06 世界のかたち
そして三回目の夕暮れがくる。
もう少し。もう少しだけ、足元が見えなくなるまでは歩こう。
そろそろエネルギー切れでふらふらだけど。脱水とかもおこしてるかもだけど。
ここで立ち止まったら明日また歩き出せるかどうかわからない。
まあ、どっちでも大差ないのかもしれないが。
その時、気づいた。
音―――
何かの音だ。
ずっと、梢を渡る風の音以外を耳にしていなかった。鳥の声も虫の音も聞こえない世界だったのだ。
断続的に聞こえる、今までになかった音。
耳を澄ます。
水音?
川だろうか。
川なら、水が飲める。
そう思ったら、我慢できないほど喉が渇いていることに気づいてしまう。反射的に水音のする方へ駆けだしていた。
小さな流れだ。
幅30センチほどもない。深さはせいぜい10センチだろう。それでも澄んだ水がかなりの勢いで流れている。
流れの傍らに膝を付いて、手を浸した。
冷たい。
飲用に適した水かどうかなんて、今はもうどうでも良かった。飲まなくてもどうせ明日生きていられるかわからない。
すくった水を口に運び、心ゆくまで飲む。
一つの欲望を満たすだけでも人間は幸せになれるものなのだと、しみじみ思う。
水でお腹がふくれて、空腹感も薄らいだ。
今夜はここで寝ることに決め、適当に草を踏み固めた上で横になる。寒さがそれ程でもなくなったし、獣に襲われる心配も無さそうなので、少しでもゆっくり身体を休めようと思う。
飢餓で倒れるまでにはまだもう少し間がありそうだ。川に沿って行けば、人里に出られる可能性は幾分か高いだろう。わずかでも希望が見えたら、先に進むことを最優先にしたかった。
目を閉じたら墜落するように眠っていた。
夢のない眠りの時間は一瞬で過ぎ、目を開けると辺りはぼんやりと明るくなっていた。夜明けが近いのだろう。一番気温が下がる時刻だ。
さすがに寒い。露が降りて服も髪もしっとり濡れそぼっている。
ここで私は、目覚めを誘ったのが寒さと明るさだけではないことに気づいた。
匂いだ。
歩き出してからこっち、ずっと草と木の香りしかしなかった。
でも今は明らかに異質な匂いがしている。
それは、煙の匂いだった。
どこかに火がある。
いや、火を焚いている人がいる。
山火事という可能性は考慮しない。今は自分に都合の良い解釈しか採用しない。
犬のようにクンクンと空気の匂いを嗅ぎ、私はその元があるだろうと思われる方向に走り出した。
しばらく走り回って、ようやくその焚き火を見つけた。
石を積んで焚かれている小さな火。間違いなく人の手によるものだ。
「誰か、誰かいますかー!?」
その人間が友好的であるかどうかなんて、考えるゆとりがなかった。そのまま焚き火に走り寄り、辺りを見回した。
「びっくりしたー 峨山の麓に人がいるなんてー」
そう言いながら木の陰から姿を現した人は、私の顔を見て眼を丸くした。
第一村人発見! と某番組的なナレーションが頭をよぎる。
美形剣士と二人組+1は全然村人っぽくもなかったし、意味分からなかったので除外だ。
「ええ? ……仙女……えーと、さま……?」
『えーと』っていう間のことは置いといて、『仙女』というのは美形剣士も二人組も私に向かって言ってたことだ。たぶん『仙女』で文字はあってる。
それにしても、なんでみんな私の顔を見てそう言うのか。もしかして額に『仙』とか書いてあったりするんだろうか。
思わず額をごしごし擦ってしまった。
「あのうー」ちょっと首をかしげて、目の前の人は言った。「なにか御用でしょうか、仙女さま」
第一村人は、とても友好的だった!
「なにか、食べるものを分けてもらえませんかっっ」
食いつくように言ってしまってから、ちょっと恥ずかしかったかなと思ったけど、相手は気にしてないみたいだった。
「あ、はいー、お供物ですか?」
お供物って……私は仏壇か。なにも特別なものである必要は無い。
「食べられるものならなんでもいいですっ できれば今すぐお願いします!」
私の剣幕にやや退きながらも、第一村人は焚き火の傍らにあった荷物から布に包まれたものを出して渡してくれた。
布の中にあったのは、たぶんパンのようなものだった。
「ありがとうございますっ」
お礼を言うのもそこそこに私はそのパンにかぶりついた。たとえ毒が入ってたってかまわない。砂でできてたら泣くけど。
パンらしきものは、まぎれもなくパンだった。
硬くてもそもそしていたけど、塩気が効いていて悪くない。口いっぱいに頬張って食べる幸せに、涙が出そうだった。
三日も絶食した後でいきなり食べたらダメかなと思ったのは、そのパンを半分ほども囓ってしまった後だった。
我に返って顔上げると、第一村人は呆気にとられたように、片手にナイフ、片手に何かの瓶を持ったまま私を見つめていた。
まずい。
たぶんこのパンは切って食べるもので、なんなら焚き火で炙ってあの瓶の中身を塗ったりするのじゃないだろうか。しかも彼女の食事であったことは間違いない。
「ご、ごめんなさい、慌てて食べちゃって……」
囓りかけのパンをそっと差しだす。
「いいですよー まだ食べるなら用意しますねー」
そう言って彼女はにこりと笑った。
地獄で仏とはまさにこのこと。袖擦り合うも他生の縁、ありがたやありがたや。貴女の方こそ女神様ですよ、と私は心の中で崇め奉る。
手際よく食事の用意をする第一村人を、ぼんやりと見守る。
こんな山の中を一人で旅している―――おそらくそうだと思う―――にしては、あまり似つかわしくない人物だった。
女性。背格好は今現在の私とあまり変わらないだろう。小柄でほっそりしている。年の頃は十代にも見えるがよく分からない。ショートカットの髪は黒。ぱっちりした目も黒だ。
山歩きには不釣り合いな膝上丈の襞の大きいプリーツスカートに、フレンチスリーブの上衣。首元にリボンのような布が結ばれている。脚のニーハイっぽい何かとゴツめのブーツは旅人感があるかもしれない。あと手首の上まである黒い指無し手袋。
名前はアモだと言う。
私の方は本名を名のるのはためらわれて、サヤと名乗った。
ネット上で使っていたハンドルネームだ。この世界観にはその方がしっくりくる気がしたからだ。
仙女さまと言われてるのに鈴木貞子はない―――よね、と勝手に決めた。はっきり言って自分の名前が嫌いだったし。改名を届け出たら許可されそうなレベルの酷さだ。




