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兄嫁が婚約者と愛の逃避行!? 赤ん坊を置いて持ち出した物、全て返して頂きます!  作者: さんけい


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23/33

23 回収終了

「……アマンダ」


 クリスがこちらを見た。呼び方が、妙に柔らかい。嫌な予感がする。


「君は、本当に私を見捨てるのか」


 ほら来た。


「ええ」

「僕たちは婚約していた」

「そうね」

「君は、僕を好いていてくれたはずだ」


 少しだけ、昔の庭が浮かぶ。

 クリスが来る日には、私は確かに少し緊張していた。髪飾りを選び、ドレスを選び、兄に変ではないかと聞いた。兄は毎回、少し困ったように笑って、よく似合っていると言ってくれた。

 あの頃の私は、クリスを好いていたのだろう。ただ、それは今のクリスではない。

 いや、違う。今見えているものが、あの頃は見えていなかっただけだ。


「好いていたわ」


 正直に言う。クリスの目が少し明るくなる。だから、そのまま続ける。


「だから、あなたに贈ったものを馬代にされたのは不快だった」


 明るくなった目が止まる。


「アマンダ」

「あなたの好きだった私は、たぶんここにはいないわ」

「そんなことは」

「強いから大丈夫だと思ったのでしょう」


 クリスは黙る。


「ええ、大丈夫。私は強いから、ちゃんとあなたを過去にできる」


 紙を指で押す。


「署名して」


 クリスはもう、何も言わない。ペンを取る。書く。

 その間に、外から馬の音が近づく。ハドリーへ走った使いだ。

 扉の外で止まり、グレイヴスが出ていく。少しして戻ってきた手には、小さな箱が二つあった。


「お嬢様」

「回収できたのね」

「はい。宝飾商は事情を聞き、すぐ返したとのことです。代金は後日、正式に請求書を」


 箱を開ける。母の小粒真珠の首飾り。祖母のブローチ。無事だ。

 胸の奥が、ようやく少しだけほどけたような気がした。でも、すぐ閉じる。まだ終わっていない。


「これで、兄さんの手紙にあったものは揃ったわ」


 私はシャーリーンを見る。


「他には?」


 シャーリーンは首を横に振る。


「本当に?」

「本当です」

「クリスは?」

「……ない」


 ジェイがクリスを見る。


「兄上。ここで嘘をつけば、後でさらに悪くなります」

「ないと言っている!」


 その声に、部屋の隅で小さく金属音がした。皆の目がそちらへ向く。

 暖炉の横。古い薪箱の陰。私は歩いていく。しゃがむ。

 そこに、小さな銀のスプーンが一本落ちていた。柄の先に、Eの文字。

 エルフォード家の子供用の銀食器。ヘンリーのものだ。

 どうして、ここまで。

 指で拾い上げる。シャーリーンが息を呑む。クリスが目を閉じる。


「ない? のね?」


 私はスプーンを掲げる。シャーリーンが震えた声で言う。


「……それは、鞄に入っていたのを忘れて」

「ヘンリーのものばかり、よく忘れるのね」


 返事はない。クリスも言わない。ジェイが紙に一行書き足す。


「ヘンリー様の銀スプーン、一本。現地で追加回収」


 その筆の速さが、かえって胸に来る。これが記録になる。

 ヘンリーが大きくなった時、見せるかどうかは分からない。できれば見せたくない。でも、あったことは消えない。

 母親が、逃げる荷に自分の銀杯とスプーンを入れていたことは。


「シャーリーン様」


 私は言う。


「あなた、ヘンリーを何だと思っているの」

「……私の、子です」

「違うわ」


 シャーリーンが顔を上げる。


「あなたは今、その答えをする資格を自分で捨てている途中よ」


 声は震えなかった。震えなくてよかった。


「ヘンリーは兄さんの子。エルフォード家の子。今はそれだけでいい」


 ジェイが確認書を出す。


「追加分も含め、署名を」


 シャーリーンは、もう言い返さない。書く。クリスも書く。

 紙が一枚ずつ増えていく。署名が増えていく。逃げ道が、紙の上で塞がれていく。

 全部を書き終えた時、外はずいぶん暗くなっていた。

 霧の向こうに、フェンウィック家の使いが立っている。エルフォードの従者もいる。グレイヴスは、書類を丁寧にまとめている。

 シャーリーンは椅子に座り込んでいる。クリスは立ったまま、窓の外を見ている。


「これで、どうするというんだ」


 クリスが低く言う。


「私たちを連れ戻して、晒し者にするのか」

「連れ戻さないわ」


 私は答える。クリスが振り向く。


「何?」

「戻ってこられても困るもの」


 シャーリーンの手が動く。


「ここから先、あなたたちは好きにすればいい。ただし、今夜はこの宿から動かないで。フェンウィック家とエルフォード家の使いが見張る。明朝、あなたたちの今後について、ご実家とフェンウィック伯爵の判断が届く」

「私たちの意思は」

「あるでしょう」


 私はうなずく。


「ただし、家名と財産と他人のものを使わない範囲でね」


 クリスは何か言おうとする。けれど、ジェイが先に言った。


「兄上。愛が本物なら、明日の朝まで待てるでしょう」


 クリスの顔が歪む。もう、言葉はない。

 私はテーブルの上のものをひとつずつ布に包む。

 ヘンリーの銀のがらがら。銀杯。銀スプーン。兄の眼鏡。ハンカチ。母の首飾り。祖母のブローチ。家政鍵。肖像画。

 持てるだけ持つ。

 ジェイが横から、そっと言う。


「半分、持ちます」

「いいわ」

「今は、持ちます」


 その言い方に、少しだけ手が止まる。今は。私は銀杯と肖像画を渡す。


「お願い」

「はい」


 部屋を出る。扉の外の空気は冷たい。

 霧が濃い。けれど、さっきより息がしやすい。

 グレイヴスが後ろから声をかける。


「お嬢様、今夜はいかがなさいますか」

「この近くに泊まれる宿は?」

「湯治宿の本館ならば」

「そこに。馬も人も休ませる。二人はこの離れから出さないで」

「承知いたしました」


 ジェイがフェンウィック家の使いへ指示を出す。


「兄から目を離すな。シャーリーン様と二人きりにはしすぎるな。勝手に書状を出させるな。明朝、父上からの正式な返事を待つ」

「承知しました」


 私はその横顔を見る。この人は、兄を捕まえた。でも、勝った顔はしていない。

 当然だ。兄なのだ。


「ジェイ様」

「はい」

「明日、まだ面倒ね」

「はい」

「でも今日は、ここまで来た」

「ええ」


 ジェイは、腕に抱えた肖像画を少し持ち直す。


「回収しました」


 その言葉に、胸の中で何かがようやく小さく鳴る。


「ええ」


 私はうなずく。


「回収したわ」

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