28 身体が悲鳴をあげていた
……目を開ける。天井が見える。自分の部屋だ。
白い天井。窓際の薄いカーテン。寝台脇の小さな机。花瓶には、庭の白い花が挿してある。
帰ってきたのだと、少し遅れて分かる。
それから、跳ね起きようとして――
「っ」
頭が重い。腕も重い。身体のあちこちが、まるで知らない人のものみたいに動かない。
「アマンダ」
寝台の横から兄の声がした。そちらを見る。兄は椅子に座っている。膝の上には書類ではなく、ヘンリーがいる。
小さな手が、銀のがらがらを握っていた。ちり、と小さく鳴る。
「……戻ったのね」
「戻ったよ」
「がらがら」
「お前が取り戻してくれた」
ヘンリーは何も知らない顔で、がらがらを振ろうとしている。まだ上手く振れない。手が少し動くたびに、ちり、ちり、と細い音がする。
胸の奥が詰まる。
「よかった」
「ああ」
「銀杯も」
「ある。スプーンもある。母上の首飾りも、祖母のブローチも。鍵も、眼鏡も、肖像画も」
「書類は」
「ある」
「確認は」
「した」
「シャーリーン様は」
「実家が引き取った。離縁の正式手続きに入る。ヘンリーの養育はこちらで行うことも、向こうは認めた」
「クリスは」
「フェンウィック家に連れ戻された。お前との婚約破棄も正式に進める。賠償については、フェンウィック伯爵が直接話したいそうだ」
そこまで聞いて、ようやく息が出る。
「……何時間寝ていたの」
兄は眼鏡を押し上げた。
「一日半」
「は?」
「一日半だ」
「嘘」
「本当だ」
「そんなに?」
「医師は、疲労と軽い熱だと言っていた。昨夜には少し目を開けて、スープを飲んだ」
「覚えていない」
「私に、鍵は替えたかと三回聞いた」
「……それは覚えてない」
「ジェイ殿にも、荷を見て、と二回言った」
そこで、少しだけ動きが止まる。
「ジェイ様」
兄がこちらを見る。
「気になるか」
「そりゃ気になるわ。あの人にも散々働かせたし」
「そうだな」
兄はヘンリーの手から、落ちそうになったがらがらを支える。
「ジェイ殿は昨日の朝、一度フェンウィックへ戻った。だが昼過ぎにはまた来た」
「また?」
「ああ。伯爵からの書状と、回収品の確認書の正式な写しを持ってきた」
「休んでないじゃない」
「お前に言われたくはないだろう」
それはそうだ。言い返せない。
「今は?」
「書斎にいる。グレイヴスと、フェンウィック家から来た書記と一緒に書類を見ている」
「まだ働いてるの」
「彼は止まる気がないらしい」
「止めてよ」
「止めた」
「止まった?」
「茶を飲んだ」
「それは止まったとは言わない」
「お前も似たようなものだ」
兄が言うと、反論できない。悔しい。
「兄さん」
「何だ」
「怒ってる?」
「怒っている」
「まだ?」
「しばらくは怒る」
兄はヘンリーを抱き直す。甥はがらがらを握ったまま、兄の袖を掴んだ。
「だが、今はお前が起きたことに安心している」
その言い方が、ずるい。
「心配かけたわ」
「かけた」
「ごめん」
「謝罪は受け取る」
珍しい。兄はいつも、いいよ、と言う人なのに。
「その代わり、しばらく大人しくしなさい」
「しばらくって」
「医師は三日と言った」
「無理」
「では五日」
「増えた」
「交渉の余地はない」
兄の声は穏やかだ。でも、机の上の帳簿を閉じる時と同じで、もう決めている声だ。
私は枕に頭を戻す。
「兄さん、強くなった?」
「元々、妹が思うほど弱くはない」
「知ってる」
「なら寝ていなさい」
ヘンリーがまた、ちり、と銀を鳴らす。兄はその音を聞いて、ほんの少し目を伏せる。
それから、赤ん坊の小さな手に指を添えた。
「これを鳴らした時、泣いた?」
聞くと、兄は少し間を置く。
「少し」
「兄さんが?」
「ああ」
「見たかった」
「見せるものではない」
「また泣けばいいのに」
「お前が無茶をしなければ、そうそう泣かない」
それは、無茶をしろということだろうか。いや、違う。たぶん違う。
扉が軽く叩かれる。兄が返事をする。入ってきたのはメアリーだった。手には湯気の立つ小さな椀。
「お目覚めになりましたか、お嬢様」
「ええ。心配をかけたわ」
「まったくです」
メアリーは遠慮なく言う。
「こちら、林檎を煮たものです。医師から、起きたら少し甘いものをと」
「林檎」
「旦那様が、果樹園のものを出せと」
兄を見ると、咳払いを一つする。
「湯治宿の焼き林檎に負けるわけにはいかない」
「誰から聞いたの」
「ジェイ殿から」
「……何でそこを話すの」
「お前が美味しそうに食べたと」
うわ。顔が熱くなる。熱のせいではない。たぶん。
メアリーが椀を差し出す。薄く切った林檎が、やわらかく煮えている。蜂蜜が少し。
香りづけに、たぶんレモンの皮がほんの少し入っている。
匙で口に入れる。温かい。甘い。でも、くどくない。果樹園の林檎の酸味が、ちゃんと残っている。
「おいしい」
「だろう?」
兄がなぜか少し得意そうに言う。
「兄さんが作ったわけじゃないでしょ」
「うちの林檎だ」
「それはそう」
もう一口食べる。身体が少し戻る感じがする。
メアリーがヘンリーを兄から受け取る。兄は立ち上がり、寝台脇の机に畳んだ紙を一枚置いた。
「これは?」
「ジェイ殿から。起きて、読めるようなら、と」
「今読む」
「今でなくてもいい」
「読む」
兄は止めない。紙を開く。字は、相変わらず整っている。
――アマンダ嬢。
――回収品と書類は、すべてエルフォード家に引き渡しました。
――フェンウィック家としての正式な謝罪と賠償については、伯爵よりウィリアム様へ書状が届きます。
――クリストファーの件で、あなたとウィリアム様、ヘンリー様に負わせたものは、簡単に償えるものではありません。
――ただ、今後の手続きで、あなたが再び走らされることのないよう努めます。
――まずは休んでください。
――これはお願いではなく、共同作業者としての要請です。
――ジェイ・フェンウィック。
最後で少し笑う。
「共同作業者」
「いい言葉だな」
兄が言う。
「兄さん、読んだの?」
「読んでいない。だが、お前が笑ったから、悪いことは書いていないだろう」
「見てたの」
「兄だからな」
兄は椅子に戻る。
メアリーがヘンリーを抱いたまま下がろうとする。その時、ヘンリーの手の中で、がらがらがまた鳴った。
ちり。小さな音。今度は、ちゃんと家の中で鳴っている。宿代でも、口止めでも、逃げる荷でもなく。ヘンリーの手の中で。
「兄さん」
「何だ」
「戻ってきたね」
「ああ」
兄はがらがらを見て、うなずく。
「戻ってきた」
私はもう一度、ジェイの手紙を見る。共同作業者。たしかに、そうだった。
怒りながら、走りながら、拾いながら、書かせながら、一緒に仕事をした。
そして、たぶん。まだ終わっていない。
「アマンダ」
兄の声が少し低くなる。
「今、何か考えたな」
「考えてない」
「嘘だ」
「少しだけ」
「寝なさい」
「はい」
今度は素直に返事をする。林檎をもう一口食べる。甘くて、温かい。
窓の外では、風が果樹園の方から吹いている。葉の擦れる音がする。人が暮らす音だ。
今はそれを聞きながら、眠ってもいい気がした。




