18 開かれた扉
「アマンダよ」
中で、何かが落ちる音がする。椅子か。燭台か。
それとも、今さら慌てた誰かの手から、荷物でも落ちたのか。
「ア、アマンダ?」
クリスの声だ。間抜けなくらい、知っている声だった。
婚約してから何度も聞いた。
茶会で。庭で。兄の書斎の前で。私に向かって、君はしっかりしているね、と笑った声。
その同じ声が、今、古い離れ宿の中で裏返っている。
「開けて」
「待って、今は」
「開けて」
扉の向こうで、ばたばたと足音が動く。逃げる気だ。
そう思った瞬間、裏手から低い声がした。
「こちらは塞いでいます、兄上」
ジェイだ。中の足音が止まる。私は扉をもう一度叩く。
「開けなさい!」
少しして、閂が動く音がした。扉が細く開く。
隙間から、クリスがこちらを見る。髪は乱れている。上着は良いものだが、袖口に泥がついている。
首元には、私が贈ったクラヴァットピンはない。当たり前だ。さっき回収した。
「アマンダ、君がどうして」
「追ってきたからよ」
「いや、でも、君は」
「強いから?」
クリスの口が止まる。私は扉を押す。一歩下がったので、そのまま中へ入る。
部屋は狭い。古い暖炉に火が入っている。
椅子が二脚。小さな寝台。テーブルの上には、パンと干し肉、果物、そして開けかけの葡萄酒。逃げている最中に、ずいぶんと整った食卓だ。
奥に、シャーリーンがいる。濃い青の外套を羽織っている。
髪は少し乱れているが、それでもピンで留め直そうとした跡がある。頬には白粉。唇には色。
赤ん坊を置いてきた人は、逃げながらでも唇の色は忘れないらしい。
「アマンダ様」
シャーリーンは胸の前で手を組む。
「どうか、聞いてください」
「聞くわ」
私は答える。
「ただし、先に荷物を出して」
「荷物?」
「持ち出したものよ」
シャーリーンの目が、ほんの少し横へ動く。寝台の下だ。分かりやすい。
私は寝台の方へ歩く。
「待って」
クリスが手を伸ばす。その手首を、裏口から入ってきたジェイがつかんだ。
「兄上」
「ジェイ!」
「触らないでください」
声は荒くない。けれど、クリスの手はそこで止まる。
私は寝台の下から鞄を引き出す。小さな旅行鞄。鍵はかかっていない。開ける。
中には、シャーリーンの手袋、櫛、香水、下着、薄いショール。それから小さな革袋。
革袋を開ける。硬貨が入っている。宝石も少し。その中に、兄の予備眼鏡があった。
丸い銀縁。片方の蔓に、小さな傷がある。父が使っていたものを、兄が直して使っていた眼鏡だ。
「これ」
私は眼鏡を取り出す。
「どうして持っているの」
シャーリーンは唇を噛む。
「それは、あの」
「どうして持っているの」
「売るつもりはありませんでした。ただ、困った時に」
「困った時に、兄さんの父親の形見を使うつもりだったの」
「だって!」
シャーリーンの声が跳ねる。
「私は何も持たずに出るしかなかったのです! あの家では、何もかもウィリアム様のものだったわ。私のものなんて、少ししか」
「真珠の耳飾り」
私は外套の内側から包みを出す。
「白鹿亭で回収したわ。兄さんが結婚一周年に贈ったものよ」
次に、銀のがらがらを出す。
「ヘンリーのもの。ロムジーの青麦亭で回収した」
刺繍のハンカチ。
「兄さんのもの。私が子供の頃に刺した」
小さな額。
「兄さんとヘンリーの肖像画。ハドリーで見つけた」
鍵束。
「エルフォード家の家政鍵。湯治場の宿で預けていた」
クラヴァットピンの箱。
「これはクリス、あなたに贈ったものね。馬代になっていたわ」
クリスが目を逸らす。
私は最後に、兄の眼鏡箱を出す。空の箱。そして今、手にある予備眼鏡。
「これで、ようやく揃ったわね」
テーブルの上に並べる。
真珠。銀のがらがら。ハンカチ。肖像画。
家政鍵。
クラヴァットピン。眼鏡箱と眼鏡。
逃げ道に落ちていたもの。使われたもの。預けられていたもの。売られかけたもの。
部屋の中で、火がぱち、と鳴る。
シャーリーンは泣きそうに唇を震わせる。けれど涙はまだ出ない。




