04 怒濤の展開はまだまだ続く
表層雪崩れそのもののように泥水が斜面を流れ下る。
ウォータースライダー並みの速度で滑り落ちていく先は、激しい雨でなにも見えない。
木や岩にぶつかったら到底無事ではいられないだろう。そう思っても、止まることができない。
幸いにして泥流は土石流という規模ではないようで、深さもおそらく15センチほど。人は数センチの水でも溺れることができるらしいけど、がんばって身体を起こしていれば水を飲むことはない。
小石や木の枝が当たっては来たけれど、大岩に押しつぶされることもなかった。
なかったのだが、流され続けていた身体は突然ふわりと浮くと、それまでとは比べものにならない大量の水の中に投げ出されていた。
池、か川か湖だ。
必死でもがいて水面に顔を出す。
雨は幾分小止みになったのか、なんとか息ができた。見回すと、岸辺がそう遠くないことも見てとれた。
川じゃなくて助かった。これ以上流されたらどうなったかは考えたくない。
力の限りがんばって泳いで岸にたどり着き、水際に生い茂った草に捕まって、喘ぎながら身体を引き上げた。
学年全員2キロの遠泳が課題だった中学校の夏合宿に感謝だ。ビバ学校教育。
なんとか陸に上がって息をついていると、雨が上がって陽が射してきた。
異世界にもゲリラ豪雨ってあるんだなあ―――どうでもいい感想が心をよぎる。
池の周りは小さな草原で、淡い緑の葉に付いた水滴がキラキラして眩しい。さっきまでの騒乱が嘘のように平和な風景だった。
仰ぎ見れば、斜面の向こうに聳え立つ岩山がある。
明るい陽に照らされた岩肌は白く荘厳だった。頂上は雲に隠れ、まわりに色鮮やかな二重の虹が架かっていた。
しばしぼうっと見とれるほど美しい光景だった。
たった一人で、知らない場所で、びしょ濡れだったけれど、この世界で目覚めて初めて、私は少しだけ安心した。
安心できる要素など、微塵も無かった。
我に返ると問題だらけだった。
まず寒い。
水辺を離れて着ている服を可能な限り絞った。薄くてひらひらした布地一枚なので、乾くのにそれ程時間はかからないかもしれない。
とはいえ、日の傾き具合からして日没はそう遠くなさそうだ。虹が綺麗な弧を描いて架かるのは夕方と決まっている。
はたして夜までにこれが乾くだろうか。
髪もたっぷり水気を含んで重い。ラプンツェルかというほどの毛量なのだ。
その髪も含めて自分の容姿が気になったので水面に映してみようと思ったが、アシだかヨシだかそんな草が水際にはびっしり生えていて、顔が映るような水面は岸から遠かった。
寒い。
ドライヤーとか乾燥機とか、無い物ねだりが頭を駆け巡るが、はっきり言ってこの状況は遭難で、求められるのはサバイバル能力だろう。
唯一の救いは池の水がかなり綺麗だったので、泥流に流されてきたわりにはもうほとんど汚れが付いていなかったことだ。
それにしてもよく考えればあれだけの泥流がどこに消えたのか、謎だらけではある。けれどとりあえずその辺は気にしないことにした。
この澄んだ水は池でなくて泉なのだろうか。高山の麓だから、湧水があるのは不自然ではない。
飲み水にもなるかもしれないが、今必要なのは水より熱源だ。
太陽があてにならなければ火を焚くしかない。
しかし残念すぎることに、今の私にはここで薪を集めるすべも火を点けるすべも何一つ無いのだった。
実際のとこ、謎の美形剣士か怪しい二人組か、どちらでもいいから一緒に居た方が良かった気がする。
一人でこんな大自然の中に放り出されて生きていけるほど私のサバイバル能力は高くない。
周囲は大自然すぎて、人の気配などどこにもない。
セオリーどおり下方へ向かって行けば人里に辿り着いたりするのだろうか。
山で遭難した時は、本当は下手に下へ降りていってはいけないらしい。
谷底に入り込んで抜け出せなくなるからだ。
でも、なんとなくここではそれは無さそうな気がした。
尾根があるような山岳地帯ではなく、だらだら続く山裾に近い地形のように思える。
富士山で言うなら、河口湖辺りか。
この世界に人がいることだけは確かだったが、危険な動物がいる可能性もある。
ここが異世界だとして、小学生の頃憧れた箪笥の向こう側の世界でもなく、チート能力で無双できるわけでもなく、こんな山の中でびしょ濡れで一人きり―――
泣きたいほど心細くなってきた。
怒濤の展開についていけなくて麻痺っていた感情が、やっと戻って来たのかもしれない。
これが夢なんかじゃないことが、自分が自力でなんとかするしかないってことが、胸に迫って空恐ろしくなった。
寒さと不安でどうにもならなくなり、両腕で身体を抱きしめてうずくまる。
泣いたってしょうがない、いい年して、と思いながらも、涙がこぼれ落ちるのを止められなかった。
自失している間に陽は急速に傾き、夕暮れがあたりを覆い始めていた。
いつの間にか晴れ渡った空は紫のグラデーションに彩られ、微かな星が一つまたたく。
どうしよう。
結論は最初から出ている。どうにもできない。
やれることはほとんどないのだ。
暗闇の中を移動するなんて自殺行為だ。足元も見えないのに。それに危険な動物は夜行性のことが多い。
なるべく乾いていて、なるべく草の密集している場所を選んで座った。少しでも暖かいかと思って。
座ってみるとひどく疲れていたことに気づく。膝を抱えて俯いていたら、いつの間にか眠っていたらしい。
寒い。
寒すぎて目が覚めた。
こわばった手脚をさすり、首を回す。
目に入ってきたのは満天の星空だ。
「綺麗……」
一瞬、寒さを忘れるほどの煌めきだった。こんな状況でも、美しいものは変わらず美しい。
見知った星座がないものかと空を見つめるが、これほどに星があると、かえって星座は見つけにくい。
結局分からないまま視線を落とした。
月は無かった。見えないだけなのか存在しないのかは分からない。
けれどたぶん、ここは私の知る地球ではないのだろうと、そんな気がした。
目が冴えてしまうと寒さでもう眠ることはできず、震えながらひたすらに夜明けを待った。
なんとか凍死もせず夜を乗り切った。
日が昇ると私は砂漠の爬虫類よろしく陽射しに身体を晒しながら足踏みした。
夜のうちは危険な動物を引き寄せるかもしれないと思い、なるべく動かないようにしていたのだ。
少しずつ身体が温まってくる。
太陽って素晴らしい。
普段はばっちり日焼け止めを塗り、極力直射日光に当たらない生活をしていたのに。
陽射しの暖かさをこれほどありがたく感じたことは無かった。
温まると共にようやく脳に血が廻り始めたのか、いろいろな疑問に気づいた。
鳥の声一つ聞こえないこと。
草原なのに虫も飛んでいないこと。
そして、腕や脚もむき出しでしかも裸足で、うっすい服一枚なのに自分がほとんど怪我をしていないこと。
よく見れば、かすかに掻き傷や打撲っぽい痕もあったけれど、あの大連続天変地異の中を抜けてきたにしては軽傷すぎる。
そもそも泥流に流されて山の中をかなりの距離下ったのに、岩にも木にもぶつからなかったのも不自然だ。
運が良いにも程がある。
雷にも当たらなかった。
もしかしてコレはアレだろうか。




