29 兄からの問いかけ
次に目を開けた時、部屋の中は夕方の色だった。
窓の外が薄く金色になっている。果樹園の方から、風が入ってくる。花の匂いと、土の匂いが少し混じっている。
身体はまだ重い。けれど、頭の奥の鈍さは少し引いていた。
寝台脇の机には、空になった椀がある。林檎を煮たものを食べた記憶はある。兄の声も、ヘンリーのがらがらの音も覚えている。
それから、ジェイからの手紙。共同作業者としての要請。思い出すと、少し笑いそうになる。
要請なら仕方ない。命令なら反発したかもしれない。お願いなら、あとでと言ったかもしれない。共同作業者としての要請なら、聞くしかない。ずるい書き方をする人だ。
扉が軽く叩かれる。
「起きている?」
兄の声だ。
「起きてる」
扉が開き、兄が入ってくる。今日はヘンリーを抱いていない。その代わり、盆を持っている。
「兄さんが持ってきたの?」
「メアリーに持つなと言われたが、これくらいはできる」
「スープ?」
「鶏のスープ。パン粥も少し」
「また寝かせる気ね」
「起き上がって食べる許可は出ている」
「医師の?」
「私の」
兄は盆を小机に置き、クッションを背中に足してくれる。手つきは少しぎこちない。
けれど、昔からこうだ。兄は何でも上手くはない。ただ、できるまでやめない。私はゆっくり上体を起こす。
鶏のスープは、澄んでいる。細かく刻んだ野菜と、やわらかい麦。匙を入れると、湯気が上がる。
「熱いから気をつけなさい」
「子供扱い」
「倒れた妹は、少し子供扱いされる」
「ひどい」
ひと口飲む。昨日の湯治宿のスープより、優しい味だ。塩が控えめで、鶏の匂いも弱い。体に入っても、胃が驚かない。
「おいしい」
「料理長が喜ぶ」
「兄さんは?」
「私も喜ぶ」
兄は椅子に座る。少し黙ってから、言った。
「ジェイ殿が来ている」
匙が止まる。
「また?」
「ああ」
「働きすぎじゃないの」
「お前に言われると、彼も困るだろう」
「それはそうだけど」
「今日は、フェンウィック伯爵からの正式な書状を持ってきた」
「賠償の?」
「それと、婚約破棄の処理について」
スープをもう一口飲む。温かい。けれど、さっきより味が遠くなる。
「クリスは」
「まだフェンウィックで謹慎中だ。親族会議まで外へは出さないそうだ」
「シャーリーン様は」
「実家が引き取った。向こうからも詫び状が届いている。だが、私はまだ返事を書いていない」
「どうして」
「少し時間を置かないと、ひどいことを書きそうだからだ」
兄がそんなことを言う。私は兄を見る。
「兄さん」
「何だ」
「ちゃんと怒ってる」
「言っただろう。怒っている」
「少し安心した」
「そうか」
兄は眼鏡を外し、布で拭く。いつもの動作だ。それだけで、こちらも少し落ち着く。
「ジェイ殿と話すか?」
「今?」
「無理なら断る」
「話す」
「倒れない程度に」
「長椅子なら」
「では、居間へ。歩けるか」
「歩ける」
兄は何も言わず、手を差し出す。
立ってみると、足は思ったより頼りない。情けない。けれど、兄の手を借りれば歩ける。
廊下へ出る。床の板の感触。壁にかかった古い風景画。窓から見える庭。戻ってきたのだと、何度も思う。
小さな居間には、ジェイが立っていた。
濃い灰色の上着。昨日よりきちんとしている。ただ、目元の疲れはまだ少し残っている。
私を見ると、すぐに頭を下げた。
「アマンダ嬢。起きていて大丈夫ですか」
「椅子に座れば」
「では座ってください」
即答だった。兄も同時に椅子を指す。二対一。勝てない。
私は長椅子に座る。兄が膝掛けを掛ける。ジェイは、その向かいに座る前に、書類箱を卓へ置いた。
「まず、これを」
書状が差し出される。
「フェンウィック伯爵から、ウィリアム様とアマンダ嬢へ。正式な謝罪と、今後の賠償についてです」
兄が受け取る。
「読み上げようか」
「お願い」
兄は封を切り、読み始める。内容は、思ったより簡潔だった。
――クリストファー・フェンウィックが、アマンダ・エルフォードとの婚約中に、エルフォード子爵夫人シャーリーンと出奔したこと。
――その移動中に、両家の財産と信用を勝手に用いたこと。
――フェンウィック伯爵家は、クリストファーの長男としての権利を停止し、ジェイ・フェンウィックを当面の代理とすること。
――婚約破棄については、エルフォード側の不名誉にならない形で公表すること。
――賠償は、婚約破棄分、名誉回復分、回収にかかった費用、盗品換金に関わる費用をすべてフェンウィック家が負担すること。
そこまでは、実務だ。最後に一文あった。
――なお、エルフォード子爵家が望まない限り、代替の縁談をもって償いとする意思はない。
兄がそこで一度読むのを止める。私はジェイを見る。
「代替の縁談」
「父が、余計な押しつけにならないよう明記しました」
「つまり、ジェイ様を代わりに、という話を勝手にはしないと」
「はい」
返事はまっすぐだった。変に目を逸らさない。
「それはありがたいわ」
「父も、今回の件で婚約を取引のように扱うのは不適切だと」
「そうね」
そこで兄が書状を畳む。
「では、償いとは別に聞きたい」
……嫌な予感がする。兄の声が穏やかすぎる。
「兄さん」
「本人の前で言えない話なら、私は進めない」
その一言で、逃げ道がなくなる。ジェイは少しだけ背筋を伸ばす。
「はい」
「ジェイ殿ご自身は、妹をどう見ておられますか」
来た。来てしまった。
「兄さん」
「黙って座っていなさい」
「でも」
「お前の話だ。聞く権利はある。口を挟むのは少し待ちなさい」
ひどい。とても兄らしい。
ジェイはすぐには答えない。手元の書類に目を落とすこともしない。少し考えてから、顔を上げる。
「尊敬しています」
声は静かだった。恋だの、愛だのではなかった。尊敬。
「アマンダ嬢は、怒っていました。けれど、怒りだけで動いていたわけではありません。赤ん坊の世話を先に整え、家へ連絡を飛ばし、持ち出されたものを確認し、必要な書面を取った。途中で馬や人を休ませる判断も、最後には受け入れました」
「それはジェイ様が止めたから」
つい口を挟む。兄がこちらを見る。
「少し待てと言った」
「……はい」
ジェイは少しだけ口元を動かす。笑ったのかもしれない。
「私が止めたのは事実です。ですが、聞かなければ止まりませんでした」
「頑固だからね」
兄が言う。
「兄さん」
「事実だ」
彼は続ける。
「強い方だと思いました。ですが、強いから平気だとは思いません」
そこだけ、声が少し変わる。
「強い方だからこそ、ご自分で背負ってしまう。止める人間が必要だと、今回よく分かりました」
兄は黙って聞いている。
「それから、ウィリアム様」
「はい」
「あなたのことを、本当に大事にしている」
「それは、少し過分に」
「過分ではありません」
ジェイが珍しく、すぐに遮る。
「あなたが守ってきた家を、アマンダ嬢も守ろうとしていました。ですから、私もそれを軽く扱うつもりはありません」
兄が眼鏡の奥で、少し目を細める。
「そうですか」
「はい」
「では、もうひとつ」
「はい」
「妹の強さを、便利に使う気はありませんか」




