表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
兄嫁が婚約者と愛の逃避行!? 赤ん坊を置いて持ち出した物、全て返して頂きます!  作者: さんけい


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
2/33

2 まず、赤ん坊を眠らせる

「お嬢様、確認いたします」


 家令のグレイヴスが、扉の前で背筋を伸ばす。


「馬を一頭。フェンウィック伯爵家へ早馬。宛先はフェンウィック伯爵閣下と、ジェイ様。内容は」

「長男クリストファー様が、エルフォード子爵夫人シャーリーンと共に出奔。エルフォード子爵家として事実確認と協力を求める。至急」

「承知いたしました」

「それからメアリーを呼んで。今夜からこの子を見てくれる人が要る。乳母は明日もう一人。夜番も一人。子供部屋の支度を整えて」

「奥様は」


 グレイヴスの口がそこで止まる。

 奥様。

 この家では、今朝までその言葉はシャーリーンを指していた。

 兄がぽつりと呟く。


「もう、そう呼ばなくていい」


 その声があまりに静かだったので、私は甥を抱く腕に少し力を入れた。

 赤ん坊は眠りかけている。こんな騒ぎの中でも、まぶたが重そうに落ちていく。まだ何も知らない。

 母親が乳母を下がらせ、自分を父の腕に残し、甘ったるい香りの手紙一枚を置いて出て行ったことなど、知るはずがない。


「グレイヴス」

「はい」

「奥様ではなく、シャーリーン様でいいわ。まだ離縁は成立していないけれど、この家の女主人として扱う必要はない」

「承知いたしました」


 グレイヴスは一度だけ頭を下げ、すぐ廊下へ出る。その足音が遠ざかる前に、別の足音がばたばたと近づいてきた。


「お嬢様!」


 侍女のルーシーだ。髪を結う途中だったのか、額に細い房が落ちている。


「ルーシー、毛布を。あと湯を少し。子供部屋へ行くわ」

「はい! あの、奥……」


 彼女もそこで詰まる。


「シャーリーン様は出て行ったわ」

「え」

「クリス様と」


 ルーシーの手から、持っていた白い布が落ちる。


「拾って。今はそれどころじゃない」

「は、はい!」


 ルーシーは慌てて布を拾う。兄が椅子から立とうとするので、私は目だけで止めた。


「兄さんは座っていて」

「だが」

「立ち上がるたびに顔色が悪くなる人が、赤ん坊を見られると思う?」


 兄は黙る。眼鏡の片側はまだずれている。

 気になる。とても気になる。

 甥を片腕で抱き直し、空いた手で兄の眼鏡をそっと外す。柔らかい布はない。

 仕方なく自分の袖口で、片方についた小さな涙の跡を拭く。

 兄のものか。赤ん坊のものか。どちらでも腹が立つ。

 眼鏡を掛け直すと、兄が小さく笑った。


「すまない」

「今は謝らないで」

「ああ」

「謝るのは、あの二人よ」


 兄の喉がわずかに動く。それでも何も言わない。

 私は甥を抱いて、書斎を出る。

 廊下には既に人が集まり始めている。料理長、下働きの少女、庭師の息子、洗濯女まで顔を出している。

 皆、何か言いたげだ。けれど誰も大きな声は出さない。

 赤ん坊が眠りかけているのを見て、自然に声を落としている。


「子供部屋へ行くわ。ルーシー、先に暖炉を見て。火が弱ければ足して」

「はい」

「料理長、兄さんに温かいものを。スープでいい。酒は駄目」

「承知しました」

「トム。馬は」

「旦那様の栗毛ならすぐ出せます」

「伯爵家への早馬に使って。もう一頭、私用に。長く走れる馬」


 庭師のトムは一瞬だけ目を大きくする。


「お嬢様が行かれるんで?」

「行くわ」

「では、灰毛のベスを。気性は荒いですが、足はあります」

「お願い」


 トムはもう走りだしていた。


 この家は大きくはない。伯爵家のような格式もない。けれど、動く時は早い。

 父母が亡くなった時、兄はまだ二十歳だった。私は八歳。

 領地の者達は、若い子爵を頼りないと思ったはずだ。実際、兄は頼りなかった。

 初めての小作人との面談で、兄は緊張しすぎて、出された茶を三杯も飲んだ。帰ってから腹を壊し、寝込んだ。

 それでも兄は逃げなかった。毎日机に向かい、毎日人の話を聞き、毎日少しずつ覚えていった。

 強い声で命じる人ではない。けれど、誰の言葉も途中で切らない人だ。だから皆、兄を見捨てなかった。

 その兄を、シャーリーンは退屈だと言った。

 本当の愛。女として生きたい。

 赤ん坊を置いていく人が、ずいぶん綺麗な言葉を選んだものだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ