22 好きにすればいい
「愛だけでは、宿代になりませんでしたから」
ジェイの声は静かだった。けれど、クリスは顔を赤くする。
「馬鹿にしているのか」
「していません」
「しているだろう!」
「さっきも言いました。私はただ事実を言っています」
そう言って持ち出し品の確認書を机に置く。
「真珠の耳飾り。エルフォード家の小型馬車。ウィリアム様の眼鏡箱と予備眼鏡。ヘンリー様の銀のがらがら。ウィリアム様のハンカチ。アマンダ嬢から兄上へ贈られたクラヴァットピン。ウィリアム様とヘンリー様の肖像画。エルフォード家の家政鍵。ヘンリー様の洗礼用銀杯。エルフォード家の小粒真珠の首飾り。祖母君のブローチ。父上の金時計」
ひとつずつ読み上げる。こうして並べると、ひどい。
分かっていた。分かっていたけれど、ひどい。
シャーリーンは途中から顔を伏せている。クリスは口を結んでいる。
どちらも、反省している顔ではない。追い詰められて、どう言い返せばいいか探している顔だ。
「確認してください」
ジェイは紙を押す。
「こちらに記したものは、ここまでに回収したもの、または回収手配中のものです。抜けがあれば、今言ってください」
「そんなこと、いちいち覚えていない」
クリスが吐き捨てる。私は顔を上げる。
「いちいち?」
クリスの目がこちらへ来る。
「あなたたちには、いちいちなのね」
「アマンダ、そういう意味じゃ」
「兄さんの父の形見も。ヘンリーの銀杯も。私が刺したハンカチも。いちいち、覚えていないものなのね」
クリスは口を開きかける。でも、言葉が出ない。
シャーリーンが小さく言う。
「私は、ウィリアム様を苦しめたかったわけではありません」
「では、どうしたかったの」
「分かってほしかったのです」
「何を」
「あの家で、私がどれほど寂しかったか」
また、それか。
私は家政鍵を見る。小さな鍵束。兄が信じて渡したもの。
「兄さんに言ったの?」
「え」
「寂しいと。退屈だと。王都に行きたいと。夫婦で過ごす時間が欲しいと。兄さんに言ったの?」
シャーリーンは黙る。
「言ってないのね」
「言えませんでした」
「どうして」
「あの方は、いつも穏やかで、優しくて、領地の話ばかりで」
「それは言えない理由ではないわ」
「私が悪いと責めるのですか」
「ええ」
即座に答える。
「悪いわ」
シャーリーンの目が揺れる。
「兄さんが完璧な夫だったとは言わない。退屈だったなら、退屈だったのかもしれない。でも、言わずに、赤ん坊を置いて、私の婚約者と逃げて、家のものを持ち出した。その分は、あなたが悪い」
「……」
「全部を兄さんのせいにしないで」
シャーリーンは、また泣き始める。泣けばいい。ただ、手は止めさせない。
「署名して」
紙を示す。シャーリーンの手は震えながらも、ペンへ伸びる。今度は少し早い。
クリスはまだ動かない。
「兄上」
ジェイが呼ぶ。
「持ち出し品の確認書です。事実と違うなら、この場で指摘を」
「私は、盗人ではない」
「では、なぜ父上の金時計を馬代にしたのですか」
「あとで返すつもりだった」
「何で」
「何でって」
「どうやって返すつもりでしたか」
クリスの口が止まる。
「フェンウィック家の長男として戻って、父上に許されてからですか」
「……」
「それは返すとは言いません。家に尻拭いをさせると言います」
クリスの手が机の上で握られる。
「お前は昔からそうだ」
「何がです」
「正しいことばかり言う」
「兄上があまりに間違えるので」
返しが早い。部屋の外で、誰かが小さく咳をした。グレイヴスか、フェンウィック家の使いか。笑いをこらえたのかもしれない。
クリスはそれに気づいて、ますます顔を赤くする。
「ジェイ、私は兄だぞ」
「はい」
「お前は私に従う立場だ」
「昨日までは、そういう場面もありました」
「昨日まで?」
「今日からは違います」
ジェイは父親からの書状を机に置く。
「何度言えば分かりますか。父上の命で、私はフェンウィック家の暫定代理です。兄上は権利停止の対象です」
「私はまだ署名していない!」
「権利停止に兄上の署名は要りません」
淡々としている。クリスの方が、どんどん乱れていく。
私はそれを見て、少しだけ納得する。この人は、ずっとこうだったのだ。
愛想がよく、目立って、華やかで、人に囲まれる。でも、自分の足元を《《誰か》》に後始末させている。
その誰かが、きっとジェイだった。
乱れた後始末をする弟。忘れたものを拾う弟。父親に説明する弟。そして今回だけ、弟は片付け方を変えた。
兄ごと片付けることにしたのだ。
「署名を」
ジェイはもう一度言う。クリスはペンを取り、乱暴に名前を書く。インクがまた飛ぶ。
「これで満足か」
「いいえ」
ジェイはすぐ次の紙を出す。
「次に、今後フェンウィック家の名で宿、馬車、金品、紹介状を求めない旨の誓約書です」
「まだあるのか!」
「あります」
私は横から紙を一枚出す。
「こちらは、今後エルフォード家の名と、エルフォード子爵夫人の名で金品や便宜を求めない旨の誓約書」
シャーリーンが顔を上げる。
「そこまで」
「そこまでよ」
私は鍵束を押さえる。
「あなたは家政鍵を宿に預けた。つまり、エルフォード家の内側を外に出した。もう信用できない」
「私は」
「署名して」
シャーリーンはクリスを見る。クリスは顔を背けている。
さっきまで、彼女を守る英雄だった人は、もう自分の紙で手一杯だ。
シャーリーンの手がペンを取る。さらさらと音がする。字は美しい。こういう時でも、美しい。
そこも腹が立つ。字が美しいことと、中身がまともなことは、何の関係もない。
「これで、私たちはどうすればいいのですか」
シャーリーンが言う。
「だから、好きにすればいいわ」
「好きに?」
「二人は、本当の愛を見つけたのでしょう。互いだけを頼りに生きていくのでしょう。なら、好きにすればいい」
「お金もなく?」
「働けばいいのでは?」
シャーリーンは目を見開く。働く、という言葉が、まるで異国語のように聞こえたらしい。
「クリス様は、伯爵家の長男で」
「権利停止中です」
ジェイが言う。
「私は、子爵夫人で」
「なくなるための書類を書いている途中よ」
私が言う。シャーリーンの顔が白くなる。
「では、私は何者に」
「シャーリーン様に戻るのでしょうね。ご実家の姓に戻るのか、クリスとどこかで暮らして別の名を使うのか。それは、これから考えればいいわ」
「そんな」
「自由になりたかったのでしょう?」
その言葉は、今日何度目か。でも、何度でも言う。
自由が欲しいなら、名も責任も一緒に動かさなくてはいけない。
家の鍵だけ置いて、肩書きだけ持って逃げることはできないのだ。




