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第一章 廃病院5

「はっはっは! まさか俺が懐から拳銃でも出すと思ったのか? さっきも言っただろうそんなことはしないとな。むしろ突っかかった詫びとエミルを倒した礼をすると言っただろう。人の話を聞かない奴だな。まぁ、そういう風に匂わせた俺も悪かったがそんなに真に受けないでくれよ」


 彼はぷらぷらと札束を扇ぎながら続けて言った。


「あんなものを持っているくらいだ。あんたらお尋ね者なんだろう。どうやって逃げるかなど知るつもりはないがこんな寂れた廃墟に身を隠すくらいだ。相当金に困っていると見た。だったらここはひとつ取引をしようじゃないか」


 取引だと……? 彼が何をしたいのかピンと来ず思考が引っ掻き回される。だが、彼は俺たちのことを部外者だろうと見抜いていた。加えてあの高圧的な態度を貫き通し俺たちの状況が悪くなった時に狙いすましたかのように代替案を提示する。そして、俺たちの秘密を知って取引に持ち込んだとすれば全ての状況に説明がついてしまう。


 もしや、わざとこの展開を狙って作ったというのか。


「まさかと思うが、こうなるようにエミルをここに配置していたとか言い出さないよな」


「ほぅ、何か勘付いたのか。流石にそこまでやってはいないが今回の件に関しては幸運だった。直接手を下さずに部外者がエミルを勝手に倒してくれたからな。使うはずだった金が浮いたんだ。だが、その分の金を協力金として支払うにしては少し困ることになる。首輪をつけておかないと最悪の展開になった時に困るだろう」


「……だからわざと俺たちを追い込む形を演じた、という訳か」


「ふふっ、はて、何を言っているのか分からんな。それより取引だ。取引内容はエミルを倒した報酬と口止め料をあんたらに渡す代わりにエミルのことを金輪際誰にも話さないというものだ。どうだ、これほど楽な方法で金が手に入るなんてそうそうないぞ」


「仮に俺たちがエミルのことを話したらどうなる」


「その時はあんたらを警察なり軍なりに突き出して報復するだけのことよ。あんたらが関わっている事件の大きさなら顔を知られるだけでも困るんじゃないか? お尋ね者からすればなかなかに厳しい制裁だと思うがな。さっきも言ったがあんたらはこんなところにいなければならないほど切羽詰まっているんだろう? 何をするにおいても金は大事だ。今日起きたことを黙っていれば金が手に入る。現状を打破する手立てになるかもしれない。そんなものが目の前に転がっているんだ。良い礼だとは思わないか?」


 見下すような笑みを浮かべながら彼はそう言い放つ。


 その時俺はようやくマフィアの狙いを完璧に理解できた。そういうことか。部外者である俺たちを逃がしてしまえばひょんなことからエミルの情報が洩れるかもしれない。それをマフィアは嫌がった。だから俺たちの弱みを握り、取引という首輪を俺たちにつけさせ口止めさせることでその危険性を限りなく排除したのか。そして、エミルが闇に葬り去られることで全てはマフィアの思い描いた通り丸く収まる。


 何ということだ。たったそれだけのために俺は知られてはならない情報の一部を明かしてしまったというのか。軍や警察に直接知られた訳でないとは言えそれでも信用できるかすら怪しいマフィア。このマフィアがエミルを始末したいのと同様に俺も今ここに居るマフィアを一人残らず始末したい欲求に駆られる。しかし、先の戦闘で傷口が開いたせいで俺も決して動ける立場にあるわけではない上に、こいつらの提示する取引内容は喉から手が出るほど魅力的だ。


 無理してマフィアを始末する危険を背負うより、確実に逃げられる方法を取った方が建設的か。アルダードに逃げさえすればこいつらと関わることもないしここは冷静に次の足場を見据えるべきだ。


 いいだろう、一杯食わされたのは癪でしかないがお前たちの要求を飲んでやる。


「……あぁ、確かに良い礼だ。あんたらの言う通りにするのは少し悔しいが、今の状況でこの取引はまさしく恵みの雨。ありがたく頂こう。だが、確認もしておきたい。本当に見逃してくれるんだろうな」


「無論だ。あんた結構強いからな。目撃者を始末するリスクと人員を殺されるリターンが釣り合ってない。無傷でエミルを確保できたとなれば組織内での俺の株も上がる。それに、計らずとはいえ計画に協力してくれた奴を殺すなんて流石に下種だろう。そこに転がってる奴と同類になりたくないんでな。なら取引は成立と相成った。この金を持っていきな」


 そう言って彼は俺に札束を放り投げた。投げ飛ばされた札束を受け取るとかなり厚みがあり相当な金額であることが分かる。今まで金の使用用途からざっと計算しても鉄道を乗り継ぎ、宿屋に泊まって、変装品を必要な分買ってもまだまだ使いきれないほどだ。それは俺たちのこれからの行く手を阻む障害を見事に打ち払ってくれるものだった。


 マフィアが人情を見せるなどあまり聞かないが、どうやらマフィアにはマフィアなりの矜持があるようだ。


「随分と気前がいいな」


「あぁ、もちろん。ゴミを始末するための予算は結構あるんだが余ってしまったら来年度から削減されちまうからな。使い切っておかないと俺も困るのさ」


「……生々しいな」


「理解してくれると助かる。それじゃ、エミルは貰っていく。もし、もう一度会う機会があったらその時は恨みっこなしだ。いいな?」


 彼はそう言うと部下を引き連れてエミルを担ぎ出し外に止めてあった車両に乗せてどこかへ行ってしまった。


「……はぁ、何とかなったか。好ましいとは言えないが何も起きなかったことに感謝するべきか」


 俺はマフィアがいなくなったのを確認すると溜め込んでいた息を思い切り吹き出し安堵して近くの壁にもたれかかった。不幸が何度も重なって思考がぐちゃぐちゃになりながらもなんとか踏みとどまった俺の理性に今夜はしっかり休んでもらいたい。そう思いながら俺は彼女を探した。すっかり放置していたが危険はもうないはずだ。


「ヘレナ、安心しろ。今度こそもう大丈夫だ。今から拘束を解いてやるからな」


 彼女は部屋の隅で固まっていた。


 俺は彼女に近づき口のガムテープと後ろ手を組んでいるガムテープを引き剥がし彼女を完全に解放する。しかし、彼女は声を上げようとしない。


「どうした? どこか具合が悪いところがあるのか?」


 しかし、それでも声を上げない彼女の顔をよく見ると小刻みに揺れていた。そして、目元は怯えきっていた。


 俺は安心させようと腰を下ろし視線を同じ高さに合わせて声を掛けようとした。しかし、彼女が返した反応はかすれ聞こえるかも怪しい小さな悲鳴だった。そして、俺から離れるように後ずさりする。


 彼女が取った行動はまさに俺をあの男と同類と捉えているかのようなものだった。


 そう思った矢先に彼女はこう言った。


「ハロルド……ごめん、今は……まともに……は、話せそうにない」


 違う意味で衝撃を受けた。彼女の怯えはよく分かる。しかし、曲がりなりにも彼女の危機を救ったがゆえにある程度の信頼は確立できただろうと考えた自分が甘かった。幻想を抱き過ぎていたのだ。いや、もしかしたら彼女は最初から俺のことを信頼などしていなかったのかもしれない。だから、この状況に陥って初めてそのメッキが剥がれたのだと考えることもできる。いずれにせよ、苦しいことに変わりない。


 しかし、そんなことに言及しても意味がない。とりあえず何とか対処するべきだ。


 彼女は強姦される寸前だった。それは間違いなく尋常ならざる恐怖だっただろう。かつて、戦場で彼女が言っていたが恐怖に支配されて叫び声をあげてしまったということがあった。状況が近い関係上それを今起こされる危険性もあり、彼女の心に深い傷を刻み込むことにもなりかねないことを考えれば、何とかその心を癒す方法を模索するべきなのだろう。しかし、ここまでだんまりを決め込まれると打つ手が少なくてどうしようもない。慎重に言葉を選んで会話を成立させるほかないか。


 少なくとも今の彼女は距離を置きたがっている。それには従うべきだろう。俺は距離を詰めることはせずにそのままの位置から語りかける。


「その、ヘレナ、すまない。俺がもっと早く気が付いていればこんなことにはならなかったはずだった」


「……」


「ヘレナの気持ちもよく分かる。こんな状況だ。知り合って一日も経ってないような男を信用しろなんて言わない。だから、ヘレナの好きな時で構わないから話せる機会を作ってほしい。その時まで俺から不用意に接触するようなことはしないと誓おう」


 彼女の表情は依然変わらないままだが今の俺にできることなどたかが知れている。まさかこのような展開になるとは予想もできなかったが無理強いしては作戦に余計な障害が出るだけだ。こちらの指示に従ってくれるまで対応に細心の注意を払わねばならない。厄介なことになったとはいえそれを表に出すわけにもいかないし困ったものだ。


 俺は固まろうとする場の雰囲気を和ませるために話題を変える。


「今日はもう休もう。休めばマシになるかもしれない。それとヘレナが嫌なら俺は別の部屋で寝る」


 彼女がどのように答えるか分からないが配慮をしておくべきだろう。嫌ならそれで構わない。俺としては早く立ち直ってくれればそれでいいのだ。


 彼女は怯えた表情のまま少し考えこむと小さな声でこういった。


「やっぱり、一人で寝させてほしい。だけど、それでも、やっぱり怖い……」


 どっちつかずの曖昧な答えだが、そうなるのも仕方ない。


「分かった。なら俺は廊下で寝る。誰も入ってこられないようしっかり警戒しておくからゆっくり心も体も癒してほしい」


「……わかった」


 今日の俺たちの会話はこれで終わった。


 トイレには彼女が眠ったころを見計らってこっそりと行った。


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