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「……アマンダ」
クリスがこちらを見た。呼び方が、妙に柔らかい。嫌な予感がする。
「君は、本当に私を見捨てるのか」
ほら来た。
「ええ」
「僕たちは婚約していた」
「そうね」
「君は、僕を好いていてくれたはずだ」
少しだけ、昔の庭が浮かぶ。
クリスが来る日には、私は確かに少し緊張していた。髪飾りを選び、ドレスを選び、兄に変ではないかと聞いた。兄は毎回、少し困ったように笑って、よく似合っていると言ってくれた。
あの頃の私は、クリスを好いていたのだろう。ただ、それは今のクリスではない。
いや、違う。今見えているものが、あの頃は見えていなかっただけだ。
「好いていたわ」
正直に言う。クリスの目が少し明るくなる。だから、そのまま続ける。
「だから、あなたに贈ったものを馬代にされたのは不快だった」
明るくなった目が止まる。
「アマンダ」
「あなたの好きだった私は、たぶんここにはいないわ」
「そんなことは」
「強いから大丈夫だと思ったのでしょう」
クリスは黙る。
「ええ、大丈夫。私は強いから、ちゃんとあなたを過去にできる」
紙を指で押す。
「署名して」
クリスはもう、何も言わない。ペンを取る。書く。
その間に、外から馬の音が近づく。ハドリーへ走った使いだ。
扉の外で止まり、グレイヴスが出ていく。少しして戻ってきた手には、小さな箱が二つあった。
「お嬢様」
「回収できたのね」
「はい。宝飾商は事情を聞き、すぐ返したとのことです。代金は後日、正式に請求書を」
箱を開ける。母の小粒真珠の首飾り。祖母のブローチ。無事だ。
胸の奥が、ようやく少しだけほどけたような気がした。でも、すぐ閉じる。まだ終わっていない。
「これで、兄さんの手紙にあったものは揃ったわ」
私はシャーリーンを見る。
「他には?」
シャーリーンは首を横に振る。
「本当に?」
「本当です」
「クリスは?」
「……ない」
ジェイがクリスを見る。
「兄上。ここで嘘をつけば、後でさらに悪くなります」
「ないと言っている!」
その声に、部屋の隅で小さく金属音がした。皆の目がそちらへ向く。
暖炉の横。古い薪箱の陰。私は歩いていく。しゃがむ。
そこに、小さな銀のスプーンが一本落ちていた。柄の先に、Eの文字。
エルフォード家の子供用の銀食器。ヘンリーのものだ。
どうして、ここまで。
指で拾い上げる。シャーリーンが息を呑む。クリスが目を閉じる。
「ない? のね?」
私はスプーンを掲げる。シャーリーンが震えた声で言う。
「……それは、鞄に入っていたのを忘れて」
「ヘンリーのものばかり、よく忘れるのね」
返事はない。クリスも言わない。ジェイが紙に一行書き足す。
「ヘンリー様の銀スプーン、一本。現地で追加回収」
その筆の速さが、かえって胸に来る。これが記録になる。
ヘンリーが大きくなった時、見せるかどうかは分からない。できれば見せたくない。でも、あったことは消えない。
母親が、逃げる荷に自分の銀杯とスプーンを入れていたことは。
「シャーリーン様」
私は言う。
「あなた、ヘンリーを何だと思っているの」
「……私の、子です」
「違うわ」
シャーリーンが顔を上げる。
「あなたは今、その答えをする資格を自分で捨てている途中よ」
声は震えなかった。震えなくてよかった。
「ヘンリーは兄さんの子。エルフォード家の子。今はそれだけでいい」
ジェイが確認書を出す。
「追加分も含め、署名を」
シャーリーンは、もう言い返さない。書く。クリスも書く。
紙が一枚ずつ増えていく。署名が増えていく。逃げ道が、紙の上で塞がれていく。
全部を書き終えた時、外はずいぶん暗くなっていた。
霧の向こうに、フェンウィック家の使いが立っている。エルフォードの従者もいる。グレイヴスは、書類を丁寧にまとめている。
シャーリーンは椅子に座り込んでいる。クリスは立ったまま、窓の外を見ている。
「これで、どうするというんだ」
クリスが低く言う。
「私たちを連れ戻して、晒し者にするのか」
「連れ戻さないわ」
私は答える。クリスが振り向く。
「何?」
「戻ってこられても困るもの」
シャーリーンの手が動く。
「ここから先、あなたたちは好きにすればいい。ただし、今夜はこの宿から動かないで。フェンウィック家とエルフォード家の使いが見張る。明朝、あなたたちの今後について、ご実家とフェンウィック伯爵の判断が届く」
「私たちの意思は」
「あるでしょう」
私はうなずく。
「ただし、家名と財産と他人のものを使わない範囲でね」
クリスは何か言おうとする。けれど、ジェイが先に言った。
「兄上。愛が本物なら、明日の朝まで待てるでしょう」
クリスの顔が歪む。もう、言葉はない。
私はテーブルの上のものをひとつずつ布に包む。
ヘンリーの銀のがらがら。銀杯。銀スプーン。兄の眼鏡。ハンカチ。母の首飾り。祖母のブローチ。家政鍵。肖像画。
持てるだけ持つ。
ジェイが横から、そっと言う。
「半分、持ちます」
「いいわ」
「今は、持ちます」
その言い方に、少しだけ手が止まる。今は。私は銀杯と肖像画を渡す。
「お願い」
「はい」
部屋を出る。扉の外の空気は冷たい。
霧が濃い。けれど、さっきより息がしやすい。
グレイヴスが後ろから声をかける。
「お嬢様、今夜はいかがなさいますか」
「この近くに泊まれる宿は?」
「湯治宿の本館ならば」
「そこに。馬も人も休ませる。二人はこの離れから出さないで」
「承知いたしました」
ジェイがフェンウィック家の使いへ指示を出す。
「兄から目を離すな。シャーリーン様と二人きりにはしすぎるな。勝手に書状を出させるな。明朝、父上からの正式な返事を待つ」
「承知しました」
私はその横顔を見る。この人は、兄を捕まえた。でも、勝った顔はしていない。
当然だ。兄なのだ。
「ジェイ様」
「はい」
「明日、まだ面倒ね」
「はい」
「でも今日は、ここまで来た」
「ええ」
ジェイは、腕に抱えた肖像画を少し持ち直す。
「回収しました」
その言葉に、胸の中で何かがようやく小さく鳴る。
「ええ」
私はうなずく。
「回収したわ」




