第一章 次の街へ1
明晰夢。それは眠っている間に自分が見ている夢を自分で夢だと自覚している夢のことである。軽く聞きかじった程度でしかないが、人によってはその夢の中の状況を自由に変更できるとか何とか。夢の中とは言え己の赴くままに行動を起こせるという点においては確かに魅力的ではあるが、少なくとも俺が今見ているそれはそんな楽しげなものからは程遠かった。
俺が立っている辺り一面は真っ暗で何も見えないけれど、少し離れた場所にただ一点だけ照明か何かで光が当てられている場所がある。しかし、そこで照らされているものは棺桶だ。とても小さい棺桶で子供が入るような大きさだ。そして、それを見ると同時に俺の頭の隅に追いやっていたはずの嫌な記憶が掘り起こされる。見覚えがあるそれは死んだ妹が入った棺桶と瓜二つだったのだ。辛く忌々しい思い出が詰まった棺桶がどういう訳か光に照らされている。きっとあそこへ行けと言う暗示なのかもしれないが俺はこの夢を明晰夢であると自覚している。ならば、自らそこへ行って悲しみを思い起こす必要などどこにあろうか。朝が来て夢から覚めるまで待っていればそれで良いのだ。
一応、明晰夢ならば己の意思でこの状況を変えられるのではと思って念じるなどしてみたが特に何も起こらない。何も変化が起こらないことが分かると俺は自ら動くことはせずにその場に座り込んだ。
しかし、変化は唐突に起きた。棺桶の蓋がわずかにだが動き始めたのだ。低音を発しながら動き出す蓋を見ながら俺は何事かと思う。そして、蓋が半分ほど開くと中から細く白い腕が伸びてきて棺桶の縁を掴んだかと思うと上半身が姿を現した。少し離れている上に髪の毛のせいで顔はよく見えない。しかし、その横顔はまさに死んだはずの妹のそれだった。
俺はその時ようやく気が付いた。これは悪夢なのだと。妹が死んでから随分と経つがこのような悪夢は初めてだ。俺は体が震え始める。戦場で経験するような命に係わる恐怖でなく得体の知れない恐怖だ。しかし、何故恐怖しているのかまるで分らない。俺は妹に対して後ろめたい感情を抱いたことなど一度もないはずなのに。
そう思っているうちに妹はこちらを振り向いた。やはり顔はよく見えない。かと言って近づきたいとは思えない。しかし、後ずさりたいという気分にもなれない。そして、一定の距離を保つべきという謎の考えに囚われる。
そんな時間がしばらく続いたと思った時だった。震えながらもよく観察していると妹の口元が動いていることに気が付いた。どうやら何かをしゃべっているようだが聞き取ることはできない。
この時、俺はこの明晰夢で初めて興味がわいた。妹が最期に話した言葉以外が聞けるのではないかと思ったからだ。依然として体は震えているがそれに見合うものが得られるのではないか、近づいてみるべきではないかという考えが出てきた。それと同時にこの悪夢めいた明晰夢でこのような行動をとって良いか悩む。しかし、夢であると分かっている以上現実に大した影響など出るはずもないという考えに至ると俺は意を決して棺桶に近づいた。
近づけば近づくほど声が聞こえてくるのが分かる。しかし、相当か細い声のようでありしっかりと聞き取るためには手が届くほどの至近距離に行かねばならない。地面に足が絡みついているのかと思うほど重い足取りで少しずつ近づくと俺は俯き目元が髪の毛に隠れている妹の目の前に立った。これでようやく妹が何をしゃべっているのか聞き取れる。
「……後悔してはだめ。けれど、恐れることを忘れてもだめ。それが何よりも兄さんのためになる」
「何を言ってるんだ……? 俺はお前が死んだことを後悔してはいけないというのか?」
俺は咄嗟にそう言った。何を指してそう言っているのか分からないが、少なくとも自分が無力だったから妹を救えなかったことを見透かしているようにも聞こえる。ならば、もっと声を掛けることで何か得られるのだろうか。
「どうしてお前はここに現れたんだ? 何か目的があると言うのか?」
「……後悔してはだめ。けれど、恐れることを忘れてもだめ。それが何よりも兄さんのためになる」
妹はうわごとのようにそれを繰り返している。会話が成立しているという訳ではないようだ。しかし、やはり不気味だ。俺が知る妹からはかけ離れすぎていて不安に駆られて仕方がない。やはり、こうやって近づいたのは間違いだったのだろうか。先ほどより和らいだとはいえ恐怖心そのものが消えたという訳でもないし、若干の好奇心を除けばここは早々に立ち去るべきだろう。明晰夢からどのように醒めるのかなど色々と頭に思い浮かぶがとりあえずは離れることにした。
「……後悔してはだめ。けれど、恐れることを忘れてもだめ。それが何よりも兄さんのためになる」
妹の繰り返すその言葉の意味を知るときが来るのだろうか。その時が来たとして俺はどのように受け取るのか分からないことだらけだ。しかし、妹はそれ以外のことには言及しなかった。それはつまり俺がやっている行動を認めてくれたということになるのだろうか。もしそうならば、それはある意味で俺の行動が正当化されたと捉えても問題はなさそうだ。俺は自分が今置かれている状況に活路を見出せた気がして少しだけ破顔した。悪夢だと思っていたがどうやら俺の思い違いだったようだ。
俺は光の照らされた棺桶に背を向けるとそのまま離れた。歩いては後ろを振り返るという行動をニ、三度度繰り返したところで俺はようやく微かに白く光る壁にぶち当たった。そして、その壁に手をかざしたと思ったら突然壁から光が溢れ出し目を覆わざる得ない状況になった。目をつむり両手を使って目を塞いだ。しばらく経って光量が弱くなっているのを確認した段階で俺は目を開けた。するとそこには木製の天井があった。そして、周りを見渡して俺が昨晩寝た病院の廊下であることを思い出す。辺りはようやく日が差し始めてきた頃合いのようで薄暗かった。どうやらあの明晰夢から醒めたらしい。
俺は時間を確認した。懐中時計を引っ張り出すと時刻は午前六時を指している。普段より少し遅い起床だが昨日の件を鑑みれば致し方ないだろう。そして、俺は昨晩の出来事を思い出し彼女とどのような関係性を築いていくべきか頭を悩ませるのだった。
俺は彼女が起きているか確かめるべく病室を覗いた。一人で朝食をとっても良いが今の状況でそれは好ましくない。彼女がそれを望むのであれば仕方がないけれど、できるのであれば二人で朝食をとり関係性の向上に努めるべきだ。アルダードへ亡命するという作戦が開始されてまだ一日しか経っていないというのにこのような状態は看過できない。そう思いながら病室のベッドを確認すると彼女は起きていた。彼女は壊れかけている窓から明るさを増していく青ざめた空を眺めている。まるで物思いにふけっているような後ろ姿はどういう訳か初めて見るような光景と思えない。しかし、起きているなら話をするのはたやすい。
「ヘレナ、起きていたのか」
「……うん、おはよう、ハロルド。昨晩はよく眠れた?」
彼女は振り返ってそう言った。表情は昨晩と比べて柔らかくなっており怯えている様子ではないようだ。
「あーまぁぼちぼちだな。奇妙な夢を見た以外特に変わりない。それにしても、随分と目覚めが早いんだな。研究施設も軍の朝と同じように早かったのか?」
「軍の朝事情を知らないからよく分からないけどここまで早くはないかな。ハロルドはいつもこの時間には起きるの?」
「いや、本当はもう少し早いんだが疲れていたからか普段より寝過ごしてしまった。それより腹は減っていないか。朝食には良い頃合いだと思うんだが?」
「朝はあんまりお腹減らない方だけど、今日は昨日みたく移動の機会が多いんだよね? だったら、ある程度食べていた方が良いんじゃない?」
「あぁ、思いがけず逃亡のための潤沢な資金が手に入ったからな。使わない手はない。しかし、移動と言っても駅の乗り継ぎがほとんどだから無理をする必要はない。食べられる量だけで大丈夫だ」
「じゃあ、そうしとく」
「わかった。なら朝食の準備をするから部屋に入っても構わないか?」
俺がそう尋ねると彼女は一瞬だけ体をすくめた。しかし、ほんの少しだけ呼吸を整えると大丈夫と言って部屋の中に招き入れてくれた。まだ尾を引きずっているようだが昨晩ほどではないらしい。立ち直りが早くて助かるが本当に大丈夫なのか少し疑わしくもある。しかし、それを尋ねるのは野暮というものだ。今は深く関わらない方が吉だろう。
朝食は昨日の買い置きだがマフィアがリュックをひっくり返したせいで大なり小なり形が崩れてしまっている。嫌な置き土産をして立ち去ったマフィアに若干恨み節をこぼしつつも何事もなく朝食を準備していると彼女が俺に声を掛けた。
「あの、昨晩のことだけど、困らせてごめん」
「……気にしていないわけではないが急にどうしたんだ」
「せっかく助けてくれたのにお礼を言ってなかったから、言っておきたくて」
「そうか。ならありがたく受け取っておこうか」
「寝る前に少し落ち着いてその時に思ったの。ハロルドに酷い事をしちゃったなって。だから、ごめん。それと、助けてくれてありがと」
「何かあったら助けると言ったからな。それよりも、まだ本調子じゃないようだが大丈夫なのか」
「それは確かにそうだけど、ハロルドにそれを見せ続けたらハロルドだって心苦しいでしょ。ハロルドがあんな男とは違うって分かってはいるの。だから、私がいつまでもへこんでいたらせっかく計画を実行してくれてるハロルドに迷惑かけちゃうのが忍びなくて」
案外律儀なのだな。まだ一日しか経っていないが彼女の性格の一端が掴めてきた気がする。
「そうか。なら、あまり気負わずにいるとしよう。せっかくヘレナが決意してくれたんだ。無駄にしたくないからな」
彼女は俺の言葉を聞くと小さく頷いた。
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