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兄嫁が婚約者と愛の逃避行!? 赤ん坊を置いて持ち出した物、全て返して頂きます!  作者: さんけい


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25/33

25 翌朝の馬鹿者たち

 朝は、霧の中から始まった。

 窓の外が白い。遠くの木も、道も、厩の屋根も、輪郭だけになっている。

 それでも宿は動いている。廊下の向こうで湯を運ぶ足音がする。厨房から、卵を茹でる匂いと、昨日の煮込みを温め直す匂いが流れてくる。外では馬が鼻を鳴らしている。

 顔を洗うと、昨日より少し頭が重い。当然だ。あれだけ走って、あれだけ怒って、あれだけ書かせた。身体が平気なふりをしているだけだ。

 でも、まだ倒れるわけにはいかない。


 食堂へ下りると、ジェイはもう席にいた。

 卓には薄い粥と、茹で卵と、昨日のパンを焼き直したもの。小さな器には林檎の煮たものが入っている。

 焼き林檎ほど甘くはない。けれど、湯気と一緒に酸味のある香りが立つ。


「おはようございます、アマンダ嬢」

「おはよう、ジェイ様」


 昨日の夜、一度だけ呼び方が崩れた。けれど朝になると、また少し戻る。それでいい。

 戻る場所があって、そこからまた少しずつ変わればいい。


「眠れましたか」

「少し」

「私もです」

「嘘でもよく眠ったとは言わないのね」

「信じませんよね」

「信じないわ」


 粥を口にする。塩気は薄い。けれど、昨日の煮込みの汁を少し入れてあるらしい。

 麦がやわらかく、鶏の味がほんの少しする。胃に優しい。ありがたい。

 熱い茶を飲むと、少し目が覚める。


「今日は、まず離れね」

「はい。夜の間、二人は動いていません」

「動けなかった、ではなく?」

「それもあります」


 淡々と彼は言う。


「フェンウィックの使いが二人、エルフォードの従者が一人、宿の者が一人。出ようとしても、すぐ分かります」

「クリスは騒いだ?」

「一度だけ」

「何て」

「弟のくせに、と」

「便利な言葉ね」

「はい」


 彼は卵の殻を割る。白身に少し塩をつけ、半分を口に入れる。


「シャーリーン様は?」

「泣いていたそうです」

「何について?」

「自分のことを」

「そう」


 もう驚かない。

 ヘンリーではない。兄でもない。自分のこと。なら、もう十分だ。


 食事を終える頃、グレイヴスが入ってくる。


「お嬢様。フェンウィック伯爵閣下より、正式な書状が届きました」


 ジェイにも同時に封書が渡される。封を切り、読む。読み終えるまで、顔はほとんど変わらない。


「父は、兄の権利停止を正式に進めるそうです。今日から私が代理になります。兄は一度フェンウィックへ連れ戻す。ただし、エルフォード家との処理が済むまでは、自由な外出も通信も認めない」

「シャーリーン様は?」

「彼女の実家へも知らせが行っています。迎えは来るでしょうが、エルフォード家への離縁同意と返還確認が優先です」

「よかった」


 よかった、でいいのかは分からない。

 でも、少なくとも兄の家へ戻されることはない。ヘンリーの側に、あの人が急に立つことはない。

 それだけでいい。

 こちらの手紙も開く。兄の字だ。


 ――アマンダ。

 ――昨夜、回収品の知らせを受け取った。

 ――鍵はすべて替えた。

 ――ヘンリーはよく眠った。

 ――朝、ミルクを飲んだ。

 ――メアリーが、少し笑ったと言っている。

 ――帰りは急がなくていい。

 ――だが、早く顔を見せてくれると助かる。

 ――ジェイ殿にも、どうか無理をさせないでほしい。


 最後の一文で、少しだけ口元が動きそうになる。兄さん。自分の方がひどい目に遭っているのに、こちらの同行者まで心配している。そういう人だ。


「兄さん、ヘンリーが笑ったって」

「それはよかった」


 ジェイの声が、少しやわらぐ。


「ええ」

「早く帰りましょう」

「ええ」


 離れへ行く前に、荷を確認する。回収品は、夜の間グレイヴスとジェイが二重に封じてくれていた。

 布包みがいくつもある。箱もある。書類もある。

 来た時には、怒りと馬だけだった。帰る荷は、来た時よりずっと重い。

 離れの扉を開けると、冷えた空気が出てくる。

 クリスは椅子に座っていた。上着は乱れている。昨日より顔色が悪い。

 シャーリーンは寝台の端に腰掛けている。目元が赤い。それでも髪は直してあった。そこは、直すのか。


「おはようございます」


 私は言う。礼儀は捨てない。こちらが捨てるものではない。

 クリスは返事をしない。シャーリーンは小さく頭を下げる。

 ジェイは父親の書状を机に置く。


「兄上。父上の決定です」

「聞きたくない」

「聞かなくても、決定は変わりません」


 クリスの指が、椅子の肘掛けを掴む。


「あなたはフェンウィック家へ戻ります。ただし、長男としての権利は停止。今後の処遇は父上と親族会議で決まります」

「お前が、私の席に座るのか」

「必要なら」

「嬉しいか」


 その言葉は、かなり嫌な音をしていた。ジェイはすぐには答えない。


「嬉しいわけがありません」

「では断れ」

「断りません」

「なぜ」

「フェンウィック家が必要とするからです」


 クリスが笑う。乾いた、短い笑いだ。


「お前は昔からそうだ。家、家、家。自分がない」

「あります」


 ジェイは静かに言う。


「だから、家を壊す人間に渡したくない」


 クリスの笑いが止まる。私はその横で、シャーリーンへ書類を出す。


「シャーリーン様。昨日署名した内容の控えです。あなたの実家にも送ります」

「……ウィリアム様は」

「ヘンリーの側にいます」

「あの方は、私に何か」

「何も」


 シャーリーンの目が揺れる。


「何も?」

「ええ」


 言わない方がいいと思った。

 兄は怒っている。でも、その怒りをこの人へ届ける必要はない。それは兄のものだ。この人のためのものではない。


「ヘンリーは」

「ミルクを飲んで、笑ったそうよ」


 シャーリーンの唇が開く。何か言おうとする。でも、出てこない。

 やっとか。やっと、赤ん坊の名で何か止まったのか。遅い。

 でも、何もないよりはましかもしれない。


「あなたは今後、ヘンリーの母親として何を望むか、書面で出して」

「会えるのでしょうか」

「それを決めるのは、兄さんと、正式な手続きよ。少なくとも、勝手に会いに来ることは許さない」


 シャーリーンはうつむく。


「分かりました」


 その声が本当に分かっている声かどうかは、今は判断しない。

 グレイヴスが回収品の確認書を読み上げる。フェンウィック家の使いも立ち会う。

 ひとつずつ、ここにあるもの、ハドリーで回収済みのもの、エルフォードへ送るものを確認する。

 クリスは何度も苛立ったように息を吐く。シャーリーンは途中で涙を拭く。それでも、確認は止めない。

 最後にジェイが言う。


「兄上。これで、あなたが持ち出した、または使用したものの確認は一度終わります。後から別のものが見つかった場合、さらに追記します」

「もう好きにしろ」

「はい」


 短い返事。好きにしろ、と言われたら、本当に好きにする人だ。

 頼もしい。

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