10 改めて旅立ち
ちゃんとした寝床は、あまりちゃんとしていなかった。
アモはもう一枚ラグっぽいものを出してきて床に敷き、横になったつまり私はそのままこのラグの上に寝ろってことだ。
それでも土の上に直に敷かれたラグはほんのり暖かくて、ちょっと煙い室内では床に近いほど煙くなかったので、理にかなっているのかもしれないなんて思ってしまうのがうら悲しかった。
目を開けたら朝だった。
この世界へ来る前は、夜中に何度も目が覚めて、謂われのない不安や焦燥に眠れなくなることがしばしばあった。いわゆる更年期障害だと軽く流されたけれど、誰にでもあることだからといって自分の苦痛が軽くなるわけではない。
そんな諸々は綺麗さっぱり消え失せ、土の床にラグ一枚で寝たにもかかわらず爽快な目覚めである。
あの数々の不調は、結局身体に由来する問題だったのか。
なんにせよ、仙女さまボディはたいへん快適だ。しかも内緒だがこのボディ、トイレに行かなくていいっぽいのだ。ちゃんと食べているのに謎だが、この文明レベルの低い世界でトイレの心配をしなくて良いのはすごく助かる。もしかしなくても、最高のチートかもしれない。
朝食にはミルクが出た。味は牛乳に近い。
しばらくぶりのタンパク質と脂質だ。無条件に美味しかった。
ミルクの他は昨日と同じ黴臭いパンだった。
厚切りのトーストにバターをたっぷり載せて―――妄想で味覚を補うのはなかなかに難しい。
世話になった礼を言って、村を出た。
薄いひらひらのワンピに比べると断然防御力が増した服に、おまけで貰ったポーチを肩からパイスラ掛けにした。仙女さまボディの胸はわりと控えめなので、ほぼただの斜めがけだけど。
小さな村を出ると、牧草地が拡がっていて牛だかカバだか分からないような動物が草を食んでいた。
これがあのミルクのもとか。
ささやかな畑もあって、萎びた野菜が植わっている。
「この村は牧畜が産業なのかな」
この規模で食べていけるのだろうかという疑問が湧いて問いかける。それにしてはカバ牛の世話をしている人もいないが。
「違いますねー。あれはミルクのために飼っているだけで、村の人の仕事は薬草採りです」
「ああ、なるほど」
「峨山の聖域まで行くのはアモだけですけどー、その周りでもそこそこの薬草が採れますよ」
それでこんな辺鄙なところに村があるのか。
「でも、誰にも会わなかったね」
薬草を採ってる人も見なかったし、村でも人を見かけなかった。
「今は季節外れですね。あとー、ここらでは昨日と今日は忌み日だから大人は家から出ないです」
うん、文化慣習はいろいろ難しい。
良い天気だ。空は青く、薄く平筆で刷いたような雲が漂っている。
暑くも寒くもなく、陽射しも優しい。
周囲は草原で、黄色い花がぽつぽつと咲いている。
人里から続くだけあって、狭いながら道も踏み固められていて歩きやすかった。
支度して貰った服は快適だった。やはりちゃんとした服は安心感が違う。露出が多い服だと無防備な気がして落ち着かない。柔らかな革の靴のおかげで足取りも軽い。やたらに長い髪はとりあえず紐でくくった。
アモは変わらない格好だが、ずっと背負っているランドセルに似た四角いカバンの上に巻いた布のようなものが載せられ、手には袋を提げている。
時折その袋の中に道端で摘んだ草を入れていた。
「今って、季節はいつ?」
季節があるかどうかも分からないけど、とりあえず訊いてみる。
「春ですねー」
季節はあったらしい。
「春、夏、秋、冬、の四つで合ってるかな」
「この辺はそうですねー。ずっと南東の方に行くと雨季と乾季だったり、もっと東の砂漠だと夏しかなかったりします」
世界地図がわからない。
今度絵が描ける場所で訊いてみよう。砂地とかあればいいな。今のところ草地ばかりだ。
「山で雨が降らなくて良かったなあ」
零れた言葉に返事があった。
「峨山では雨は降らないですよー」
「え」
あの豪雨はなんだったというのか。
「雨降ったよ」
「そんなはずはないですー。峨山に雨が降らないのは決まっていることです」
アモは頑として譲らない。
ここでいくら言い張っても、水掛け論になるだけだ。雨の話だけに。
つまり、あの時降った雨はよほどのイレギュラーだということだろう。
何がイレギュラーでなにがレギュラーなのか。
峨山の仙女さまとやらが異世界転生のオバサンなことはどっちだ。
その仙女さまに願いを叶えてもらいに来たという美形剣士はともかく、その後の二人組とデカい男はどうなのか。
考えても、全く見当がつかない。
下手の考え休むに似たりとはこのことか。
なんにしろ情報が少なすぎる。
まあいいか。
当面命の危機は回避したっぽいし、しばらくはのんびりこの世界を旅することにしよう。
突然貰った休暇だと思えば良い。
掃除も洗濯もお金の心配もしなくていいなんて、ある意味サイコーだ。
たいていの異世界転生ものは主人公が若者だから、あんまり現実世界の雑用に振り回されたりしてない。
毎日仕事と家事と雑用に追い回されて暮らした日々は、振り返る間もなく過ぎ去って行き、気づけば身体のあちこちに不調を抱えて一人きりだった。
母は二年前に脳梗塞で逝った。父は認知症で施設に入っている。すでに孫の顔も分からない。
いわゆる空の巣症候群とかいうやつで、軽い鬱状態だった気もする。
もう帰ることがないとしても、惜しくはないかな。
漠然とそう思った。
全ての雑用から解放されて歩く春の道は、切なくて明るかった。
再び野宿でございます。
道から少し外れて、丈の低い木の下で草を踏み固めて寝た。
夕飯はまたパンと雑草のスープだった。雑草は道すがらアモが集めていたもので、薪もそうして集めていた。硬くて黴臭いチーズのようなものが一欠片添えられていた。カバ牛のチーズかな。あの村で貰ってきたのだろう。
「雨が降らないと良いね」
星空を見上げて言うと、
「雨は後三日は降らないですよー」
と返事が返った。
「分かるの?」
「分からないと困るじゃないですか。村で聞いてきましたから」
天気予報なのか、占いなのか。よくわからないが、アモがそう言うならそういうことなんだろう。
山で見た星に比べるとちょっと霞んでる。標高が低いからかな。その辺の理屈は同じなんだ、なんて考えているうちに眠っていた。
単調な旅だ。景色はずっと草原。まばらな低木。
こんなに空き地があるのに、耕作も放牧もしているようすがない。
たまに鳥が飛んでいるくらいで動物も見かけない。魔物とやらも。
「あんまり動物とかいないんだね」
「ですねー。この辺りは三年前の醒嘯ですっかり荒れ地になったですから」
「セイショウ? 地震みたいなもの? それとも洪水とか噴火……はなさそうか」
どこを見ても火山っぽい山はない。
「地震とはちょっと違いますー」
地震はあるんだ。
「醒嘯では世界の摂理が大きく乱れます。地の底に棲む魚がうたた寝すると言われてますねー」
「魚……」
鯰だろうか。鯰の居眠り? 絵面がおかしすぎる。




