1 兄さん、どうしたの!?
「兄さん、どうしたの!?」
書斎の扉を開けた瞬間、足が止まる。兄のウィリアムが、暖炉の前に立っていた。
いつもなら机に向かっている時刻だ。丸い眼鏡を鼻の上で少しずらし、領地の収穫量だの、小作人の家の屋根の修繕費だの、果樹園の人手だの、そういう数字を黙々と見ているはず。
けれど今の兄は、ただ立っているだけ。
腕には赤ん坊がいる。泣き疲れたのか、甥は兄の胸に頬を押しつけたまま、時々小さくしゃくりあげる。兄の手は、その背をゆっくり叩いている。
……ただ、叩いているだけだ。目は、テーブルの上の封筒に向いている。
「兄さん!」
もう一度呼ぶ。兄はようやくこちらを見た。
「ああ、アマンダ」
返事はある。声もいつもの兄のものだ。穏やかで、少し頼りなくて、誰かに怒鳴るところなど想像もできない声。
けれど眼鏡の片側がずれている。
兄はそういうものをすぐ直す人だ。寝不足でも、雨に濡れて帰ってきても、まず眼鏡を外し、柔らかい布で拭いて、きちんと掛け直す。
なのに今は、片側が上がったままだ。
「何があったの」
私は歩み寄る。
甥がまた、ひく、と喉を鳴らす。兄はその小さな背を叩く。手つきは慣れている。慣れてしまっている。
「シャーリーンが、出て行った」
言葉の意味が、すぐには入ってこない。
「……義姉さんが?」
「ああ」
「どこへ」
兄はそこで一度、赤ん坊の背に手を置いた。撫でたというより、そこで力が尽きたようだった。
「クリス君と」
「……誰?」
そう聞き返してから、馬鹿なことを言ったと思う。
クリス。クリストファー・フェンウィック。フェンウィック伯爵家の長男。
それから、私の婚約者。
今年の秋には、式の日取りを決めるはずだった人。
「クリスが?」
「ああ」
「義姉さんと?」
兄はうなずく。甥が、ひく、と喉を鳴らす。その音で、ようやく息を止めていたことに気づく。
兄の妻が出て行った。私の婚約者と。そんな組み合わせは、この家のどこにも置いていなかった。
茶会の席にも、晩餐の席にも、廊下ですれ違う何気ない挨拶にも。
クリスは、兄嫁のシャーリーンに丁寧だった。それは知っている。
伯爵家の長男として、子爵家の女主人に礼を尽くしているのだと思っていた。
シャーリーンも、クリスによく微笑んでいた。それも、妹の婚約者に感じよくしているだけだと思っていた。
……違ったのか?
そこまで考えたところで、テーブルの上の封筒が目に入る。封はもう開いている。
中身は一枚だけらしい。上等な便箋だ。シャーリーンが好んで使っていた、香りの強い紙。
甘ったるい花の匂いが、書斎に残っている。
「読んでもいい?」
「……読まない方がいい」
「なら読むわ」
兄は止めない。
便箋を取る。文字は美しい。だが内容はひどい。
――私は、本当の愛を見つけました。
――この家での暮らしは、私にはあまりにも静かすぎました。
――ウィリアム様には感謝しております。
――けれど私は、女として生きたいのです。
――クリス様もまた、同じ気持ちでいてくださいます。
――どうか探さないでください。
最後の一文で、指に力が入る。
――探さないでください。
馬鹿なことを言う。ここはエルフォード子爵家だ。
丘と果樹園と麦畑を抱えた、穏やかで、豊かな土地。春には花が咲き、夏には麦が波を打ち、秋には林檎と梨の籠が市場へ向かう。
派手な舞踏会も、夜通しの賭け事も、王都の噂話もない。けれど父母が亡くなったあと、兄が一人で守ってきた家だ。
兄は、まだ子供だった私を学校へやった。家庭教師をつけた。
領地のことも、家政のことも、帳面の読み方も、客への返礼も、ひとつずつ教えてくれた。
『お前が望むなら、どこへ嫁いでも困らないようにしよう』
そう言われるたびに、私は兄の机に勝手に椅子を寄せて、書類を覗き込んだ。
『嫁ぐのは嫁ぐとして、兄さんの役に立たないまま出ていくのは嫌』
兄は困ったように笑った。それでも次の日から、領地の収支の見方を教えてくれた。
その兄が。妻に逃げられている。
よりによって、妹の婚約者と。
便箋をテーブルに戻す。
「兄さん」
「ああ」
「座って」
「いや、私は」
「座って」
今度は少し強く言う。兄ようやく椅子に腰を下ろす。
甥が小さく身じろぎしたので、私は兄の腕からそっと受け取った。
「ミルクは?」
「さっき少し飲ませた」
「乳母は?」
「今日は下がらせていた。シャーリーンが、自分で見ると言っていたから」
便箋を見下ろす。そういうことか。
出て行く前に、乳母を下がらせた。兄が一人で赤ん坊を抱えるようにした。
その上で、この手紙を読ませた。
なるほど。
ずいぶんと、きれいな字を書く人だった。そして、ずいぶんと汚いやり方をする人だった。
「兄さん、今すぐメアリーを呼ぶわ。あの人なら今夜からでも来てくれる。乳母は明日、もう一人探す。夜番も要る。赤ちゃんの世話を兄さん一人でやったら倒れる」
「アマンダ」
「それから伯爵家へ使いを出す」
兄の手が止まる。
「クリス君の家へ?」
「ええ。長男が、婚約者の兄嫁を連れて駆け落ちしたのよ。知らせない理由がないわ」
「だが、まずは穏便に」
「穏便にしたいなら、最初から人の妻が人の婚約者を連れて逃げなければよかったの」
兄は黙って甥を抱き直す。小さな手が、襟元を掴む。その弱さに、奥歯が勝手に噛み合う。
「兄さんはこの子を見ていて」
「お前は?」
「追うわ」
「アマンダ」
「逃がさない」
兄が何か言おうとする。けれどその前に、廊下の向こうから足音が近づいてくる。
「お嬢様、どうなさいましたか」
年配の家令が扉の前に立っている。私は振り向く。
「馬を用意して。それから、伯爵家へ早馬。宛先はクリス様のお父上と、ジェイ様」
「ジェイ様にも?」
「ええ」
テーブルの上の手紙を見る。
「お兄様が倒れる前に、向こうの家にも働いてもらうわ」




