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兄嫁が婚約者と愛の逃避行!? 赤ん坊を置いて持ち出した物、全て返して頂きます!  作者: さんけい


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16/33

16 「かわいそうに」

 南の旧街道は、古い。石畳がところどころ残っている。

 けれど馬車の通りが少なくなって久しいのか、隙間から草が伸びている。

 左右には低い森。陽が傾くにつれて、木の影が道に落ちる。

 霧が出る、とジェイは言った。その言葉通り、足元から薄い白がにじみ始めている。


「この道を馬車で?」

「走れます。ただ、慣れていない御者には嫌な道です」

「ではシャーリーン様は、慣れた御者を使っている」

「その可能性が高いです」

「クリスは?」

「乗っているだけでしょう」

「腹が立つわね」

「はい」


 返事が早い。以前なら、ジェイはそこで兄をかばう言い方をしたかもしれない。

 今はしない。事実を事実として置いてくる。それがいい。

 旧街道をしばらく進むと、小さな石の標が見えた。文字は削れているが、かろうじて読める。


――ハロウズ湯治場。


「ここね」

「はい」


 道はそこから二手に分かれている。

 右は、馬車が通った跡がある。左は、落ち葉が厚い。普通なら右だ。

 だから、すぐには進まない。


「ジェイ様」

「はい」

「右に()()()()のよね」

「同感です」


 ジェイは馬を下りる。道の土を見て、石畳の端にしゃがむ。


「右は馬車の跡があります。ただ、車輪が浅い」

「空?」

「はい。荷が軽い。人も少ない」

「では囮」

「左を見ます」


 左の道は落ち葉で覆われている。けれど彼は、葉の端が少しだけ裏返っている場所を指した。


「人が通っています」

「馬車は無理そうだけど」

「小型の二輪車なら」

「湯治場にそんなものがあるの?」

「あります。昔の湯治客用に、坂道用の軽い車を置いている宿があります」


 まただ。あの人は、よく知っている。道も、古い宿も、使えるものも。

 そしてクリスは、たぶん知らない。知らないまま、恋の逃避行の顔で乗っている。


「左ね」

「はい。ただ」

「ただ?」

「先に右を押さえます」


 私は彼を見る。


「囮なのに?」

「囮なら、何か置いているはずです」


 手綱を握る指に力が入った。

 何か。また、何か。


「……行きましょう」


 右の道へ進む。

 少し行くと、古い湯治宿が見えた。白い壁はくすみ、看板の字も剥げている。

 それでも玄関の前には、確かに馬車が一台停まっていた。

 空の馬車だ。御者台にも誰もいない。

 宿の扉を開けると、薬草の匂いと、湿った木の匂いが混じっていた。

 帳場には年配の女がいる。こちらを見て、すぐに目を伏せた。いたのだ。


「金髪の女性が来たはずよ」

「……さあ」

「このやり取り、もう飽きているの」


 声が低く出る。女は唇を引き結ぶ。

 ジェイは静かに前へ出た。


「フェンウィック伯爵家のジェイです。こちらはエルフォード子爵令嬢アマンダ嬢。虚偽を述べるなら、後ほど正式に問います」


 女はさらに小さくなる。


「……いらっしゃいました」

「誰と」

「若い紳士と」

「今は?」

「お発ちに」

「どちらへ」

「北の丘を越えて」

「馬車はここにあるわ」

「替えられました」


 やはり。


「何を置いていったの」


 すぐ聞く。女の肩が跳ねる。


「何も」

「嘘」

「いえ」

「あなた、最初から私たちを見なかった。帳場の下を気にしている。何か預かっているでしょう」


 女は黙る。


「出して」


 しばらくして、女は帳場の下から布包みを出した。

 今度は何だ。

 そう思いながらも、指は動く。

 布を開く。中にあったのは、小さな鍵束だった。

 真鍮の鍵が五本。銀の小さな札。

 札には、細い字で刻まれている。

 E.

 エルフォード家の家政鍵だ。

 食品庫。客用食器棚。リネン室。薬棚。それから、女主人の小机。

 シャーリーンが、嫁いだ時に兄から渡されたもの。この家の女主人として、兄が渡したもの。

 それを、宿代にした。


「……これは」


 指が震えそうになる。

 それでも握る。


「これは、売るものでも、預けるものでもないわ!」


 女は慌てる。


「奥様が、古いものだから価値はないと。ただ、目印に預かってほしいと」

「目印?」

「あとで、別の方が取りに来ると」


 ジェイはすぐに聞く。


「誰が」

「分かりません。茶色い封筒を持った方に渡してほしいと」


 罠か。受け渡しか。

 どちらでも腹が立つ。


「鍵は回収します」


 私は布ごと鍵束を取る。


「この宿の代金はいくら」

「い、いりません」

「いくら」


 女は小さな声で金額を言う。私が払おうとすると、ジェイに止められる。

 だがそこは食い下がる。


「これはエルフォード家の家政鍵です。代金はエルフォード家で」

「……そうですね」


 硬貨を置く。女は震える手で受け取る。


「この鍵を預かったことを、誰かに言った?」

「いいえ」

「なら、誰かが来たらこう言って。予定通り預かっている、と」


 女が目を上げる。


「ですが」

「こちらから人を置くわ」


 ジェイが付け足す。


「フェンウィック家の使いを一人残します。茶色い封筒を持った者が来たら、その場で押さえます」

「フェンウィック家の使い?」


 少し驚く。


「追ってきた使いが近くにいます。父からの二番手です」

「そんなところまで手を回していたの」

「父が」

「なるほど」


 フェンウィック伯爵は、家名を使われるのが嫌い。その結果、こちらの網が増えている。

 ありがたい。とてもありがたい。

 帳場を出る前に、もう一度女を見る。


「シャーリーン様は、何と言って出たの」


 女は迷う。けれど、もう隠しても無駄だと思ったらしい。


「……()()()()()()、と」

「誰が」

「ご自分が」


 喉の奥で、何かが詰まる。


「それから?」

「愛し合う者は、いつも世間に責められるのだと」


 ジェイはほんの少し顔を横に向けた。

 笑ったのではない。呆れたのだ。

 私も同じだ。


「ヘンリーという名は出た?」

「いいえ」

「ウィリアムの名は?」

「……退屈な方だと」


 よろしい。よく分かった。

 ここまで来ても、あの人の中に赤ん坊はいない。兄もいない。あるのは、自分がかわいそうだという話だけだ。


「行きましょう」


 私は鍵束を外套の内側に入れる。

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