26 ようやく帰宅
すべての確認が終わると、フェンウィック家の使いがクリスを連れて出る。
シャーリーンは、湯治宿の本館で実家からの迎えを待つことになる。
エルフォードの従者が一人残る。グレイヴスも手配を済ませてから戻ると言う。
「お嬢様は先にお戻りください」
「でも」
「旦那様がお待ちです」
それを言われると弱い。
「分かったわ」
馬の準備が整う。回収品は、馬車に積む。
昨日まで馬で走り続けた道を、帰りは馬車で行くことになった。
ベスも休ませる。人も休ませる。悔しいが、正しい。
ジェイも馬車に乗る。
「あなたはフェンウィックの方へ行かなくていいの?」
「父の使いが兄を連れます。私はエルフォードへ」
「なぜ」
「回収品と書類を届けるためです」
「グレイヴスでもできるわ」
「私が行きます」
そう言うとジェイは、窓の外を見る。霧はだいぶ薄くなっていた。森の木々が、昨日よりはっきり見える。
「フェンウィック家の者として、ウィリアム様に直接詫びます」
「兄さんは、あなたに謝られると困るわ」
「それでも」
「頑固ね」
「はい」
「では来て」
「はい」
馬車が動き出す。離れが遠ざかる。湯治宿の本館も、古い木々の奥に沈む。
帰り道は、昨日の追跡と同じ道を逆にたどる。けれど、見え方が違う。
祠。湯治宿。ハドリー宿。駅馬車場。村の洗濯屋。ロムジーの船着き場。
ひとつひとつ、昨日の怒りが残っている。でも、その怒りの中から、物は戻ってきた。
車内には、布包みが置かれている。揺れるたび、かすかに銀が鳴る。ヘンリーのがらがらかもしれない。
「鳴ったわ」
「はい」
「ヘンリーが持ったら、もっと可愛い音がすると思う」
「そうでしょうね」
「兄さん、泣くかしら」
「泣くかもしれません」
「困るわね」
「泣かせてあげてください」
まただ。この人は、時々さらりとそういうことを言う。
「兄さんが泣いたら、私まで泣くかもしれない」
「それも、よろしいのでは」
「よくないわ」
「なぜ」
「止まらなくなったら困るから」
すると彼は少し黙り、考える。
「では、止めます」
「またそれ」
「はい」
「どうやって」
「まず、椅子に座らせます」
「実務ね」
「次に、温かい茶を」
「それで?」
「泣き止むまで、何も言いません」
窓の外を見る。草地が続いている。遠くに、果樹園のある丘が見え始めた。
「それは、効くかもしれないわ」
「なら、そうします」
私は少しだけ笑う。笑ったあと、急にまぶたが重くなる。
昨日からの疲れが、馬車の揺れに合わせて身体の中へ沈んでくる。
まだ駄目だ。帰って、兄に会う。ヘンリーを見る。回収品を渡す。鍵の確認をする。書類を……
「アマンダ嬢」
ジェイの声がする。
「少し眠ってください」
「眠らないわ」
「では、目を閉じるだけでも」
「同じでしょう」
「近いですが、少し違います」
「詭弁だわ」
「便利です」
言い返そうとして、できない。
目を閉じるだけ。そう思って、少しだけまぶたを下ろす。
馬車の音。車輪の音。布包みの中で、銀が小さく鳴る音。人が暮らす土地へ帰る音だ。
ほんの少しだけ。ほんの少しだけなら―― そう思ったところで、意識がふっと切れる。
◇
目を開けた時、馬車はエルフォードの門の前にいた。
見慣れた門柱。石の上に、蔦が少し絡んでいる。その向こうに、ゆるやかな坂と、館へ続く砂利道。
帰ってきた。
思った途端、身体が重くなる。
眠ったのは、ほんの少しのはずだ。けれど、まぶたの裏にまだ馬車の揺れが残っている。頭の奥も鈍い。
「着きました」
ジェイの声がする。
「……寝ていた?」
「少し」
「起こしてくれてよかったのに」
「門が見えてからでいいと思いました」
「そう」
文句を言うほどの力がない。
馬車が館の前で止まる。扉が開く前に、外の声が聞こえた。
「アマンダ」
兄の声だ。思わず背筋が伸びる。
扉が開く。先にジェイが降り、こちらへ手を差し出す。その手を借りて馬車を降りると、玄関の前に兄が立っていた。
眼鏡は、ちゃんとかかっている。丸い銀縁。鼻の上にきちんと乗っている。片側はずれていない。それだけで、喉の奥が変になる。
兄の顔色はまだよくない。けれど、昨日のように魂だけがどこかへ行ってしまった顔ではない。少し痩せたようにも見える。たった一日なのに。
隣にはメアリーがいて、ヘンリーを抱いている。小さな甥は、白い布にくるまれて、眠たそうに口を動かしていた。
「兄さん」
言葉が出る。
「戻ったわ」
「ああ」
兄は一歩近づく。
「お帰り、アマンダ」
ただ、それだけだった。それだけで、足元が少し頼りなくなる。
違う。まだだ。まだ確認がある。
「兄さん、回収したわ。ヘンリーの銀杯も、がらがらも、スプーンも。母上の首飾りと、祖母のブローチも。家政鍵も、肖像画も、眼鏡も」
言いながら、馬車の方を見る。
「書類もある。離縁の同意書と、婚約破棄の同意書と、持ち出し品の確認書。フェンウィック伯爵からの書状も。あと、鍵は替えたと聞いたけど、薬棚とリネン室と、それから――」
「アマンダ」
「それから、シャーリーン様の部屋の確認は――」
「アマンダ!」
兄の声が、少し強くなる。思わず口を閉じる。兄は怒鳴らない人だ。その兄が、二度目で少しだけ声を強くした。
「もういい」
「でも」
「よくやってくれた」
兄はそう言って、私の肩に手を置いた。温かい。大きい。昔から、兄の手はこうだった。
「もういい。まず座りなさい」
「まだ座るわけには」
「座りなさい」
まただ。兄が命じている。
めったにないことだ。めったにないから、逆らい方が分からない。
「兄さん」
「お前の顔色が悪い」
「それは、兄さんも」
「私はスープを飲んだ」
「えらいわ」
「お前の命令だったからな」
少しだけ笑いそうになる。でもうまく笑えない。
ヘンリーが、メアリーの腕の中で小さく声を出した。そちらを見る。丸い頬。小さな手。何も知らない顔。
その子の銀杯も、がらがらも、スプーンも戻った。
「ヘンリー」
手を伸ばそうとする。
――その瞬間、膝から力が抜けた。




