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第一章 廃病院3

「やっと終わった。一日中動きっぱなしだったから結構疲れちゃったよ」


 彼女はそういうと準備したベッドに向かって身を投げた。それを見て俺はベッドが壊れやしないかと一瞬ヒヤッとしたが少し軋んだだけで何も起こらない。


「今日一日だけで色々あったからな。俺も体を早く休めたいところだ」


 気を張り詰めることが多かった一日だ。今の今までずっとそうだった。だからだろうか、気が抜けるのを感じると尿意が沸き上がってきた。どこにトイレがあったかを思い出しながら俺は彼女にこう告げる。


「ちょっと用を足してくる。しばらく一人にするが構わないか?」


「それくらい大丈夫だよ。場所は分かってるの?」


「あぁ、覚えてる。もし何かあったら声を上げて良いから俺に知らせるようにしてくれ」


「はーい。分かった」


 俺は彼女にそう断りを入れるとランタンを持って一階にあるトイレへと向かった。


 トイレは一階の奥にある。先ほどの探索でどこにあるか下調べしておいて正解だった。トイレには月明かりが届いていないためランタンを持って移動する必要があるのは難点だがトイレ自体は想像以上に汚くなかったので差し引きとしては決して悪くない。階段を降りるためにランタンを下に向けて足場を確認する。埃っぽいため注意して移動しなければ足を滑らせるからだ。


 俺は階段を下りながら今日のことを振り返った。軍の合同実験を逆手にとって脱出し、少ない元手をもとに街を駆け巡り列車に乗って逃亡する。あの戦場で咄嗟に思い付いた作戦を本当に実行しているのだと考えるとどことなく滑稽に感じる。あの時の判断そのものを否定するわけではないが、なかなかどうしておかしさを感じるのだ。数奇な巡り合わせとはいえ妹と同じ名前、同じ年代の少女と戦場で出会うなど予想できる者などどこにもいないだろう。


 そういえば、親父が以前言っていた「人生には必ず苦境が訪れる。それは人によって様々で早く来るか遅く来るかの違いでしかない」という言葉はまさに今使う言葉なのではないか? あの戦場での出来事から始まる今日までの流れは俺の今までの人生を振り返っても間違いなく一番の苦境だ。親父の言葉通りなら今がその時と捉えられる。だが、何とも複雑な気分だ。


 「苦労は買ってでもしろ」などという言葉があるが、自分から苦労を願う者など基本的にどこにもいない。そんなことを言えるのはその苦労に見合った以上のものを手に入れた後、もしくは手に入れられる見込みがあるときにしか言えないからだ。後先考えずに苦労をしても実らなければ博打と大差ない。もちろん苦境と苦労を一緒くたにするつもりではないが好まれざるものであることは確かだろう。今俺が置かれている苦境とルダティアへ逃げるための苦労が実ってくれることを祈るばかりだ。


 親父も苦境の先に何が訪れるのかくらい話してくれても良かったと思うが、母と駆け落ちし医者としての技量以外何もかも殴り捨てた親父の人生を思うに、そういうことを俺が小さいときに明言できなかったのかもしれない。


 今の状況と過去への思い出を振り返りながら一階への階段を下りていくとふと手すりに目がいった。埃が積もっておりお世辞にも触りたいと言えるものではないが一か所だけ人の手形と思しきものが残っていた。


 誰かが触ったのだろうか。少なくとも俺は触った記憶がないし彼女が触るにしても何かしらの反応を示すはずだ。それによく見てみるとかなりくっきりと残っている。その手形は彼女の小さな手とは思えないほど大きいものだった。


 俺は何かが変だという感覚に囚われた。そして、手形のすぐ下にある階段をランタンの光で照らす。すると、そこには俺達の履いている靴の形とは違う足跡が残っていた。そして、その足跡は上の階へと向かっていた。ここに来た時このような痕跡はどこにもなかったはずなのに何故今になってそれが現れるのか。


 悪寒がした。俺たちの知らぬ間に誰かがこの建物の中に侵入している。幽霊の類ではなく間違いなく人である。それを理解した瞬間に俺は階段を駆け上がりたいという欲求に駆られた。しかし、一歩踏み出し今すぐにでも彼女の下にたどり着くべきだという考えが頭の中を支配する直前で階段を下りる前に自分が言った「何かあったら声を出せ」という言葉を思い出す。彼女が声を上げていない以上何か起きたと断定するには早いと言えよう。そうは言ってもこの事実を見過ごすわけにはいかない。そう考えた俺は仮に何かあってもすぐ対処できるよう息と気配をできるだけ殺し出せる限りの速度で階段を上った。


 階段を上れば上るほど俺たち以外の足跡は露骨さを増してく。ランタンで足元をしっかり照らさなければ分からないがそれに気が付かず考えなしに階段を下りた自分が恨めしい。忍び足で階段を上る間にも彼女の声が響く様子はない。杞憂であってほしいと願うが仮にこんなところで何かあって彼女を失おうものならばこの作戦を実行した意義そのものが失われてしまう。そして彼女を失い敵地のど真ん中で捕まればどのような末路をたどるか想像に難くない。その結末だけは何としても阻止しなければならないのだ。


 三階に続く階段にも足跡はあった。そして、ようやく三階にたどり着くと心臓の鼓動が早くなり自身の耳にもその鼓動が伝わってきた。緊張しているのは自分でも理解しているがそれに混じって奇妙な音、とりわけくぐもった音が聞こえてくる。まるで口に手を当てられている中で声を出そうとしているかのようなそれは俺たちがねぐらとして使っている病室ではなく別の病室から聞こえてくる。一応ねぐらとして使っている病室をこっそりと覗くがそこに彼女の姿はなかった。その時点で俺の嫌な予感は既に当たっているという考えに至った。


 俺はその音がする病室に意識を尖らせて向かう。早く助けなければという気持ちと焦ってはならないという理性がせめぎ合い思考がぐちゃぐちゃになりそうになるのを必死に抑え俺は病室の前にたどり着き中を見た。


 そこには見知らぬ男の後姿があった。かなりガタイの良い男であるが目に映るのはそれだけではない。男は下半身を露出させながらベッドに横たわり口にガムテープを貼られている彼女のスカートをまくり上げ股を強引に開かせようとしていたのだ。彼女は必死に抵抗してくぐもった音を出し続けているが男の力が強くほとんど股は開きかけている。


 それを見た俺はもはや深く考えることなどできなかった。己の感情が赴くままに足音を立てず男の背後に立つや否や思いっきりその股座を蹴り上げた。不快な感覚が足に伝わると同時に男は声にならぬ悲鳴を上げた。完全に不意打ちをくらった男はそのまま崩れ落ち悶絶した、かに思われた。


 なんと男はすぐさま立ち上がったかと思うと釣り上がった目元に闘志を燃やし青筋を立てながらこちらに向かって猛然と突っ込んできた。


 思いもよらぬ展開だったが反射的に思い起こされる軍の訓練と似たような状況と似ていいると感じると急速に思考が晴れ渡っていき感情的な考えが消えていった。当たり所が悪かったのかそれとも急所を蹴られてもその痛みに耐えられるほど打たれ強いのか疑問は残る。悶絶している間に首を絞めて意識を奪えれば良かったのだがこうなった以上は応戦するしかない。しかし、ガタイが良いとは言え素人の体当たりが現役軍人に当たるはずもないのだ。俺は予想外の動きに驚きながらも紙一重でその体当たりをかわしながら横目でチラリと彼女の様子を確認する。後ろ手を組まされ口にはガムテープがしてあり声を出せそうにはないが身を隠すことはできそうだ。


「ヘレナ! 奥に隠れていろ!」


 俺は指示を出した。視界に入ってはいないがベッドから這い上がる音が聞こえる。


 そうこうしている間に、体当たりの勢いを殺しきれなかった男は病室の入り口に向かって倒れ込んだがすぐさま立ち上がった。そして、獣のような叫び声をあげながらもう一度俺に狙いをつけると右腕を大きく振り上げて殴りかかってきた。


 体格差があるため絶対に受けることができない一撃だが何も考えずに出されたその拳は決して武術を経験してきたそれでないとはっきりわかる。同じような体格差のある軍人と幾度となく組み合ってきた俺からすれば避けるなど容易い。先ほどと同じように間合い調整だけでかわすと反撃とばかりにみぞおちに向かって基本的な型である正拳突きをお見舞いした。相手の突進を利用した一撃ゆえにその威力はとても重い。今度こそ悶絶の表情を露わにした男は距離を取るかのように後退する。しかし、その隙を逃さず体勢を崩した足に向かって俺は足払いする。


 お手本のように決まった足払いにより男は背中から地面に倒れた。肺にある空気をすべて出し切ったかのような音が男の口から聞こえ、何が起きたんだといった表情を浮かべる。しかし、俺は追撃の手を緩めない。休む暇を与えないうちにうめき声を上げる男の顎を思い切り蹴り上げた。かひゅんという奇妙な音が男から聞こえたかと思うと男の体は脱力した。脳震盪を起こしたのだろう、ぐったりとしている。


 男の意識が完全にないことを確認した俺はひとまず安堵した。招かれざる客だったが単独であったことが功を奏したと言ったところか。しかし、深く考えずに行動したツケもあった。治りきっていない足を何度も使ってしまったため傷口が開いてしまったのだ。移動はできるが酷使できるような状態ではないと思う。ひとまずは安静にしておくべきだろう。


 手当は後回しにして、俺は次に何をするべきか、特に彼女の安全を確保するか先にこの男を拘束しておくべきか一瞬悩んだが、彼女の拘束を解いておけば意識をすぐに取り戻しても大事にはならないと考えこの病室に隠れているはずの彼女に声を掛ける。


「もう大丈夫だ。出てきていいぞ」


 俺の声を聞いた彼女は物陰から姿を現した。新調したはずの服は至る所に埃がまとわりついており部分的にしわが寄っている。口にはガムテープが貼られていて両腕は後ろ手に縛られて使えないのか背中に回っていた。表情は完全に怯えきっていて物陰から出てきたとは言ってもその場所から動こうとはしない。


「安心しろ、今から拘束を解いてやるから心配するな」


 そういって俺が彼女に近づこうとしたときだった。


「まさかエミルを倒すとはな。まぁ俺たちの仕事が減って楽になったと考えれば儲けものか。どこの誰だか知らんが助かったよ」


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