14 まず厩、次に荷置き場
ハドリー宿に着く頃には、昼の光が少し白くなっていた。
街道沿いの宿場だ。大きな宿が二つ、駅馬車場が一つ、鍛冶屋、馬具屋、荷を預かる倉庫。道端には馬の匂いと、焼いた玉葱の匂いが混じっている。
普段なら、少し腹が鳴るところだ。今は鳴らない。
「まず厩ね」
「はい」
ジェイはすぐ馬を駅馬車場の脇へ寄せる。
帳場ではなく、厩。部屋より足。逃げる人間は、眠る場所より先に、次に動く手段を押さえる。
厩の中では、若い馬丁が干し草を運んでいた。私たちを見るなり手を止める。
「フェンウィック家のクリストファー様が来たはずよ」
馬丁はぎくりとする。いた。
「答えて」
「あ、あの、来ました」
「一人?」
「最初はお一人で。あとから女の方が」
「金髪?」
「外套の頭巾をかぶってましたけど、少し見えました。金髪でした」
シャーリーンだ。ようやく二人が同じ場所まで来ている。
「どこへ行ったの」
「東門の方へ」
「東?」
ジェイが短く言う。
「西へ逃げていたのに、東へ戻る?」
「はい。でも、馬車は東門へ」
馬丁は壁に掛けてある札をちらりと見る。
「あの、旦那様が、伯爵家の名で駅馬車を一台借りようとなさいまして」
「断られた?」
ジェイが言う。
「はい。先に伯爵家から知らせが来ていたので、確認が取れないと出せないと」
「兄は怒りましたか」
「ええ、それはもう」
馬丁が少し肩をすくめる。
「かなり」
「そのあと何で払ったの」
馬丁はさらに肩を小さくする。
「それは帳場の方で」
「案内して」
帳場へ行くと、駅馬車場の主人がもう待っていた。こちらが何者か分かっているらしい。
顔に、面倒ごとに巻き込まれたくない、と書いてある。
「クリストファー様が置いていったものを出して」
主人は諦めたように、引き出しから小さな箱を出した。
中には、金のクラヴァットピン。見覚えがある。
見覚えどころではない。婚約が決まった時、私がクリスへ贈ったものだ。
フェンウィック家の紋ではなく、彼の好みに合わせて小さな青い石を選んだ。派手すぎず、地味すぎず。兄と相談して、王都の職人に頼んだ。
あの時、クリスは笑っていた。
「君は本当に気が利くね、アマンダ」
その指が、今は別の女の手を取って逃げている。
「……これは私のものでもあるわね」
声が勝手に低くなる。
「代金は払います。これは返してもらう」
駅馬車場の主人は、すぐ金額を言った。ジェイが払う前に、手を出す。
「これは私が払うのよ」
「アマンダ嬢」
「これは、私が贈ったものだから」
ジェイは一拍置いて、手を引いた。
「分かりました」
硬貨を置く。箱を受け取る。蓋を閉める。
もう、クリス様、ではない。少なくとも私の中では。
ただ、口に出す時はまだ呼ぶ。手続きが済むまでは、名前にも役割がある。
「東門へ向かった馬車は?」
ジェイが主人に尋ねる。
「乗合ではありません。貸馬車です。御者つきで、東門を出ました」
「行き先は」
「ローズブリッジ方面と」
「東にある橋ね」
「はい」
「そこから王都街道へ戻れる?」
「戻れます」
ジェイが地図を開く。私は箱を外套の内側へしまいながら、それを見る。
東へ行けば、確かに王都街道へ戻れる。けれど遠回りだ。わざわざこちらへ戻る意味は薄い。
「誘っているわね」
「はい」
ジェイも同じことを考えている。
「分かりやすい道を選んで、追わせたい」
「では本命は別」
「たぶん」
私は駅馬車場の主人を見る。
「その二人、荷物は?」
「小さな鞄が二つ。それと、奥様の方が大きめの衣装箱をひとつ」
「衣装箱?」
ここで初めて、首の後ろが嫌な感じになる。小さな鞄だけではなかった。
「どこから出したの」
「うちの荷置き場です。数日前から預かっておりました」
「数日前?」
ジェイの声が、先ほどより少し冷える。
「誰の名で」
主人は帳簿を開く。
「……ヴェイル夫人」
「偽名ね」
「だと思います」
「届いたのはいつ」
「三日前です」
三日前。
赤ん坊を置いていった朝、思いつきで逃げたのではない。シャーリーンは準備していた。
衣装箱を先に送っていた。乳母を下がらせることも、兄を一人にすることも、その中に入っていたのかもしれない。
指先が冷える、ではない。熱くなる。
「その衣装箱は」
「奥様が持っていかれました」
「どの馬車で?」
「東門へ向かった貸馬車です」
ジェイは地図から目を上げる。
「見せるための荷物かもしれません」
「ええ」
衣装箱を積んで東へ。追手はそちらを見る。けれど本人たちは?
「他に荷は?」
私は聞く。
「奥の荷置き場を見せて」
「ですが」
「見せて」
主人は逆らわない。
荷置き場は駅馬車場の裏にあった。木箱、布袋、樽、旅人の荷物が札をつけて並んでいる。
その奥に、まだひとつ、見慣れない箱があった。薄緑の革を貼った小ぶりの箱。シャーリーンのものだ。
「これは?」
主人の顔が強張る。
「それは、別の方の」
「誰の名で」
「……ミセス・ハート」
また偽名。
「開けて」
「勝手には」
ジェイが一歩前に出る。
「その箱の預け主は、エルフォード子爵夫人シャーリーン様である疑いがあります。今、同家の令嬢が確認します。フェンウィック伯爵家も立ち会います」
主人は鍵束を出す。鍵が回る音がする。蓋が開く。
中には、女物の靴が二足。香水瓶が三本。薄いショール。それから、布に包まれた小さな額。
私はそれを取り、布を外す。兄とヘンリーの小さな肖像画だった。ヘンリーが生まれてすぐ、兄が画家に描かせたものだ。シャーリーンも一緒に描かれるはずだった。
けれど、産後で顔色が悪いから嫌だと言って、兄と子だけの絵になった。
なぜ、これを持ち出す? いや、理由は分かる。売るためではない。使うためでもない。
《《兄の部屋から消していくため》》だ。
残された兄が、子供を抱いて、妻のいない部屋を見る。そこに自分と子の絵すらない。そういう状態を作るため。
「……最低」
口から出た。
ジェイは何も言わない。ただ、箱の中を確認している。
「宝石はありません。現金もなし。身の回りのものだけです」
「これは回収する」
肖像画を布で包む。
「箱は?」
「置いていきましょう」
「なぜ」
「戻ってくるかもしれません」
彼は低く言う。
「あるいは、使いを寄越すかもしれない。こちらが箱を見つけたことは伏せた方がいい」
「では肖像画だけ」
「はい。箱の中身の位置は覚えました。戻しておきます」
彼は丁寧に布を戻し、箱を閉める。この人は、怒りながらでも手順を飛ばさない。
それがありがたい。
私一人なら、箱ごと馬車に積ませていたかもしれない。




