わず、手を差し出す。

 立ってみると、足は思ったより頼りない。情けない。けれど、兄の手を借りれば歩ける。


 廊下へ出る。床の板の感触。壁にかかった古い風景画。窓から見える庭。戻ってきたのだと、何度も思う。

 小さな居間には、ジェイが立っていた。

 濃い灰色の上着。昨日よりきちんとしている。ただ、目元の疲れはまだ少し残っている。

 私を見ると、すぐに頭を下げた。


「アマンダ嬢。起きていて大丈夫ですか」

「椅子に座れば」

「では座ってください」


 即答だった。兄も同時に椅子を指す。二対一。勝てない。

 私は長椅子に座る。兄が膝掛けを掛ける。ジェイは、その向かいに座る前に、書類箱を卓へ置いた。


「まず、これを」


 書状が差し出される。


「フェンウィック伯爵から、ウィリアム様とアマンダ嬢へ。正式な謝罪と、今後の賠償についてです」


 兄が受け取る。


「読み上げようか」

「お願い」


 兄は封を切り、読み始める。内容は、思ったより簡潔だった。


 ――クリストファー・フェンウィックが、アマンダ・エルフォードとの婚約中に、エルフォード子爵夫人シャーリーンと出奔したこと。

 ――その移動中に、両家の財産と信用を勝手に用いたこと。

 ――フェンウィック伯爵家は、クリストファーの長男としての権利を停止し、ジェイ・フェンウィックを当面の代理とすること。

 ――婚約破棄については、エルフォード側の不名誉にならない形で公表すること。

 ――賠償は、婚約破棄分、名誉回復分、回収にかかった費用、盗品換金に関わる費用をすべてフェンウィック家が負担すること。


 そこまでは、実務だ。最後に一文あった。


 ――なお、エルフォード子爵家が望まない限り、代替の縁談をもって償いとする意思はない。


 兄がそこで一度読むのを止める。私はジェイを見る。


「代替の縁談」

「父が、余計な押しつけにならないよう明記しました」

「つまり、ジェイ様を代わりに、という話を勝手にはしないと」

「はい」


 返事はまっすぐだった。変に目を逸らさない。


「それはありがたいわ」

「父も、今回の件で婚約を取引のように扱うのは不適切だと」

「そうね」


 そこで兄が書状を畳む。


「では、償いとは別に聞きたい」


 ……嫌な予感がする。兄の声が穏やかすぎる。


「兄さん」

「本人の前で言えない話なら、私は進めない」


 その一言で、逃げ道がなくなる。ジェイは少しだけ背筋を伸ばす。


「はい」

「ジェイ殿ご自身は、妹をどう見ておられますか」


 来た。来てしまった。


「兄さん」

「黙って座っていなさい」

「でも」

「お前の話だ。聞く権利はある。口を挟むのは少し待ちなさい」


 ひどい。とても兄らしい。

 ジェイはすぐには答えない。手元の書類に目を落とすこともしない。少し考えてから、顔を上げる。


「尊敬しています」


 声は静かだった。恋だの、愛だのではなかった。尊敬。


「アマンダ嬢は、怒っていました。けれど、怒りだけで動いていたわけではありません。赤ん坊の世話を先に整え、家へ連絡を飛ばし、持ち出されたものを確認し、必要な書面を取った。途中で馬や人を休ませる判断も、最後には受け入れました」

「それはジェイ様が止めたから」


 つい口を挟む。兄がこちらを見る。


「少し待てと言った」

「……はい」


 ジェイは少しだけ口元を動かす。笑ったのかもしれない。


「私が止めたのは事実です。ですが、聞かなければ止まりませんでした」

「頑固だからね」


 兄が言う。


「兄さん」

「事実だ」


 彼は続ける。


「強い方だと思いました。ですが、強いから平気だとは思いません」


 そこだけ、声が少し変わる。


「強い方だからこそ、ご自分で背負ってしまう。止める人間が必要だと、今回よく分かりました」


 兄は黙って聞いている。


「それから、ウィリアム様」

「はい」

「あなたのことを、本当に大事にしている」

「それは、少し過分に」

「過分ではありません」


 ジェイが珍しく、すぐに遮る。


「あなたが守ってきた家を、アマンダ嬢も守ろうとしていました。ですから、私もそれを軽く扱うつもりはありません」


 兄が眼鏡の奥で、少し目を細める。


「そうですか」

「はい」

「では、もうひとつ」

「はい」

「妹の強さを、便利に使う気はありませんか」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ