16 「かわいそうに」
南の旧街道は、古い。石畳がところどころ残っている。
けれど馬車の通りが少なくなって久しいのか、隙間から草が伸びている。
左右には低い森。陽が傾くにつれて、木の影が道に落ちる。
霧が出る、とジェイは言った。その言葉通り、足元から薄い白がにじみ始めている。
「この道を馬車で?」
「走れます。ただ、慣れていない御者には嫌な道です」
「ではシャーリーン様は、慣れた御者を使っている」
「その可能性が高いです」
「クリスは?」
「乗っているだけでしょう」
「腹が立つわね」
「はい」
返事が早い。以前なら、ジェイはそこで兄をかばう言い方をしたかもしれない。
今はしない。事実を事実として置いてくる。それがいい。
旧街道をしばらく進むと、小さな石の標が見えた。文字は削れているが、かろうじて読める。
――ハロウズ湯治場。
「ここね」
「はい」
道はそこから二手に分かれている。
右は、馬車が通った跡がある。左は、落ち葉が厚い。普通なら右だ。
だから、すぐには進まない。
「ジェイ様」
「はい」
「右に見せたいのよね」
「同感です」
ジェイは馬を下りる。道の土を見て、石畳の端にしゃがむ。
「右は馬車の跡があります。ただ、車輪が浅い」
「空?」
「はい。荷が軽い。人も少ない」
「では囮」
「左を見ます」
左の道は落ち葉で覆われている。けれど彼は、葉の端が少しだけ裏返っている場所を指した。
「人が通っています」
「馬車は無理そうだけど」
「小型の二輪車なら」
「湯治場にそんなものがあるの?」
「あります。昔の湯治客用に、坂道用の軽い車を置いている宿があります」
まただ。あの人は、よく知っている。道も、古い宿も、使えるものも。
そしてクリスは、たぶん知らない。知らないまま、恋の逃避行の顔で乗っている。
「左ね」
「はい。ただ」
「ただ?」
「先に右を押さえます」
私は彼を見る。
「囮なのに?」
「囮なら、何か置いているはずです」
手綱を握る指に力が入った。
何か。また、何か。
「……行きましょう」
右の道へ進む。
少し行くと、古い湯治宿が見えた。白い壁はくすみ、看板の字も剥げている。
それでも玄関の前には、確かに馬車が一台停まっていた。
空の馬車だ。御者台にも誰もいない。
宿の扉を開けると、薬草の匂いと、湿った木の匂いが混じっていた。
帳場には年配の女がいる。こちらを見て、すぐに目を伏せた。いたのだ。
「金髪の女性が来たはずよ」
「……さあ」
「このやり取り、もう飽きているの」
声が低く出る。女は唇を引き結ぶ。
ジェイは静かに前へ出た。
「フェンウィック伯爵家のジェイです。こちらはエルフォード子爵令嬢アマンダ嬢。虚偽を述べるなら、後ほど正式に問います」
女はさらに小さくなる。
「……いらっしゃいました」
「誰と」
「若い紳士と」
「今は?」
「お発ちに」
「どちらへ」
「北の丘を越えて」
「馬車はここにあるわ」
「替えられました」
やはり。
「何を置いていったの」
すぐ聞く。女の肩が跳ねる。
「何も」
「嘘」
「いえ」
「あなた、最初から私たちを見なかった。帳場の下を気にしている。何か預かっているでしょう」
女は黙る。
「出して」
しばらくして、女は帳場の下から布包みを出した。
今度は何だ。
そう思いながらも、指は動く。
布を開く。中にあったのは、小さな鍵束だった。
真鍮の鍵が五本。銀の小さな札。
札には、細い字で刻まれている。
E.
エルフォード家の家政鍵だ。
食品庫。客用食器棚。リネン室。薬棚。それから、女主人の小机。
シャーリーンが、嫁いだ時に兄から渡されたもの。この家の女主人として、兄が渡したもの。
それを、宿代にした。
「……これは」
指が震えそうになる。
それでも握る。
「これは、売るものでも、預けるものでもないわ!」
女は慌てる。
「奥様が、古いものだから価値はないと。ただ、目印に預かってほしいと」
「目印?」
「あとで、別の方が取りに来ると」
ジェイはすぐに聞く。
「誰が」
「分かりません。茶色い封筒を持った方に渡してほしいと」
罠か。受け渡しか。
どちらでも腹が立つ。
「鍵は回収します」
私は布ごと鍵束を取る。
「この宿の代金はいくら」
「い、いりません」
「いくら」
女は小さな声で金額を言う。私が払おうとすると、ジェイに止められる。
だがそこは食い下がる。
「これはエルフォード家の家政鍵です。代金はエルフォード家で」
「……そうですね」
硬貨を置く。女は震える手で受け取る。
「この鍵を預かったことを、誰かに言った?」
「いいえ」
「なら、誰かが来たらこう言って。予定通り預かっている、と」
女が目を上げる。
「ですが」
「こちらから人を置くわ」
ジェイが付け足す。
「フェンウィック家の使いを一人残します。茶色い封筒を持った者が来たら、その場で押さえます」
「フェンウィック家の使い?」
少し驚く。
「追ってきた使いが近くにいます。父からの二番手です」
「そんなところまで手を回していたの」
「父が」
「なるほど」
フェンウィック伯爵は、家名を使われるのが嫌い。その結果、こちらの網が増えている。
ありがたい。とてもありがたい。
帳場を出る前に、もう一度女を見る。
「シャーリーン様は、何と言って出たの」
女は迷う。けれど、もう隠しても無駄だと思ったらしい。
「……かわいそうに、と」
「誰が」
「ご自分が」
喉の奥で、何かが詰まる。
「それから?」
「愛し合う者は、いつも世間に責められるのだと」
ジェイはほんの少し顔を横に向けた。
笑ったのではない。呆れたのだ。
私も同じだ。
「ヘンリーという名は出た?」
「いいえ」
「ウィリアムの名は?」
「……退屈な方だと」
よろしい。よく分かった。
ここまで来ても、あの人の中に赤ん坊はいない。兄もいない。あるのは、自分がかわいそうだという話だけだ。
「行きましょう」
私は鍵束を外套の内側に入れる。




