第一章 大使館3
それから、俺たちはイーサバルトの部下に紹介されると彼の部下に迎賓用の部屋まで連れて行かれた。昼間の大使館内を歩くことになったのだが他の職員と鉢合わせになるということはなかった。恐らくだが彼が手引きしたのだろう。
迎賓用の部屋はとても良い造りをしていた。作戦前に宿泊した大使館前の宿屋など比べ物にならない程だ。そういった部屋に泊まった経験がないからというのもあるが今の俺たちには若干不相応な気がしてならない。話を聞けば国の上層部をいつでも招けるようになっているらしく、調度品を少なくし長旅の疲れを癒せるような雰囲気は確かにある。ヘレナも初めて経験したであろう豪華な部屋に多少なりとも驚きの色を見せていた。
二人で部屋を使ってくれとのことだったが正直十分すぎる。しかし、交渉をうまく進めたせいもあってか露骨にそう言った様子を見せるわけにもいかないと感じたので彼の部下には素っ気なく返すことになる。彼らがどのように思っているかなど見当もつかないが数日でトリトンを離れることになるので深く考えるのはやめた。
彼の部下が退室したのを確認すると俺はソファに腰を下ろしてヘレナにも座るよう促した。ヘレナは机を挟んだ真正面のソファに座った。そして、一息ついてから話しかける。
「これで一安心できるようになった。ヘレナには今まで苦労を掛けたがここまでくればある程度は大丈夫だろう。それはそうと、どこか体調に変化はないか? トランクの中が快適な場所だったとは到底思えないからな」
「多少痛む場所はあるけどそんなに気にするほどでもないかな。トランクに押し込められてたのは確かに大変だったけどそれ以外は大して何もしてないし。それよりも、イーサバルトだっけ。あの人とはもっとバチバチの言い争いでもするのかと思ってたんだけどそうでもなかったのがちょっと不思議かな。個人的にはかなりあっさりと決着がついた感じ。ハロルドもそう思ったんじゃない?」
「ヘレナもそう思うか。俺もこういった交渉事について大して語れることはないが、それでも違和感はあった。彼の外交官としての能力は素人の俺でも高いと分かるものだったし、だからこその怖さもあるのは確かだ。亡命に関してはおそらく問題ないと思うが一抹の不安は拭えない。念のために最悪の事態も想定しておくべきなのだろうな」
「最悪の事態ね……。もし本当にそうなるのなら私が出張ることになるんでしょ?」
「そういうことになるな。その時はヘレナに相当な負担をかけることになるだろう。そうならないよう俺もできる限り動くが、そうなってしまった場合はヘレナ頼りだ。まぁ、あったとしても万が一だろうから今頭を悩ませるようなことじゃない。何せヘレナの能力は手放しにして良い代物ではないからな。下っ端の軍人である俺でさえそう思うんだ。戦術兵器以上の価値を見出せる関係上、ルダティアやトリトンに渡してしまうより自国で確保しておきたいと考えるだろう」
しかし、それを聞いたヘレナはあまり良い顔をしていなかった。そして、やや俯きながら口を開く。
「私たちを取り巻く環境ってどこまでも世知辛いね。いつまでこんなことが続くのかな」
ヘレナの口調はどこか悲哀さと諦観が滲んでいた。自分の能力の価値を理解しているからこその発言だろう。自らの能力に振り回されるこのような状態を今までヘレナが何度も経験してきたために弱気になっているとしたら今のうちに俺が手を打っておくべきか。服に空いた小さな穴を放置するといずれどんどん広がってしまうようなことは避けねばならない。
「あぁ、世知辛いな。だが、『最悪の事態』から多少マシな『悪い事態』に持ち直したということは事実だ。俺たちの進んだ道の距離は短いながらも確実に前進はしている。少なくともアルダードにいれば命の危険がなくなるのは間違いない。まずは上手くいったことを喜ぼうじゃないか。それに、いつまでもこんな状況を許容するほど俺はお人好しじゃない。ヘレナだけでなく俺にも降りかかってくる問題だからな。何とか解決の糸口を探るつもりだ」
俺がそう言うとヘレナは少しだけ破顔した。
「ハロルドってこういう事態に慣れてるかのように前向きな捉え方するよね。あの時もまるで人が変わったかのようだったし。でも、ハロルドの言う通りだと思う。悲観的になるには早すぎだよね。生きるか死ぬかの瀬戸際からここまで持ち直しただけでも十分にすごいことだし……。あぁ、なんかそう思ったら少し体の力が抜けてきた気がする」
ヘレナはそう言うとソファの背もたれに思いっきり背中を投げ出した。形が変わっていくソファを見ていればその沈み具合でヘレナの緊張がどれだけのものであったかがありありと分かる。
そして、ヘレナは顔を天井に向けたままハロルドに話しかける。
「そう言えば、お礼言っとかないといけないね。あの時はだめだって言われたけど上手くいった今なら問題ないでしょ?」
ヘレナはそう言うと上体を起こし俺の顔面を凝視してこう告げた。
「ハロルド、今までありがとう。私をここまで連れてきてくれて。ハロルドがいなかったらきっと碌な目に遭ってなかったと思うから、本当の意味でハロルドは私の命の恩人。この恩は必ず返すって約束する。だから、もう一度よろしくね、ハロルド」
差し出された右手に加え穏やかな笑顔がそこにあった。そこでようやく俺は彼女の信頼を勝ち得たのだと確信した。
「あぁ、よろしく頼むぞ、ヘレナ」
俺はそう言うと求められた握手に応じた。今思えば彼女が手を差し出したのはあの戦場のあの時以来ではないかとふと思った。
***
「ここでの生活も明日で終わり。ようやく退屈な時間が終わりを迎えるんだね」
夕食を食べ終えたヘレナはソファに腰を下ろすとそうつぶやいた。
「ヘレナは退屈な時間が本当に嫌いなんだな。ここに来てからそれしか言ってない気がするんだが」
「しょうがないじゃん。基本的に部屋から出られないし暇を潰すような物もこの部屋にはないんだもん。監視の目もあるし迂闊なこともできないんじゃ愚痴が多くなるのも仕方ないでしょ」
俺たちがこの部屋に案内されてから三日が経つ。俺たちが予想した最悪の事態は起こらず淡々と亡命に向けての取り組みがなされている。しかし、表向きは亡命予定である俺たちの保護とはいえ、それだけで事が済むとは流石に考えていない。情報の交換などはこの三日間で何度も行われたため、俺たちの情報がどれだけ正しいか裏で精査しているというのが俺の予想だ。特にヘレナの能力関係が執拗に調べられている以上、俺の話は半信半疑でしか捉えていないということなのだろう。まぁ、普通に考えれば特定の誰かの近くにいないと声が出せないというのは簡単に信じることなどできないものだ。曖昧なまま情報を本国に渡しても碌なことにならない。しっかり見定めようとしている以上ある意味では信用もできるのだが気が緩まないというのも確かだ。そんな中で時間を潰すのが苦痛になってしまうのは当然と言えよう。
「まぁ、それはそうだが。ヘレナのそれは度が過ぎているような気もするんだよな」
「今まで退屈に対して敏感な生活をしてきたからね」
「そう言えばそうだったな。話は変わるが、明日の準備は済んでいるか?」
「一応はね。こっちに来てるアルダード官僚の秘書に扮して逃げるんでしょ。さっき大きさを確認したから大丈夫。でも、正直私には秘書の服装が似合ってない気がするな」
女性の秘書は割と一般的なのだがヘレナは小柄で少女然としているため秘書という雰囲気にはならない。しかし、これ以外ではトリトンの包囲網を潜り抜ける方法がないので仕方なく着ていると言った形だ。
「まぁ、そこは我慢してくれ。俺がどうにかできる立場じゃないからな」
「いいよ、そこまで気にしてないから。それよりもアルダードに着いたらどう動くつもりなの? 流石の私でもなかなかに難しい状況になると思うんだけど」
「そうだな、アルダード側がどのように動くかで対応するしかないと思う。俺の予想では軍の管理下に入るけれど別々に引き離すという選択肢はないな。それに、すぐさま動くということもない。普通に考えれば得体の知れない奴らをいきなり運用するはずもないから一定期間情報を集めた後に指示が飛ぶはずだ。その間で対策を考えるべきだろうな」
「要するに、今はまだ動けないってことなんだね。まぁ、今より自由に動けるんだったらなんだっていいけど。でも、アルダードってどんな国なんだろう。ハロルドは詳しいこと知ってる?」
「俺もあまり詳しくはないな。トリトンは戦争してるからある程度の知識はあるがアルダードはそうじゃない。アルダードに着いたら情報を集めるところから始めないと碌なことにならないだろうな。ヘレナにも手伝ってもらうことになるかもしれない」
「お、ようやくまともに手伝える時が来るんだね」
「あぁ、働きを期待してるぞ」
「いいよ、任せといて。ハロルドが驚くぐらいの働きを見せるから」
「頼もしいな。それじゃその時になったらよろしく頼む」
俺がそう言うとヘレナは親指を立てた。
この先がどう転ぶか分からないけれど良い方向に少しでも近づきたい。そう思いながらヘレナとの会話を楽しんだ。




