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兄嫁が婚約者と愛の逃避行!? 赤ん坊を置いて持ち出した物、全て返して頂きます!  作者: さんけい


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24/33

24 終わった後の食事は何より美味しい

 湯治宿の本館は、離れよりずっと人の気配がある。

 古い床板。湯気のこもった廊下。薬草と薪の匂い。

 厨房の方から、鍋の蓋が鳴る音がする。

 さっきまでいた離れは、火が入っていても冷たかった。あの二人の声があったからかもしれない。

 言い訳と、泣き声と、こちらを責めるための甘い言葉。あれは火より部屋を冷やす。


 本館の食堂に入ると、空気が違う。

 大きな暖炉の前に、厚い木の卓がある。椅子は不揃い。磨き込まれているが、脚に傷もある。窓の外は霧で白い。

 その白さの手前に、橙色の灯りがいくつも揺れている。


「こちらへ」


 宿の女将が、暖炉に近い席を指す。私は座る前に、手に持っていた包みを見た。

 銀杯。銀スプーン。兄の眼鏡。母の首飾り。祖母のブローチ。ヘンリーのがらがら。家政鍵。肖像画。

 どれも、今は布に包まれている。それでも重い。


「私が預かります」


 ジェイが言う。


「いいえ」

「では、卓の内側に置きましょう」

「そうするわ」


 足元に置くのは嫌だった。ジェイはすぐに椅子を一脚引き寄せ、そこへ荷を置き、自分の外套を背から外して上に掛けた。


「誰にも触らせません」

「ええ」


 それだけで、少し息が入る。


 女将が温かい布を持ってきた。手を拭く。指先が、自分で思っていたより冷えていた。

 すぐに、湯気の立つ皿が置かれた。まず、スープ。

 深い皿に、薄い金色のスープが入っている。玉葱と蕪、それから細く裂いた鶏肉。上には刻んだ香草が少し。

 匙を入れると、底からやわらかく煮えた麦が出てくる。

 ひと口飲む。


「……」


 声が出ない。温かい。ただ温かいだけで、胸のあたりが変になる。

 昼から何もまともに味がしなかった。パンも、肉も、ただ身体を動かすために入れただけだった。

 これは違う。

 玉葱の甘みがある。鶏の脂が薄く浮いていて、でも重くない。蕪は匙で押すと崩れるくらいやわらかい。

 麦が少し歯に当たって、やっと噛むことを思い出す。


「……おいしい」


 思わず、口から出た。ジェイが匙を止める。


「ええ」

「……今まで、何を食べていたのかしら」

「燃料です」

「ひどい言い方」

「でも、そうでした」

「そうね」


 また一口飲む。今度はちゃんと味が分かる。

 熱い。舌を少し焼く。でも、その熱さがありがたい。

 次に、厚く切ったパンが出る。焼きたてではない。けれど、暖炉の前で炙ってある。

 表面はかりっとして、中はまだ少し水分が残っている。添えられたバターを塗ると、すぐに溶ける。

 かじる。バターの塩気。小麦の甘み。焦げた端の香ばしさ。

 思わず、もう一口いく。


「アマンダ嬢」

「何」

「急に食べると、あとで苦しくなります」

「分かっているわ」


 そう言いながら、また少し食べる。

 ジェイは何か言いかけて、やめて自分のパンにもバターを塗る。

 それから、一口。彼も止まる。


「どうしたの」

「……いえ」

「口に合わない?」

「逆です」


 ジェイはパンを見下ろす。


「ようやく、自分が空腹だったと分かりました」

「でしょう」

「はい」


 その返事が、いつもより少しだけ弱い。疲れているのだ。この人も。

 兄を追い、父に書き、権利停止を告げ、書面を作り、逃げ道を塞いだ。ずっと正しく立っていた。

 正しく立つのも、体力を使う。


 女将が次の皿を置く。鹿肉と根菜の煮込みだった。深い茶色の汁に、肉と人参、芋、茸が沈んでいる。

 匙ではなく、木の小さなナイフとフォークがつく。肉に触れると、ほろりと崩れた。

 噛むと、獣の濃い味がある。でも臭くない。

 赤葡萄酒と胡椒、それから何か甘いもの。干した果物かもしれない。

 芋は汁を吸っている。人参は甘い。茸は噛むと、じゅっと熱い汁が出る。


「これは」


 二口目を食べてから、女将を見る。


「おいしいわ」


 女将がほっとしたように笑う。


「古い宿ですが、煮込みだけは昔からの味でございます」

「煮込みだけ?」

「あと焼き林檎も少し」

「それもお願い」


 言ってから、自分で驚く。食べる気がある。ちゃんとある。

 ジェイはこちらを見る。その目が少しだけやわらぐ。


「何」

「いえ」

「今、少し笑ったでしょう」

「そう見えたなら、たぶん」

「たぶん?」

「安心しました」


 そこで、こちらの手が止まる。


「私が食べているから?」

「はい」


 まっすぐ答えられると困る。


「ジェイ様も食べて」

「食べています」

「もっと」

「では」


 彼は素直に煮込みを食べる。匙ではなく、パンで皿の端の汁を拭う。その動きが妙に自然で、少し意外だった。


「そういうことをするのね」

「します」

「伯爵家の次男なのに」

「腹が減っている時、煮込みの汁を残す理由がありません」


 正しい。とても正しい。私は少し笑う。たぶん、今日初めてまともに笑った。

 ジェイも気づいたらしい。

 けれど何も言わない。そのままパンを食べる。ありがたい。今、笑ったことを指摘されたら、泣きそうになる。

 どんどん食べる。スープ。パン。煮込み。

 熱い茶も来る。蜂蜜が少し入っている。喉を通ると、身体の中の細いところまで温まる。

 最後に、焼き林檎。小ぶりの林檎を半分に割って、芯を抜き、そこに蜂蜜と砕いた胡桃を詰めて焼いたものだった。皮は少ししわが寄っている。匙を入れると、果肉がとろりと崩れる。湯気と一緒に、甘酸っぱい香りが上がる。

 口に入れる。熱い。甘い。酸っぱい。胡桃がかりっと当たる。


「……兄さんの果樹園の林檎の方が、たぶんおいしいわ」

「はい」

「でも、これはこれでおいしい」

「はい」

「持って帰ったら、兄さん食べるかしら」

「食べると思います」

「ヘンリーはまだ無理ね」

「いずれ」

「そうね。いずれ」


 その言葉が、思ったより胸に残る。いずれ。

 ヘンリーは大きくなる。今日のことを覚えてはいないだろう。でも、今日持ち出されたものは戻る。

 兄の家は、鍵を替える。母親は、書面の上で切り離される。それでも、ヘンリーは生きる。

 兄と。私と。家の者たちと。それから。

 向かいに座るジェイを見る。彼は焼き林檎を匙で割っている。丁寧だ。何をしていても、手順を飛ばさない。


「ジェイ様」

「はい」

「今日は助かったわ」

「私もです」

「あなたも?」

「一人では、兄を止めきれなかったかもしれません」

「そう?」

「はい。アマンダ嬢がいたから、兄がごまかせなかった」

「私は怒っていただけよ」

「怒りを、必要なところへ向けていました」


 その言い方が、少し困る。


「そう見えた?」

「はい」

「実際は、途中で何度も叫びたかったわ」

「叫んでもよかったと思います」

「そうしたら、たぶん止まらなくなった」

「では、止めます」

「止められる?」

「努力します」


 少し間が空く。

 それから、二人とも同時に茶を飲む。何だかおかしくて、私はまた少し笑う。今度はジェイも、ほんの少し笑った――笑った、と思う。口元だけだが。


 食事が終わる頃、足元の荷を見る。外套の下で、回収したものが静かに置かれている。

 逃げ道でばらまかれたもの。宿代にされたもの。預けられたもの。売られかけたもの。

 今は、戻るのを待っている。


「明日、帰るのね」

「はい。まずエルフォードへ」

「フェンウィックへは?」

「父の使いが兄を引き取ります。私は、回収品と書類をエルフォードへ届ける方が先だと思います」

「あなたの家の問題でもあるのに」

「だからです」


 ジェイは茶器を置く。


「フェンウィック家がしたことを、エルフォード家へ返す必要があります」

「クリスがしたことでしょう」

「フェンウィック家の長男がしたことです」

「……そういうところ、頑固ね」

「よく言われます」

「誰に」

「兄に」


 少しだけ、空気が変わる。ジェイは茶の表面を見る。


「昔から、融通が利かないと」

「いいんじゃない」


 私は言う。


「今日、その融通の利かなさにずいぶん助けられたわ」


 ジェイの目が、こちらに戻る。


「なら、よかった」


 今度の声は、少し低い。

 食堂の暖炉で、薪が崩れる。火の粉が小さく上がる。

 女将が食器を下げに来る。私は最後の茶を飲みきる。

 お腹が温かい。手も温かい。頭は、少しぼんやりしてきた。まずい。気を抜くと、一気に眠くなる。


「アマンダ嬢」

「何」

「もう休みましょう」

「まだ書類を」

「明日の朝に確認します」

「でも」

「勝つために休みます」


 ああ。それを言われると、聞くしかない。


「分かったわ」


 立ち上がる。少し、足元が揺れた。

 ほんの少しだ。

 けれどジェイの手がすぐに出る。肘を支えられる。


「大丈夫?」


 大丈夫ですか、ではなかった。私はその違いに気づく。

 気づいたけれど、すぐには返せない。


「大丈夫」


 そう答える。ジェイは一拍置いてから手を離す。


「では、部屋まで」

「お願い」


 荷はグレイヴスが持つ。ジェイは私の少し横を歩く。

 廊下は暖かい。湯の匂いがする。どこかで誰かが、小さく笑っている。人が暮らしている音だ。

 あの二人が退屈だと言ったものに、よく似ている。

 私はそれが、今、とてもありがたい。

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