21 愛だけでは宿代にならない
シャーリーンの目が、今度こそ大きくなる。知っているのだ。
「どこ」
「それは」
「どこ」
「……銀杯は」
そこで止まる。私は一歩近づく。
「銀杯は?」
「まだ、あります」
「どこ」
シャーリーンは寝台の横の布袋を見る。グレイヴスがすぐ動く。布袋を開け、中身を出す。
衣類。リボン。小さな箱。そして、柔らかい布に包まれた銀杯。
ヘンリーの名が彫られている。
よかった。
よかったけれど、腹が立つ。洗礼用の銀杯まで持ち出したのか。
「首飾りとブローチは」
シャーリーンは黙る。クリスが目を逸らす。
「クリス」
様はつけない。
「あなた、知っているのね」
「……売ったわけじゃない」
「では?」
「預けただけだ」
「どこに」
「ハドリーの宝飾商に」
グレイヴスが小さく息を吸う。
「なぜ」
「現金が要ったんだ!」
クリスが叫ぶ。
「どこへ行っても、金が要る。馬車も宿も、全部だ。こちらは何もかも止められて」
「止められなければ、もっと使ったのね」
「それは」
「ジェイ様」
私は横を見る。
「はい」
「ハドリーにまだ人を置いている?」
「います」
「では、すぐ宝飾商へ。母の首飾りと祖母のブローチを回収。代金はエルフォードから払う。事情を書いて」
「もう書きます」
ジェイはその場で紙を出す。使いに命じ、ハドリーへ走らせる。
本当に早い。ありがたい。
でも、ありがたいと思うたびに、腹が立つ。なぜこの人が、兄と私のためにここまでしなくてはならないのか。なぜこの人の兄が、ここまで迷惑をかけているのか。
その迷惑を、私の兄嫁が増やしているのか。
「シャーリーン様」
私は離縁同意書をもう一度前へ出す。
「これ以上、何が出てくるの」
「……」
「先に言って。後から見つかったら、そのたびに兄さんに伝わる」
シャーリーンの涙がまた落ちる。
「ウィリアム様は」
「あなたが心配する相手ではないわ」
「でも」
「でも?」
「あの方は、私を責めないと思っていた」
言葉が出ない。一瞬だけ、本当に出ない。代わりに、グレイヴスが静かに言った。
「……あなたは旦那様を、何だとお思いですか」
シャーリーンがグレイヴスを見る。
年配の家令は、普段は声を荒げない。今も荒げていない。ただ、背筋を伸ばしている。
「旦那様は、お優しい方です。ですが、何をされても感じない木偶ではございません」
シャーリーンの手が震える。
「ヘンリー様は、お小さい。ですが、置いて行かれてよい荷ではございません」
グレイヴスはそこで一礼する。
「お嬢様。失礼いたしました」
「いいえ」
私は首を横に振る。
「もっと続けてもよかったわ」
クリスが苛立ったように机を叩く。
「使用人まで口を出すのか」
「うちの家令よ」
私はすぐ言う。
「あなたより、この件に口を出す権利があるわ」
「アマンダ!」
「何」
「君は変わった」
「今日だけで、ずいぶん色々あったもの」
「前は、もっと」
「扱いやすかった?」
クリスの口が閉じる。
「それとも、強いけれど自分には逆らわない女だと思っていた?」
「そんなことは」
「思っていたのよ」
私はペンを取って、クリスの前に置く。
「署名して」
「嫌だ」
「では、あなたは私との婚約を維持したまま、兄嫁と逃げた男として記録される」
「だから、それは」
「署名すれば、一方的な婚約破棄と、賠償の話になる。署名しなければ、不貞と誘拐と家名詐称と盗品換金の話が増える」
「誘拐?」
クリスがぎょっとする。ジェイが答える。
「シャーリーン様はエルフォード子爵夫人です。本人の意思だとしても、兄上が他家の夫人を連れ出し、家名を使って各所を移動した事実は消えません」
「彼女は自分の意思で」
「なら、なおさら書面にしていただきます」
シャーリーンが小さく首を振る。
「書いたら、私は」
「自由になるわ」
私は言う。自分でも嫌な声だと思った。
「あなたが望んだのでしょう」
「こんな形では」
「どんな形を望んでいたの」
返事はない。
「兄さんは泣いて許す。ヘンリーは何も知らず育つ。私は別の人を見つける。クリスは少し叱られるけれど、最後には長男に戻る。あなたは本当の愛を見つけたかわいそうな人として、誰かに慰めてもらう」
シャーリーンは泣いている。けれど、否定しない。否定できないのだ。
「都合がいいわね」
私は言う。
「でも、もう無理」
ジェイは紙を整える。
「兄上、こちらへ署名を。シャーリーン様も」
「書かないと言ったら」
クリスが低く言う。ジェイは扉の外を見る。
「フェンウィック家の使いが二名。エルフォード家の家令と従者が二名。宿の者もいます。拒否した記録を取ったうえで、最寄りの治安判事のところへお連れします」
「弟が兄を連行するのか」
「はい」
短い返事だった。クリスは椅子に座り込む。ようやく、膝が折れた。
シャーリーンも、手で顔を覆う。その指の間から、きれいに整えた爪が見える。
私はもう一度、紙を押す。
「書いて」
長い沈黙、とは言いたくない。
実際には、火が鳴る。外で馬が鼻を鳴らす。扉の外の誰かが、床板を踏み替える。
その音の中で、まずシャーリーンがペンを取る。手が震えている。字は少し乱れた。
けれど、名前は読める。シャーリーン・エルフォード。その名も、いずれ変わる。
次にクリスがペンを取る。彼はしばらく紙を睨んでいる。
「書いて」
ジェイが言う。クリスは乱暴に署名する。クリストファー・フェンウィック。
インクが少し跳ねる。ジェイは紙を確認し、乾かす。それからもう一枚を出す。
「次に、持ち出し品の確認書です」
クリスが顔を上げる。
「まだ書くのか」
「はい」
ジェイは静かに答える。
「愛だけでは、宿代になりませんでしたから」




