20 まだそんなことを
「返すものを返してもらっているだけよ」
そう言うと、シャーリーンは唇を噛む。
涙は出ている。頬を伝っている。けれど手は、まだペンへ伸びない。
「私は、そんなつもりでは」
「どれの話?」
「え」
「真珠? ヘンリーのがらがら? 兄さんの眼鏡? 家政鍵? それとも、父の形見の箱?」
ひとつ言うたびに、シャーリーンの指が膝の上で動く。
「どれを持ち出した時なら、そんなつもりではなかったと言えるの」
「……だって、必要だったのです」
「何に」
「逃げるために」
「では盗んだのね」
「違います!」
今度は声が大きい。
「私はあの家の女主人でした! なら、少しくらい持ち出したって」
「《《でした》》」
私はその一語だけを繰り返す。シャーリーンの口が止まる。
「今、自分で言ったわ。あの家の女主人でした、と」
「アマンダ様」
「なら、もう戻らないということでいいわね」
紙を押し出す。
「署名して」
シャーリーンはペンを取らない。代わりにクリスを見る。
「クリス様……」
甘い声だ。けれど、さすがにクリスもすぐには動かない。
ジェイがすぐ横にいる。扉の外にも足音が増えている。もう二人だけの舞台ではない。
「アマンダ」
クリスがこちらを見る。
「君は誤解している」
「何を」
「僕たちは、何も奪うつもりではなかった」
「では返して」
「だから、今こうして」
「今こうして?」
テーブルに並べたものを見る。
「こちらが追って、回収して、問い詰めて、ようやくここに並んだのよ。あなたたちが返したわけではない」
クリスは息を詰まらせる。
「でも、僕たちは本気なんだ」
「だから?」
「本気で愛し合っている。そこは分かってほしい」
「分かったわ」
あまりにすぐ答えたので、クリスが少しだけ目を開く。
「なら」
「好きにしたらいい」
シャーリーンもこちらを見る。
「二人で、どこへでも行けばいい。愛し合っているなら、それで暮らせばいい」
「アマンダ……」
「ただし」
私は家政鍵に手を置く。
「エルフォード子爵夫人という名は返して。フェンウィック伯爵家の長男という名で宿代を踏み倒すのもやめて。私の婚約者という立場も返して。兄さんの夫としての名誉を踏んで歩くのもやめて」
クリスの喉が動く。
「それでは、僕たちは」
「何?」
「何もなくなる」
その言葉に、誰もすぐには返さなかった。
何もなくなる。
この男は、今そう言った。
「愛があるのでしょう」
ジェイが静かに言う。クリスが弟を見る。
「ジェイ」
「互いだけを頼りに生きると、シャーリーン様は書いておられました」
ジェイは、祠で拾った手紙を取り出す。
紙を開かない。ただ、指に挟んで見せる。
「なら、家名も金時計も駅馬車も、父上の信用も要りませんね」
「お前は分かっていない」
「分かっています」
「分かっていない! 私は長男だ。お前は次男だ。父上も一時は怒るだろうが、最後には」
「最後には?」
「私を許す」
クリスはそう言い切る。
ああ。なるほど。
この人は、まだ帰れるつもりでいる。たっぷり恋をして、少し泣かせて、皆に迷惑をかけて、それでも最後には許されるつもりでいる。
ジェイの指が、手紙の端を少し折る。
「父上からの追伸があります」
「追伸?」
「先ほど届きました」
扉の外から、フェンウィック家の使いが入ってくる。息が上がっている。だが、手には封書を持っている。
ジェイはそれを受け取る。封を見て、短くうなずく。
「確かに、父上の筆跡です」
封を切り、読み始める。
部屋の中では、薪の燃える音だけがする。読み終えたジェイは、紙を畳まない。
「兄上」
「何だ」
「父上は、あなたの長男としての権利を正式に停止すると決めました」
クリスの顔から色が引く。
「馬鹿な」
「この場で私が確認次第、仮処分ではなく正式な手続きに入るとのことです」
「父上が、私を?」
「はい」
「お前が何か吹き込んだんだろう!」
クリスが一歩踏み出す。ジェイは下がらない。
「私は事実を書きました。兄上がフェンウィック家の名で駅馬車を借りようとしたこと。父上の金時計を馬代にしたこと。エルフォード子爵夫人と出奔したこと。自分の婚約者に何も告げず逃げたこと」
「言い方があるだろう!」
「事実に、兄上の好む言い方をかぶせる必要はありません」
静かだ。でも、見事な切れ味だ。
クリスの手が宙で止まる。殴る度胸はない。それは分かる。
ジェイも分かっているのだろう。だから声を荒げない。
「署名してください」
「嫌だ」
「では、父上の使いと、こちらのエルフォード家の使いの立ち会いで、あなたが拒否したと記録します」
扉の外から、今度はグレイヴスが入ってくる。
「お嬢様」
「グレイヴス」
見慣れた顔に、少しだけ息が抜ける。だが、すぐに戻す。
「兄さんは」
「お屋敷です。ヘンリー様の側に。メアリーがついております」
「よかった」
「旦那様より、こちらを」
差し出された封書を受け取る。兄の字だ。今朝より少し整っている。
封を切る。
――アマンダ。
――家政鍵の件は聞いた。
――すべての鍵を替えさせている。
――シャーリーンの部屋から、宝石箱が一つ消えていた。
――中身は母上の小粒真珠の首飾りと、祖母のブローチ。
――それから、ヘンリーの洗礼用の銀杯がない。
――見つけたら、回収してほしい。
――お前は怒っていい。
――私も、今は怒っている。
最後の一文を、二度読む。
――私も、今は怒っている。
兄が書いた。あの兄が。
私は手紙を畳む。
「シャーリーン様」
声が低くなる。
「母の小粒真珠の首飾りと、祖母のブローチ。ヘンリーの洗礼用の銀杯。どこ?」




