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第三章:カーキ色の衣替え

汲み取り式トイレから這うようにして出た宮坂祥平は、一ノ瀬のくれた温かいお粥を喉に通しながら、ハーフパンツのポケットを何度もまさぐっていた。

(あ……ない。いつも仕事中に持ち歩いている、イライラを抑えるための頓服薬(とんぷくやく)がないんだ……)

当たり前だ。ここは昭和19年。現代の精神医学がもたらした、自分を落ち着かせるための錠剤など一粒も存在しない。

(薬がないなら……自分で自然に落ち着くのを待つしかない。焦るな、落ち着け、僕の脳。ルーティンを取り戻すんだ)

宮坂は深く、大きく深呼吸を繰り返した。吸い込んだクレゾールの空気が肺を満たし、自律神経の嵐が少しずつ凪いでいく。

宮坂は、隣で心配そうに桜色のハンカチを握りしめている一ノ瀬を見つめた。

「あの……一ノ瀬さん。すいません、汗だくで気持ち悪いので、新しい着替えが欲しいです。……できたら、日本軍の衛生兵の軍服や、標準装備がいいな、なんて……(ボソボソ)」

「え? 衛生兵の、軍服ですか……?」

一ノ瀬はきょとんとしたが、宮坂のオタク脳は、この最悪のピンチにおいて一気に弾けた。

(待てよ、もし本物の軍服を着られるなら……帝国陸軍の衛生兵が携行する『四十年式医療嚢(よんじゅうねんしきいりょうのう)』の本物があるんじゃないか!? 牛革製、あるいは末期のカンバス生地で、包帯やアンプルが機能的に収納できる、あの憧れの装備……!)

装備の細かいディテールを考えただけで、胸のワクワク感がイライラを完全に上書きしていく。よし、落ち着いてきた。

宮坂は立ち上がり、心配して集まってきた軍医、衛生兵たち、そして一ノ瀬に向かって、床を見つめたまま深く頭を下げた。

「あ、あの……さっきは取り乱して、大声を惹き出してすいませんでした。手順が狂って、パニックになってしまって……」

軍医たちは顔を見合わせ、それからハハハと笑った。

「いや、気にするな宮坂殿! それほどまでに佐藤大佐の治療に全神経を注いでくれていたのだろう。貴殿の熱意、痛み入る!」

「そうです、宮坂さんのおかげで皆助かっているんですから」

一ノ瀬も優しく微笑み、宮坂のユニクロの白いTシャツと黒のハーフパンツを受け取った。

「宮坂さんのそのお洋服、ずいぶん汗を吸っていますね。私が井戸端で洗濯をしておきますよ」

「あ、ありがとうございます……」

しばらくして、宮坂は物置部屋の姿見の前に立っていた。

鏡に映る自分は、お気に入りの茶髪に左耳のピアスはそのままに、本物の大日本帝国陸軍・衛生兵のカーキ色の軍服(九八式軍衣)に身を包んでいた。首元を飾る衛生科の緑色の兵科章、そして腰には、憧れの四十年式医療嚢が鈍い光を放っている。

「……すごい。本物だ。サイズもぴったりだ」

現代のユニクロも快適だったが、本物の軍服のガッシリとした生地の感触に、宮坂のミリオタ精神は最高潮に達していた。自然と口元が緩み、ニコニコとした満面の笑顔で物置部屋のドアを開けて外に出る。

だが、そんな彼の華やいだ気分は、洗濯を終えて戻ってきた一ノ瀬の姿によって、一瞬で消し飛ぶことになる。

廊下の向こうから走ってきた一ノ瀬は、なんと顔を耳の根元まで真っ赤に染め、怒りと羞恥で肩を激しく震わせながら宮坂をキッと睨みつけた。

「宮坂さん!!! なんなんですか、あの……あの、いやらしい下着は!!!」

「へ……?」

宮坂はニコニコ顔のままフリーズした。

一ノ瀬が洗濯カゴの中で指さしているのは、宮坂がさっきまで穿いていた、現代では至極一般的な「紫色の無地のトランクス」だった。ユニクロの黒のハーフパンツの下に穿いていた、ただの機能的な下着だ。

「普通じゃないか?!(ボソボソ)」

宮坂が馬鹿正直に、どストレートに言い返すと、一ノ瀬はさらに顔を赤くして涙目を浮かべた。

「普通のわけがありません! あんな……あんな、殿方の肌着とは思えない妖艶な紫色で、しかもあんなに風通しがよくて、すぐに脱げてしまいそうな形をして……っ! 信じられません、宮坂さんは変態(へんたい)なのですか!? まさか、その下着を穿いて、横田の近くで女性に……!」

昭和19年の日本において、男性の下着といえば真っ白な褌、あるいは申又だ。そこに現れた現代の「紫のトランクス」は、一ノ瀬の目には、夜の街の不埒な男が女性を誘惑するために穿く、最高に淫らでエロティックな「勝負下着」にしか見えなかったのだ。

「ひっ……!」

宮坂は突然の猛抗議に動揺を隠せない。せっかく着替えた本物のカーキ色の軍服の襟元から、またしても頭から滝のような汗がブワッと噴き出した。左耳のピアスがパニックで小刻みに揺れる。

「ち、違う、誤解だ! これはユニクロ……あ、いや、現代の、普通のトランクスっていう規格の下着で、芸者遊びとかじゃなくて、ただの綿100%で通気性がいいだけで……っ(早口ボソボソ)」

「もう嫌ーーーっ!! 宮坂さんの大バカ者!!!」

一ノ瀬は宮坂の馬鹿正直な言い訳を耳まで真っ赤にして遮ると、洗濯カゴを放り出すようにして、文字通り脱兎(だっと)のごとく廊下の向こうへ走り去っていった。

静まり返った廊下。

宮坂は、憧れの四十年式医療嚢に手を当てたまま、顎から垂れる滝汗をぬぐって、ぽつりと呟いた。

「……はぁ。軍服を着てせっかく手順が整ったのに、下着の色だけでこんなに怒られるなんて……。やっぱり、女の子の気持ち(乙女心)は、僕にとって完全にマニュアル外の未知の領域すぎるな……」

せっかくの華やいだ気分は一瞬でツンデレの暴風雨に吹き飛ばされ、宮坂は本物の軍服を着たまま、昭和19年の生きづらさを改めて噛み締めるのだった。


「宮坂さん、その……褌(ふんどし)や、巻脚絆(ゲートル)の巻き方は分かりますか? よければ衛生兵の皆さんに教えてもらって……」

廊下で、まだ少し顔を赤らめた一ノ瀬が心配そうに声をかけてきた。

だが、宮坂祥平は、本物のカーキ色の九八式軍衣に身を包んだまま、床を見つめてボソボソと、しかし絶対的な自信を込めて呟いた。

「あ、いや……大丈夫です。越中褌の締め方も、ゲートルの巻き方も、ミリオタ……あ、いや、僕にとっては朝飯前ですから(早口ボソボソ)」

宮坂は物置部屋へ戻ると、ユニクロの紫のトランクスを脱ぎ捨て、支給された真っ白な越中褌を手に取った。ASDの彼にとって、手順が決まっている伝統的な着付けはむしろ心地よい。紐を腰に回し、布を股ぐらに通して前に垂らし、完璧な力加減でキュッと締める。

さらに圧巻だったのはゲートルだ。足首から膝下に向かって、均等な幅で、1ミリの緩みもなく螺旋状に布を巻き上げていく。末端の紐をきっちりと結び目が見えないように処理したその足元は、百戦錬磨のベテラン上等兵すら見惚れるほどの、狂気じみた美しさだった。

物置部屋から出てきた宮坂の、完璧すぎる軍服姿を見た衛生兵たちは「な、何という見事な脚絆の巻き方だ……! やはり大物特務将校に違いない……」と再び啞然として直立不動になった。

しかし、宮坂の視線はすでに、彼らのノートや病院の現状へと向いていた。

時は昭和19年。本土の食糧事情は悪化の一途をたどっており、陸軍病院といえども例外ではない。配給される米には夥しい量の外地米や雑穀が混ざり、副食は水のような薄い芋の味噌汁だけ。

宮坂のオタク脳と介護福祉士としての栄養知識が、床を見つめたままボソボソと回り始める。

(……今は戦時中で激しい食糧難だ。炊爨(すいさん)兵や主計係はメニューのやりくりが本当に大変だろうな。将兵たちのビタミンや栄養が偏って、これじゃあ褥瘡の肉芽組織(にくげそしき)の形成も遅れるし、脚気(かっけ)が再発する。……近くの藪や林に入れば、まだ誰も気づいていない山菜やキノコ、それにヘビやカエル、川魚なんかの動物性タンパク質がリサーチできるはずだ……)

宮坂は、ユニクロの白Tシャツから着替えたばかりのカーキ色の軍服の襟元を少し引っ張り、多汗症の汗をぬぐいながら、隣にいた一ノ瀬に思い切って声をかけた。

「あ、あの……一ノ瀬さん。もしよかったら、その、病院の裏山へ、食糧になる植物やタンパク質を、リサーチ……あ、いや、摘みに行きませんか。手順として、人手があったほうが捗るので……(ド緊張早口)」

人見知りの宮坂にとっては、これが人生で初めての「女の子を外に誘う」という限界突破の行動だった。

一ノ瀬は一瞬、目を見開いた。宮坂の茶髪と、左耳に揺れるシルバーのピアス、そして完璧に着こなされた軍服のギャップに、胸がトクンと跳ねる。

「……はい。喜んで、お手伝いします」

一ノ瀬は白い頬をポッと薔薇色に染め、嬉しそうに照れながら深く頷いた。

2人は竹籠を手に、陸軍病院の裏手にある鬱蒼とした藪の坂道を登っていった。

木漏れ日の中、宮坂は抜群の植物知識を活かし、「これは食べられる山菜です」「これは無毒のキノコです」と淡々と籠を満たしていく。作業に没頭している間はイライラも消え、宮坂の心はニコニコと華やいでいた。

坂道の途中で、一ノ瀬がふと足を止め、胸元で竹籠をぎゅっと抱きしめながら、宮坂の背中を見つめた。

「あの……宮坂さん」

「あ、はい……? 何か毒草でもありましたか?」

宮坂が汗を拭いながらボソボソと振り返ると、一ノ瀬は上目遣いで、どこか切なげで、でも本当に愛らしい瞳で彼を見つめていた。

「……私のこと、いつまで『一ノ瀬さん』って、苗字で呼ぶのですか? 私、いつも宮坂さんの汗を拭いているのに、なんだか他人のままで寂しいです。……できたら、私のこと、名前で呼んでくださらない?」

夕暮れの木漏れ日の中、彼女がずっと大切に持っていたハンカチと同じ、『桜(さくら)』という自分の名前を、彼女は恥ずかしそうに口にした。

「ひっ……!」

その瞬間、宮坂の脳内で、三八式歩兵銃の斉射のようなパニックが起きた。

せっかく乾いていたカーキ色の軍服の背中と額から、文字通り滝のような汗がブワッと噴き出す。左耳のピアスが激しく揺れた。

(な、名前!? 下の名前で呼ぶって、そんなの、21世紀のスナック愛ちゃんのデュエットでもやったことないのに……! 昭和の女の子の距離感の詰め方、マニュアルに書いてない……!!)

「あ、あの、さ、さく……あ、いや、手順として、その、呼び捨ては恥ずかしいというか、目のやり場が、ピクセルが……っ(だくだく滝汗)」

童貞で人見知りの宮坂は、真っ赤になって、籠のキノコを凝視しながら完全に挙動不審になっていた。

そんな彼の不器用な暴走と大汗を見て、一ノ瀬桜は、クスッと嬉しそうに、本当に愛おしそうに微笑むのだった。

食糧難の昭和19年の裏山で、宮坂の馬鹿正直な純情は、桜という名の可憐な花を、いっそう深く咲かせることになっていく。


「さ、さく……桜、さん……(ボソボソ)」

キノコの籠を凝視したまま、顔を耳の根元まで真っ赤に染め、滝のような汗を流してようやくそう呟いた宮坂祥平に、一ノ瀬桜は「はい!」と満面のひまわりのような笑顔を返してくれた。

人見知りの宮坂の心臓は三八式歩兵銃の連射なみにバックバクだったが、ひとたびリサーチ(採集)のルーティンに戻れば、彼のオタク脳は冷徹に機能し始める。

宮坂はカーキ色の衛生兵の軍服の袖をまくり、草むらに分け入っていった。

「桜さん、あそこに生えているのはオニグルミです。外皮は硬いですけど、中身は脂肪分とビタミンが豊富で、兵隊たちの貴重なカロリー源になります。それからその足元の山菜とキノコも籠へ……」

現代の植物図鑑の知識をフル活用し、またたく間に竹籠を山の恵みでいっぱいにシていく宮坂。だが、彼の鋭い目は、藪の奥で鎌首をもたげた「ある影」を見逃さなかった。三角形の頭に、独特の銭形模様。

(あ……マムシだ。最高級の動物性タンパク質(アミノ酸)だ!)

「ひっ……! 宮坂さん、蛇です! 危ないわ!」

桜が悲鳴を上げる。普通の現代人なら逃げ出すところだが、今の宮坂は「患者の栄養状態を改善し、褥瘡を治す」という介護福祉士のスイッチと、ミリオタの「南方自活知識」が完全にONになっていた。

「大丈夫です、手順ですから……っ(早口ボソボソ)」

宮坂は茶髪を振り乱し、左耳のピアスを揺らしながら、大汗をかいてマムシと真っ向から格闘し始めた。素早い手つきでマムシの首根っこを締め上げ、持っていた手ぬぐいで器用に縛り上げる。

そのあまりの野生児じみた手際の良さに、桜は宮坂へのときめきを通り越して、「……えぇ?」と少し引いていた。

「よし……。桜さん、これ、蒲焼き(かばやき)にしたらめちゃくちゃ美味しいですよ。滋養強壮に最高です」

満面のニコニコ笑顔でマムシを掲げる宮坂に、桜は引きつった笑みを浮かべて数歩後退りするしかなかった。


時間の感覚が、すでに麻痺していた。

自閉スペクトラム症(ASD)の宮坂祥平にとって、分刻みのルーティンが保障されない昭和19年の日々は、ただ混沌とした時間の濁流でしかなかった。数ヶ月の月日はあっという間に過ぎ去り、都内の陸軍病院を包む空気は、いつしか肌を刺すような冷たい冬の終わりへと変わっていた。

本物のカーキ色の九八式軍衣に身を包み、左耳のシルバーのピアスを小さく揺らしながら、宮坂はふと思う。

(……現在の戦況は、今どのくらい進んでいるんだ。サイパンはすでに落ち、硫黄島はどうなった。僕は、元の世界へ、あのアパートへいつ帰るのかな……)

その答えは、最悪の形で、夜空から降ってきた。

昭和20年3月10日。深夜0時8分。

「――宮坂さん、起きて!! 空襲よ!!」

物置部屋のドアが激しく叩かれ、桜(一ノ瀬看護婦)の悲鳴が響いた。

その瞬間、遠くの夜空の地平線から、地獄の底が鳴り響くような、重低音の地鳴りが耳条に押し寄せてきた。

「あ……ついに、来たんだ」

宮坂のオタク脳が瞬時に数値を弾き出す。マリアナ基地から発進した米国陸軍航空軍のB-29爆撃機・計325機。狙いは、ここ陸軍病院を含む東京の下町一帯。超低空・夜間無差別爆撃。

外へ飛び出した瞬間、宮坂の感覚過敏の網膜を、強烈な色彩が焼き切らんばかりに刺した。

夜空を埋め尽くすように交差する、高射砲の十四年式十糎高射砲の曳光弾(えいこうだん)。そしてその雲の隙間から、銀翼を不気味に輝かせたB-29の巨大な巨体が、爆音を轟かせて低空を蹂躙していく。ライトライトサイクロン式エンジンの、五臓六腑を直接掴んで揺さぶるような大轟音。

直後、ヒュロロロロロ……という、空気を切り裂く無数の金属音が降り注いだ。

「皆、伏せろぉッ!!」佐藤大佐の叫び声と同時に、病院の敷地内にE46集束焼夷弾が直撃した。

ガガガガガンッ!!!という凄まじい衝撃とともに外筒が破裂し、中から三十八本のM69焼夷弾が四方に飛び散る。着弾した瞬間、充填されていたナパーム剤(ゼリー状のガソリン)が強烈な白熱光を放って爆発し、木造の平屋病棟の屋根を、一瞬で生きた炎の生き物へと変えていった。

ツンと鼻を突くのは、クレゾールの匂いではない。髪の毛や皮膚が焼ける、鼻の奥が引きちぎれるような焦臭。そしてガソリンの生臭い匂いだ。

「うわああああっ!! 助けてくれ! 足が動かん!!」

「火を消せ! 負傷兵を搬出するんだ!」

病棟内は、一瞬で完全なるパニック(地獄)と化した。

飛び交う悲鳴。不規則に爆ぜる柱の音。床を揺らす爆風。

宮坂の脳内で、ヒューズが火花を散らして弾け飛んだ。スケジュールも、配置も、すべてが物理的に崩壊していく恐怖。

自律神経の嵐が爆発する。

まずは多汗だ。

焦熱の炎の熱気と、極限のパニックが重なり、軍服の内側からバケツをひっくり返したような汗がブワッと噴き出した。カーキ色の軍衣は一瞬で漆黒に染まるほど濡れそぼり、茶髪の先から顎へと、滝のような汗が床へ滴り落ちる。

「宮坂! 呆然とするな! 早く担架を――」

「う、うるさいッ!!!! 黙れッ!!! 話しかけるなと言っているだろッ!!!!」

宮坂は、目を血走らせて激しく怒鳴り散らした。脳のキャパシティが完全にパンクし、炎の嵐にルーティンをめちゃくちゃにされた恐怖からの、狂気的な叫びだった。周囲の衛生兵たちが恐怖で退く。

同時に、腹部に焼火箸を突っ込まれたような激痛。突発的な激しい下痢の波が襲う。お腹がゴロゴロと悲鳴を上げ、便意と激痛で立っていられない。さらに、過剰なストレスを拒絶しようと、脳がシステムを強制シャットダウンしにかかる――急激な解離症状による凄まじい眠気が視界を狭めていく。

(あ、ダメだ……。お腹が、痛い。頭が、眠い、意識が飛ぶ……。火が迫ってるのに、僕はまた、ここでパニックを起こして無駄死にするのか……!)

宮坂が煙の立ち込める床にうずくまり、白目を剥きかけた、その時。

「――祥平さん!!!」

煙の向こうから、割烹着を焦がした桜が飛び込んできて、宮坂のぐっしょりと濡れた軍服の袖を、命がけの力で強く、強く引っ張った。

桜はいつも持っている桜色のハンカチを井戸水で濡らし、宮坂の口元にギチギチに押し当てると、大汗をかく彼の頬を両手で包み込んだ。

「祥平さん、目を開けて!! 眠っちゃダメ!! 佐藤兵長も、大佐殿も、まだベッドの上で闘っています!! 私には……私には、あなたが必要なんです!!」

桜の涙が、宮坂の頬にぽたぽたと落ちた。

その水分と、彼女の叫びが、宮坂の脳のブレーカーを力ずくで叩き起こした。

(……そうだ。僕は、介護福祉士だ。置いた場所が変わったくらいで、火事でマニュアルが燃えたくらいで、目の前の利用者を、寝たきりの患者を見捨てて逃げる手順なんて……僕のマニュアルには、最初から無い!!)

カチリ、と、宮坂の脳内で、人生で一番強固な「介護プロスイッチ」がONになった。

「……桜さん、下がって。煙を吸わないように、床に這いつくばって。……これから、患者を、全員、手順通りに救出します」

宮坂はボソボソとした声に戻り、しかし据わった目で立ち上がった。

ハーフパンツ……いや、軍服のポケットからピチッと音を立てて「マイプラ手」をはめる。血液や汚物から身を守るための未来の盾。それを衛生兵たちにもパパパッと配り散らした。

「これをつけてください! 衣服が燃えている患者は素手で触ると皮膚が剥がれます! プラ手をはめて、僕の指示通りにボディメカニクスを使ってください! 2人1組で、患者の脇と膝裏を固定、せーので引きます! 焦るな、落ち着け、手順通りにやれば全員助かる!!」

圧倒的なプロのオーラ。宮坂は大汗をかき、お腹の激痛を噛み締めながら、炎の渦巻く病棟へ飛び込んでいった。

自力で動けない佐藤兵長を、シーツごと包み込んで一瞬で抱き抱える(シーツ移乗)。

「う、うむ……宮坂殿……!」

「静かに。舌を噛まないように。手順ですから」

次々に指示を出し、衛生兵たちをコントロールしていく宮坂。火の粉が茶髪を焦がし、ピアスが熱を帯びるが、彼の無駄のない介護技術は、炎の中の陸軍病院において「生存率を叩き出す最強の武器」と化していた。

「おい宮坂殿! 裏手が崩落するぞ!」

担架に拘束された佐藤大佐が叫ぶ。宮坂のミリオタ脳が、建物の構造と燃焼速度を瞬時に計算した。

「大佐、大丈夫です。ここの梁は赤松の芯材だ、あと3分は崩落しません。その隙に、左の勝手口から脱出します!」

炎を上げ、崩れ落ちていく昭和19年の都内陸軍病院。

宮坂は多汗、怒鳴るパニック、下痢、眠気というASDの生きづらさのすべてを引きずりながら、ボロボロになりながらも、現代の介護技術という名の仁義を貫き、兵隊たちを次々に火の海から救い出していく。

その姿は、大火災の地獄の空の下で、誰よりも神々しく、そして泥臭く輝いていた――。


夜が明けた。

だが、昭和20年3月10日の東京の朝には、太陽の光は届かなかった。空を覆い尽くす黒い煤煙と、いまだ燻り続ける炎の熱気が、街全体をどす黒い地獄の底へと閉じ込めていた。

都内の陸軍病院は、完全に全焼していた。

さっきまで木造の美しい梁を誇っていた病棟は、漆黒の炭となって瓦礫の山と化し、煙が立ち上るコンクリートの基礎だけが、無惨に剥き出しになっていた。

宮坂祥平は、上野公園の焼け出された避難民の群れの中で、へなへなと地面に座り込んでいた。

本物のカーキ色の軍服は、泥と脂、そして消火活動の泥水で漆黒に汚れ、ユニクロの白Tシャツ以上にボロボロに引き裂かれていた。頭の先から顎へと、多汗症の汗と涙が混ざり合った雫が、ポタポタと灰の地面に滴り落ちる。左耳のピアスが、朝の不気味な薄暗がりの中で、悲しく鈍い光を放っていた。

「……助けられなかった。手順通りにやったのに、全員は、無理だった……」

宮坂は膝を抱え、床……いや、地面の泥を睨みつけながら、消え入るようなボソボソ声で絶望を吐き出した。

あの炎の嵐の中、宮坂は介護福祉士のプライドのすべてを賭けて、プラ手をはめた両手で患者を担ぎ、指示を出し続けた。だが、現代の機材も物資もない昭和19年の木造平屋は、M69焼夷弾のナパーム剤の爆発力(焦熱)の前に、あまりにも脆すぎたのだ。

全員の患者を助けることは出来なかった。

火回りが早すぎた奥の病棟の何十人もの寝たきりの将兵たちは、煙に巻かれ、瓦礫の下敷きとなって、病院と運命を共にした。

さらに、宮坂の指示に従って命がけでシーツ移乗を繰り返していた、あのノートを片手に熱心に介護技術を学んでいた若い衛生兵たちの中にも、崩落する梁の下敷きになり、複数の犠牲者が出てしまった。

「我が連隊の、生き残りの将兵たちが……また、私の目の前で、ジャングルではなくこの帝都の炎の中で散っていった……」

避難民の喧騒の片隅で、担架に横たわった佐藤大佐は、完全に項垂(うなだ)れていた。ニューギニア戦線の地獄を生き抜いたあの眼光は完全に光を失い、浅黒い顔を涙で濡らしている。宮坂が命がけで床ずれの肉芽を守った佐藤兵長も、その隣で、包帯を焦がしたまま、声を上げて嗚咽していた。誇り高き帝国軍人たちのプライドは、アメリカの圧倒的な物資と炎の前に、文字通り灰となって打ち砕かれていた。

宮坂の脳内で、自己嫌悪とパニックが再び渦を巻く。

(僕がもっと早く動いていれば。僕がもっと完璧な避難マニュアル(手順)を組んでいれば、あの衛生兵たちも、ベッドの兵隊たちも死なさずに済んだのに。やっぱり僕はダメだ。どこに行っても、大切な手順を失敗して、みんなを巻き込んで……)

「――祥平さん」

冷え切った左耳のピアスに、ふわりと温かい、小さな指先が触れた。

顔を上げると、そこに桜(一ノ瀬看護婦)が立っていた。

彼女の白い割烹着は煤で真っ黒に汚れ、美しい髪は乱れ、顔中に灰がついている。だが、その瞳だけは、絶望の地獄の中でも、宮坂だけを真っ直ぐに見つめていた。

桜は宮坂の前にぽたぽたと涙を滲ませながらしゃがみ込むと、いつも持っていた、あのボロボロに焦げた桜色のハンカチで、宮坂の顔中の大汗と涙を、本当に丁寧に、優しく拭い始めた。

「祥平さん……自分を責めないでください。あなたのせいじゃありません」

「でも、桜さん……僕は、僕の手順は完璧じゃなかった。衛生兵たちも、僕の指示を聞いたせいで……(ボソボソ)」

宮坂は人見知りと情けなさで顔を背けようとしたが、桜はその泥まみれの軍服の胸元を、ぎゅっと両手で力強く掴んだ。彼女の目から、大粒の涙が滲み出し、宮坂のユニクロの白Tシャツが覗く襟元へと落ちていく。

「違います! 宮坂さんがいなかったら、大佐殿も、佐藤兵長も、私だってあの炎の中で炭になっていました! 誰も近づけなかった汚物の中に飛び込んで、あの人たちの尊厳を守って、最期まで『生きろ』って泥を這うような仁義を見せてくれたのは、あなたです!」

桜は宮坂の腫れ上がった左頬に、そっと自分の額を寄せた。彼女の激しい鼓動と、涙の温もりがダイレクトに伝わってくる。

「私は……私は、あなたが茶髪でも、ピアスをしていても、変な下着を穿いていても、すぐに大汗をかいて怒鳴って、お腹を壊して眠っちゃう不器用な人でも、構いません。……あなたが、私を『桜』って呼んでくれたあの瞬間から、私の命は、あなたのものです。だから……お願いだから、そんなに悲しい顔をしないで、祥平さん……っ」

夕闇のような黒い煙が立ち込める上野公園の片隅で、昭和の美しき看護婦は、周囲の目を一切気にせず、現代の生きづらさを抱えた男の身体を、壊れ物を抱きしめるように強く、強く抱きしめて号泣した。

宮坂は、ポケットの中でクシャクシャになったマイプラ手を握りしめながら、桜の背中にそっと手を回した。

現代の老人ホームでは、一つの失敗で全てを否定され、誰にも理解されず、「話しかけづらい奴」として孤立していた。

だが、この全てが燃え尽きた地獄の戦時中において――自分の最も情けないパニックも、下痢も、失敗も全てを知った上で、「あなたが必要だ」と泣いてくれる、かけがえのない絶対的な光(桜)が、確かにここにいた。

(あぁ……世界はどこに行っても生きづらい。……だけど、この人がいてくれるなら、僕はもう一度、手順を組み立てられるかもしれない)

焦熱の空の下、項垂れる軍人たちと、涙を流して抱き合う二人。

陸軍病院は消滅した。しかし、宮坂祥平が貫いた介護福祉士としての「仁義」と、桜さんとの「純愛」の絆は、昭和20年の絶望の淵で、決して消えない確かな灯火として、強く激しく輝き続けるのだった。

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