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第二章:乙女心は未知の領域

「退け! 俺を前線へ戻せ! 我が歩兵第〇連隊の英霊たちが、まだあのジャングルで待っているのだ!」

血塗れの担架の上で暴れる大佐の叫びは、悲痛であり、同時に凄まじい威圧感を放っていた。

彼は南方の地獄――東部ニューギニア戦線から、激しい負傷と戦傷病により奇跡的に本土へ後送されてきた連隊長だった。衣服はボロボロに引き裂かれ、マラリアの高熱で浅黒い肌はガリガリに削げ落ちている。自力では満足に身体を動かせない状態であるにもかかわらず、そのプライドは凄まじく、近づこうとする衛生兵たちを「無礼者!」と怒鳴り散らして拒絶していた。

ユニクロの白いTシャツの袖をまくり、茶髪を揺らした宮坂祥平は、だくだくと汗をかきながら、床の木目をじっと見つめたまま大佐の前に進み出た。左耳のピアスが、病棟の緊張感の中で冷たく光る。

人見知りの宮坂は、大佐の恐ろしい眼光と目が合わせられない。しかし、彼のオタク脳と介護士としての目が、大佐の身体と、その背負ってきた戦史を瞬時に「診察」していた。

「あ、あの……その、暴れないでください。お尻の、仙骨の皮めくれてます。今、体位変換して圧を抜かないと、皮膚組織が壊死しますから……(ボソボソ)」

「貴様ッ! その茶髪に耳飾りという不届き極まる格好は何だ! 下がれ、スパイめ!」

大佐が怒鳴り声を上げるが、宮坂は床を見つめたまま、急にギチギチと据わった目で、狂気じみた早口のボソボソ声を響かせ始めた。

「……東部ニューギニア、サラワケット越えですね。……米豪軍の圧倒的な物資、M3軽戦車やラバウルから飛来するP-38ライトニングの執拗な低空機銃掃射の恐怖は分かります。……でも、あなたの部隊が壊滅しかけた本当の理由は、十四年式拳銃や三八式歩兵銃の火力不足じゃない。米軍の『リープフロッグ(蛙飛び)戦術』によって補給線を完全に断たれ、サラワケット山の標高4,000メートルの極寒の中、ジャングル特有のツツガムシ病や、凄惨な飢餓に襲われたからです。……九九式小銃の弾薬を運ぶ余力すらなく、泥水をすすり、野草を齧って、生き残ったのが奇跡なのは分かります……」

病棟の空気が、一瞬で凍りついた。

ニューギニアの最前線における地獄のような環境、米軍の具体的な戦術名、さらには現地の病気や標高のディテールまでを、東京の病院にいるはずの、この奇妙な男が完璧に言い当てたのだ。

「き、貴様……なぜそれを……大本営の極秘参謀か……!?」

大佐が戦慄して言葉を失う。軍医も衛生兵たちも、あまりのディテールの細かさに唖然として宮坂を見つめていた。

当時、昭和19年。日本の敗色がいかに濃厚であろうとも、「日本が負ける」などと口にすれば、即座に国家反逆罪で憲兵に処刑される時代だ。宮坂はASDの特性で空気を読まないが、読書で培った時代背景への配慮は完璧だった。彼は「負ける」という言葉は、絶対に口にしなかった。

「……僕は、帝国陸軍が負けるなんて一言も言っていません。ただ、大佐、あなたがここで褥瘡の敗血症で無駄死にしたら、あなたがサラワケット山系に残してきた、あの九四式山砲の重い砲身を命がけで担いで散っていった部下たちの仁義はどうなるんですか。……生き残った連隊長として、まずは身体のケアを受け入れるのが、あっちにいる兵隊さんたちへの『筋道』じゃないんですか……」

「……う、うむ……ッ!」

大佐の目から、大粒の涙が溢れ落ちた。宮坂の圧倒的な陸軍知識と、兵士の痛みを理解する言葉に、プライドの塊だった大佐は完全に屈服したのだ。

「分かった……貴様の言う通りにしよう。我が連隊の戦いを、そこまで深く理解してくれている者がいたとは……」

大佐は大人しくなり、宮坂の手による2時間おきの的確な体位変換と、下の世話を受け入れるようになった。軍医や衛生兵たちは、この「奇跡の説得」の光景に、ただただ唖然とするしかなかった。

その日の夕方。

大佐のケアを終え、裏手の井戸端で大汗をかいたユニクロの白Tシャツを乾かしている宮坂の元へ、一ノ瀬がそっと歩み寄ってきた。彼女の瞳には、昼間の宮坂の姿への深い畏敬と、そして隠しきれない、個人的なときめきが宿っていた。

「宮坂さん……本当に、あなたというお方は底が知れません」

一ノ瀬は顔を少し赤くしながら、宮坂の跳ねた茶髪を見つめ、思い切ったように尋ねた。

「あの……宮坂さん。失礼でなければ、おいくつなのですか?」

「あ、ええと、30歳です……」

宮坂は一ノ瀬の綺麗な顔から目を逸らし、耳元のピアスを触りながらボソボソと答えた。

「三十……! まあ、そんなにお若くして、あのような深いお覚悟を……」

一ノ瀬は感嘆の息を漏らし、さらに声を潜めて、じっと宮坂の横顔を見つめた。

「その……お若くてそれほど優秀な宮坂さんですもの、やはり、横田の近くのご自宅には、お綺麗な御一髪(奥様)がいらっしゃるのですか?」

「あ、いや! 僕は……その、独身です」

宮坂はド緊張のあまり、頭からさらに汗を噴き出させながら、馬鹿正直に続けた。

「……ずっと独身で、東京の、壁の薄いボロアパートに1人で住んでます。家賃安いですし、独り身の方が古本を溜め込むのに便利ですから……」

(あぱーと……?)

一ノ瀬の頭の中で、またしても大正・昭和の知識がフル回転した。アパートメントという言葉の意味は正確には分からなかったが、彼女の耳に、もっとも鮮烈に飛び込んできたのは別の単語だった。

(独身……!)

「あ、そうなのですね……」

一ノ瀬の唇が、ふわりと綻んだ。彼女は宮坂に気づかれないよう、畳んだシーツの影で、嬉しそうに、本当に愛らしく、静かに微笑んだ。

大本営の秘密を握る若き天才特務将校が、まさか「独身」であったとは。

夕暮れに染まる陸軍病院の裏手で、多汗症の汗をぬぐう茶髪の介護福祉士と、恋心を自覚して微笑む昭和の美しき看護婦。二人の心の距離は、ニューギニアの地獄を乗り越えた病院の片隅で、確実に縮まりつつあった。


宮坂祥平の精神状態は、ここ数日、限界に達しつつあった。

自閉スペクトラム症(ASD)の彼にとって、一日の終わりに自宅のユニットバスで熱いシャワーを浴びる、あるいは浴槽に浸かるという「入浴のルーティン」は、荒ぶる神経を鎮めるための絶対的な儀式だった。それがこの昭和19年の陸軍病院では、まともな風呂にも入れず、スケジュール通りにいかない日々が続いている。そのストレスで、彼の脳内にはうっすらとイライラのトゲが立ち始めていた。

追い打ちをかけるように、本日の業務は病棟の裏手にある「汚い汲み取り式トイレの清掃」だった。現代の清潔な水洗トイレとは比較にならない、五感を破壊するような激烈な悪臭と不潔さ。宮坂は大量のマイプラ手を惜しみなく投入し、淡々と、完璧に手順通りに清掃をこなしたものの、感覚過敏の彼は心の中で今にも叫び出したい気分だった。

「あー……ダメだ、気持ち悪すぎる。ルーティンを執行しないと頭がおかしくなる」

限界を迎えた宮坂は、薄暗くなった夕暮れの井戸端へ直行した。誰もいないことを確認すると、ユニクロの白いTシャツも、黒のハーフパンツも全て脱ぎ捨て、完全なる全裸(フルチン)になった。

冷たい井戸水をたらいに汲み、固形石鹸をゴシゴシと泡立てて、茶髪の頭から身体までを一気に洗い流していく。冷たい水圧が、トイレ清掃の不快感を物理的に洗い流してくれる。左耳のピアスに泡が引っかかるのも気にせず、彼は無心で身体を清めた。

ふう、と息を吐き、手拭いで濡れた頭を拭こうとした、その瞬間だった。

「――宮坂さん」

背後からかかった鈴を転がすような声に、宮坂の全身の毛穴がキュッと縮んだ。振り返ると、そこには顔を真っ赤に染め、両手で小さな手ぬぐいを握りしめた一ノ瀬が立っていた。

「ひっ……!」

宮坂は心臓が口から飛び出そうになり、せっかく冷水で冷やした身体から、一瞬で滝のような汗が噴き出した。人見知りで独身、女性とまともに話したこともない男が、今、絶世の美女の前で一物も隠さぬ完全なフルチンである。あまりのパニックに、前を隠すことすら忘れて床の泥を見つめ、大汗をかきながらボソボソと早口で呟く。

「あ、い、一ノ瀬さん、なんで、あの、今ルーティン中で、服を着てないというか、あの、見ないでください、汗が止まらなくなるので……っ」

しかし、一ノ瀬の覚悟は宮坂の想像を遥かに超えていた。彼女は自身の妄想(宮坂は大本営直属の極秘特務将校)と、昼間の彼の熱い仁義に完全に心を奪われている。昭和の奥ゆかしい女性が、男の全裸の前に立つ。それがどれほどの決意か、宮坂に分かるはずもなかった。

一ノ瀬は震える足で宮坂の背後に回ると、濡れた手ぬぐいを彼の背中にそっと当てた。

「お、背中……流します。いつもお一人で、誰も見ていないところで、汚いお仕事まで完璧にこなされて……。宮坂さん、私にできることなら、何でもお手伝いしたいんです」

一ノ瀬の白く繊細な手が、手ぬぐい越しに宮坂の背中を優しく、丁寧に撫でていく。背中に伝わる彼女の体温と、すぐ近くから聞こえる激しい鼓動。宮坂は緊張のあまり気絶しそうになりながら、顎からポタポタと滝汗を地面に垂らしていた。

背中を洗い終えた一ノ瀬は、赤くなった顔を伏せたまま、震える声で宮坂に問いかけた。

「宮坂さん……私に、何かお望みなどはありますか? あなたのために、私ができることなら、何でも言ってください……」

それは、昭和の乙女が精一杯の恋心を込めて放った、事実上の「愛の告白」であり「私はあなたのものです」という究極の問いかけだった。

だが、宮坂祥平はどこまでもASDであり、嘘のつけない馬鹿正直な現代の男だった。彼はパニックとイライラが混ざった脳内で、その問いかけを「今一番求めている物理的な要求」として処理し、床を見つめたままボソボソと直球で答えてしまった。

「あ、いや……それなら、タバコが吸いたいなって……。夜勤明けにいつもキャメル吸うのがルーティンなんですけど、ここに来てから一本も吸えてなくて、ニコチンが切れてイライラするんで……タバコが欲しいです」

「…………え?」

一ノ瀬の動きがピタリと止まった。

宮坂の背中で、彼女の手ぬぐいが微かに震える。一ノ瀬は完全に絶句していた。自分の命がけの覚悟と乙女の純情を差し出した結果、返ってきた言葉が「タバコが吸いたい」である。

「あ、あの、一ノ瀬さん……?」

宮坂がおそるおそる振り返ろうとした瞬間、一ノ瀬は手ぬぐいを放り出し、怒りで肩を激しく震わせながら、スタスタと物凄い足取りで病棟の闇へと去っていってしまった。

「え? なんで……? 僕、何か間違った手順踏んだかな……」

宮坂はフルチンのまま、大汗をかいて首を傾げた。

それから数分後、宮坂がようやくハーフパンツを穿き終えた頃、暗闇から再び激しい足音が近づいてきた。現れた一ノ瀬は、般若のような凄まじい怒りの表情(エクスプレッション)で宮坂をキッと睨みつけていた。

「――っ、これでも吸っていればいいんですバカ!!」

一ノ瀬は宮坂の胸元に向けて、何かを勢いよく投げつけた。

宮坂が慌てて両手でキャッチしたのは、小さな木箱のマッチと、当時、一般の兵隊では逆立ちしても手に入らない、恩賜の煙草に次ぐ高級銘柄『ほまれ(誉)』のパッケージだった。一ノ瀬が宮坂のために、必死の思いで特権ルートから工面してきたものに違いなかった。

「あ、ありがとうございます……」

宮坂がボソボソと言うと、一ノ瀬は「フンッ!」と激しくそっぽを向き、再び猛烈な勢いで立ち去っていった。怒っているのに、彼の望みを完璧に叶えてくれるという、極限状態のツンデレである。

残された宮坂は、左耳のピアスをいじりながら、ほまれの箱を見つめてポツリと呟いた。

「……やっぱり、僕には女の子の気持ち(乙女心)っていうのは、未知の領域すぎるな……」

昭和19年の夜空の下、宮坂はマッチを擦り、高級タバコ『ほまれ』に火をつけた。キャメルとは違う、少し酸味のある日本煙草の煙が肺を満たしていく。

彼の現代の当たり前と馬鹿正直さは、ついに病院一の美人の心を、怒りと恋心でぐちゃぐちゃにかき乱すことに成功したのだった。


高級タバコ『ほまれ』を2本続けて吸い終える頃には、ニコチンが脳に染み渡り、宮坂祥平のイライラはすっかりと落ち着いていた。

夜風に揺れる茶髪を指でいじり、左耳のピアスを触りながら、宮坂はふと思う。

「……タバコを吸ったら、今度は久しぶりに、キンキンに冷えた日本酒か、あるいは重厚なスコッチでも飲みたいな……」

現代のワンオペ夜勤明けなら、コンビニでサクッと酒とつまみを買ってアパートで一人晩酌ができる。そんな当たり前の日常に思いを馳せながら、宮坂は病院の片隅に割り当てられた自分の物置部屋へ戻ろうとした。

その時、薄暗い廊下の向こうで、初老の軍医と一ノ瀬が何やら深刻な顔で話し合っているのが見えた。

人見知りの宮坂は、本来なら他人の会話に割り込むようなことは絶対にしない。しかし、ほまれの煙で脳が緩み、入浴ルーティンが崩れた解放感も手伝って、彼は2人の前を通り過ぎる瞬間に、思ったことをストレートに口からこぼしてしまった。

「あ、すいません……たまには、一杯やりたいな……(ボソボソ)」

「……え?」

軍医と一ノ瀬が同時に振り返り、目を丸くした。

その瞬間、宮坂は「あ、しまった」と猛烈に後悔した。脳の過敏さが一気に冷める。今は物資が底を尽きかけ、誰もが贅沢を我慢してお国のために耐え忍んでいる昭和19年の戦時中なのだ。「酒を飲みたい」などという軟弱な発言は、非国民として憲兵に突き出されても文句は言えない。

宮坂はユニクロの白Tシャツの襟元を引っ張り、滝のように冷や汗をかきながら「あ、いや、手順違いです、忘れてください……」と早口で呟き、自分の物置部屋へ逃げ込んだ。

しかし、宮坂祥平という男の「病院内での価値」は、彼自身が思っているよりも遥かに高かった。

しばらくして、物置部屋の古びた木のドアが静かに開いた。

入ってきたのは、一ノ瀬だった。彼女の両手には、お盆が抱えられている。そこに乗っていたのは、当時の日本では一般人が拝むことすら不可能な、琥珀色に輝くスコッチ・ウイスキーのボトルとグラス、そして貴重な大根の塩漬けと、炙ったスルメだった。

「宮坂さん……これ、軍医殿からです。『佐藤大佐を救ってくれた宮坂殿への、せめてもの感謝のしるしだ』とおっしゃって、秘蔵の品を分けてくださいました」

一ノ瀬はまだ少し怒ったようなツンとした表情を崩していなかったが、その頬は夕焼けのように赤い。彼女は宮坂の前に座ると、見たこともない洋酒のボトルを恐る恐る傾け、慣れない手つきで井戸水を使って水割りを作り始めた。

「……お酒は、お好きなのですか?」

一ノ瀬が手渡してきたグラスから、スコッチの独特なピートの香りがふわりと立ち上る。

「あ、ありがとうございます……」

宮坂は一ノ瀬と目を合わせられないままグラスを受け取り、一口含む。喉を焼くアルコールの熱さが、夜勤明けの疲れた身体に劇的に回っていく。

空腹の身体にアルコールが直撃し、宮坂は一瞬で心地よい「ほろ酔い」の状態になってしまった。脳のブレーキが完全に外れ、現代の感覚が呼び覚まされる。

「お酒は好きなのですか?」という一ノ瀬の健気な質問に対し、宮坂はだくだくと汗をかきながら、どストレートに馬鹿正直な本音をぶちまけてしまった。

「うん……アパートの近くに行きつけのスナックがあるんだ。そこの愛ちゃんと一緒に、デュエットをするのが楽しくてね……」

それは、21世紀の日本において、30代の独身男性介護福祉士が、休日のささやかな娯楽としてスナックのママや常連の女の子とカラオケを歌うという、ただの他愛のない日常の風景だった。

しかし、一ノ瀬の脳内は、その瞬間、凄まじい大爆発を起こした。

(スナック……!? 愛ちゃん……!? デュエット……!?)

言葉の意味は正確には分からない。しかし、一ノ瀬の優れた直感が、それが「夜の街の、妖艶な大人の男女の密め事」であることを瞬時に理解した。

横田の極秘基地の近くには、自分など足元にも及ばないような、宮坂さんの心を妖しく狂わせる『愛ちゃん』という名前の、洗練された都会の女がいる。自分は命がけで軍医に頭を下げて、この人のためにスコッチを工面してきたというのに、この男は別の女と声を合わせて唄をうたう、そんな不埒な行為を楽しんでいる――。

「――宮坂さん」

「え? あ、は……」

宮坂がボソボソと聞き返そうと顔を上げた、次の瞬間だった。

パァァァァンッ!!!

物置部屋の静寂を切り裂く、乾いた、そして尋常ではない破壊力の破裂音。

宮坂の視界がグニャリと歪んだ。生まれて初めて体験する、女性からの強烈な全力のビンタ。

衝撃で宮坂の茶髪が大きく跳ね、左耳のピアスが激しく揺れる。鼻の奥がツンとしたかと思うと、宮坂の鼻から、たらりと赤い鼻血が流れ落ち、ユニクロの無地の白いTシャツに点々とシミを作った。

「あ……」

宮坂が鼻を押さえて呆然とする中、一ノ瀬は涙で目をボロボロに濡らし、般若をも超えた絶望と怒りの表情(エクスプレッション)で宮坂をキッと睨みつけた。

「宮坂さんの、大バカ者ーーーっ!!」

一ノ瀬は叫ぶと、弾かれたように立ち上がり、部屋の木製ドアをまるで大地震でも起きたかのような凄まじい勢い(ドンッ!!!)で叩き閉めて、走り去っていった。

静まり返った物置部屋。

手元には、一ノ瀬が作ってくれたスコッチの水割り。鼻からは、止まらない鼻血。

宮坂はハーフパンツのポケットからマイプラ手を取り出し、それをティッシュ代わりに鼻に詰めながら、ぽつりと天井の梁を見つめて呟いた。

「……はぁ。やっぱり、戦時中も現代も……僕にとっては、世界は生きづらいな……」

ASDの特性ゆえに、いつだって良かれと思って真実を口にし、そのたびに周囲を混乱させてしまう。

昭和19年の都内の陸軍病院の夜は、スコッチの苦味と、消えないビンタの熱さ、そして未知の領域すぎる乙女心の難解さを残して、静かに更けていくのだった。


翌朝、宮坂祥平の左頬はうっすらと赤く腫れ上がり、鼻の頭には昨夜のビンタの痛烈な余韻が残っていた。

しかし、ASDの彼にとって、プライベートの修羅場と業務のルーティンは完全に別物だ。彼はユニクロの白いTシャツに黒のハーフパンツ、左耳のピアスを小さく揺らしながら、いつも通りポケットからマイプラ手をピチッとはめ、南方戦線帰りの佐藤大佐のベッドへ向かった。

自力で身体を動かせない大佐のために、2時間おきの的確な体位変換を行い、汗ばんだ身体を熱い手ぬぐいで手際よく拭い上げていく。

「……うむ、宮坂殿、いつもかたじけない。しかし、その顔の傷はどうした? 憲兵の夜襲でも受けたか?」

大佐が怪訝そうに尋ねるが、人見知りの宮坂は床を見つめたまま、「あ、いえ……ちょっと手順を間違えまして(ボソボソ)」とだけ答え、大佐の着替えと清拭を完璧に終わらせた。

大佐のケアを終えた宮坂は、そのまま裏手の炊飯場(すいはんば)の手伝いへと向かった。

巨大な平釜から立ち上る米の湯気と薪の煙に巻かれながら、大量の芋の皮を剥き、薪を運ぶ。現代の介護現場でも調理や雑務は日常茶飯事だが、昭和19年の薪を使った炊飯作業は、多汗症の宮坂にとって地獄の暑さだった。頭からも脇からも滝のような汗が吹き出し、ユニクロの白Tシャツはすっかりぐっしょりと色が変わっている。

ようやく午前中の作業が一段落し、宮坂は炊飯場の裏口の影で、一ノ瀬からもらった高級タバコ『ほまれ』に火をつけた。

ふう、と紫煙を吹かして一服する。ニコチンが脳を満たしていく中、宮坂はふと現代の感覚でボソボソと呟いた。

「……あー、疲れた。ここの『公休(こうきゅう)』はいつなんだろうな。週休二日制じゃないと、シフトがキツすぎる……」

当時は「欲しがりません勝つまでは」の時代であり、軍の病院に完全な休日などという概念は希薄だ。宮坂がそんな贅沢なボヤキを漏らした、その時だった。

ザッ、と激しく砂利を踏む足音。

「――宮坂さん」

振り返ると、そこにはお盆を胸に抱えた一ノ瀬が立っていた。彼女の美しい顔は怒りと、そして言葉にできないほどの深い悲しみで歪んでおり、その瞳にはうっすらと涙が滲んでいた。宮坂を射殺さんばかりの鋭い眼光でキッと睨みつける。

「ひっ……!」

宮坂は心臓が止まりそうになり、茶髪の先からまた新しい汗がポタポタと滴り落ちた。

一ノ瀬は一歩、また一歩と宮坂に詰め寄り、震える声で言った。

「……宮坂さんは、あんなに兵隊さんたちに優しくて、大本営の秘密を握るほどの高貴なお方なのに……裏では、そんな風に『芸者(げいしゃ)遊び』をする男だったんですね」

(げいしゃ……?)

宮坂が困惑していると、一ノ瀬の脳内フル回転による誤解の弾丸が、涙とともに次々に放たれた。

「スナック愛ちゃん……新橋や赤坂の高級料亭の裏で、そんな名前を騙る妖艶な芸者たちを囲って、お酒を飲んで声を合わせて唄をうたう(デュエット)……。軍人の高官は皆、裏ではそのように破廉恥な贅沢をしているのですか!? 私……信じられませんっ!!」

一ノ瀬にとって、宮坂は「自分を飾らない、泥臭くて崇高な天才将校」だった。だからこそ、彼が都会の夜の街で別の女(愛ちゃんという芸者)と浮名を流しているという現実が、悲しくて、悔しくて、胸が張り裂けそうだったのだ。

一ノ瀬の涙を見て、人見知りの宮坂は完全にパニックに陥った。

芸者遊び? 軍の高官? スナックの愛ちゃんはただの50代の気さくなママだし、自分はただのしがない介護福祉士だ。何より、一ノ瀬の「大いなる大誤解」を解かなければ、また昨夜のような大惨事(ビンタ)になる。

嘘がつけず、極限まで追い詰められた宮坂は、パニックのあまり、時代背景も、自分のプライドも、人見知りの性格すらも全てブッ飛ばし――自身の最大の秘密を、炊飯場に響き渡るような凄まじい大声でぶちまけてしまった。

「違う!!! 僕は違う!!! 恥ずかしいけれど、僕は『童貞(どうてい)』だ!!!!」

「…………えっ?」

静まり返る炊飯場。

薪の爆ぜるパチパチという音だけが響く中、宮坂の「童貞宣言」がこだました。

宮坂は顔を耳の根元まで真っ赤に染め、ユニクロの白Tシャツを両手で握りしめながら、顎から滝のような汗を流してハァハァと息を切らせていた。

30歳、独身、介護福祉士。行きつけのスナックで歌うのが関の山で、女性と付き合ったことなど人生で一度もない。そのあまりに情けなく、あまりに馬鹿正直な「真実」の弾丸が、一ノ瀬の胸の真ん中に直撃した。

「あ……」

叫んだ直後、宮坂は頭を抱えた。

(またやってしまった……。なんで僕は、昭和19年の陸軍病院のど真ん中で、こんな恥ずかしいことを大声で言ってるんだ……!)

一方の一ノ瀬は、完全にフリーズしていた。

大本営の天才将校、未来の特務機関のエリート、冷徹な医療のプロ。その男が、今、顔を真っ赤にして、大汗をかきながら、自分は女性を一切知らない「童貞」であると叫んでいる。

「ど、どうてい……」

一ノ瀬はその言葉の意味(純潔であること)を理解した瞬間、怒りで赤かったのとは全く違う、爆発するような熱い赤みが彼女の白い頬を染め上げた。

「あ、あの……宮坂さん、その、つまり、愛ちゃんというのは、その……」

「ただのスナックのママです……(ボソボソ)」

宮坂は急に元の人見知りに戻り、床を見つめて消え入るような声で呟いた。

一ノ瀬は、胸元のお盆をぎゅっと抱きしめ、真っ赤になった顔を隠すように俯いた。

都会の女に惑わされているどころか、この人はまだ、誰も知らない綺麗な身体のままだったのだ。そう気づいた瞬間、彼女の胸の奥から、言葉にできないほどの愛おしさと安堵感が、じわじわと湧き上がってきた。

「も、もう! 宮坂さんは、本当に大バカ者です……!」

一ノ瀬はツンとそっぽを向いたが、その唇の端は、隠しきれない喜びで嬉しそうに、小さく微笑んでいた。

夕暮れの炊飯場の裏手。

大汗をかいて自己嫌悪に陥る茶髪ピアスの男と、彼の純情を知って密かに胸をときめかせる昭和の看護婦。

宮坂の馬鹿正直な暴走は、生きづらい世界の中で、一ノ瀬さんのハートを今度こそ完全に、撃ち抜いてしまったのだった。



崩壊


「童貞宣言」という最悪で最高の暴走を経て、一ノ瀬との冷戦は一応の終結を迎えた。一ノ瀬の態度はツンツンしながらも、どこか宮坂のすべてを受け入れるような、深い優しさを孕んだものへと変わっていた。

だが、宮坂祥平の「生きづらさ」の本質は、そんなラブコメめいた状況で解決するほど甘いものではなかった。

翌日。陸軍病院の病棟は、前線からの負傷兵のさらなる増加によって、完全にキャパシティを超えていた。

飛び交う阿鼻叫喚の怒号。クレゾールの匂いを超えて鼻腔を麻痺させる、傷口が腐った激烈な悪臭。バタバタと板張りの廊下を駆ける衛生兵たちの不規則な足音。

自閉スペクトラム症(ASD)の宮坂にとって、この「予期せぬスケジュールの崩壊」と「五感を襲う過剰な刺激(感覚過敏)」の嵐は、脳のヒューズを強制的に焼き切らんばかりの、目に見えない拷問だった。



「宮坂! 早くしろ! 第2病棟の負傷兵が再び喀血(かっけつ)した! 酸素も薬もない、とにかくお前が早く来てくれ!」

「宮坂さん! 包帯のストックがどこにあるか分かりません!」

矢継ぎ早に浴びせられる軍医や衛生兵たちの怒号。病棟の板張りの床を、軍靴が不規則に、ドタドタと無遠慮に踏み鳴らす音が、宮坂の鼓膜を直接針で刺すように襲う。

予期せぬスケジュールの崩壊と、感覚過敏の許容量を遥かに超えた情報量の嵐。宮坂の頭の芯が、ジリジリと焦げ付くような音を立て始める。

(手順が……僕の組み立てていた今日の時間割(ルーティン)が、全部めちゃくちゃだ。包帯のストックは、さっき僕が棚の左から3番目に完璧に整理したのに。なんでみんな適当に動かして元に戻さないんだ……! 置いた場所を変えられるのが、一番困るのに……!)

いつも通りの配置、いつも通りの手順が、周囲の人間の無造作な行動によってズタズタに崩されていく。その「物体の配置の乱れ」がトリガーとなり、宮坂の脳内で強烈なイライラがマグマのようにブワッと湧き上がってきた。

その瞬間、宮坂の自律神経は完全に『限界突破(メルトダウン)』を起こした。

脳が激しいパニック信号を発した途端、身体が完全にコントロールを失っていく。

まずは多汗だ。

頭のてっぺんから、首筋、脇、背中に至るまで、まるでバケツの水をひっくり白したかのような、凄まじい量の汗がブワッと噴き出した。ユニクロの白Tシャツは一瞬で地肌に張り付き、顎の先からは床の木目へ向けてポタポタと絶え間なく雫が滴り落ちる。左耳のピアスが、冷たい汗に濡れてギラリと不気味に光る。

「宮坂! 聞いているのか! 早く――」

「う、うるさいっ!!! 話しかけるな!!! 静かにしろと言っているだろッ!!!!」

人見知りで普段は消え入るようなボソボソ声の宮坂が、茶髪を振り乱し、目を血走らせて病棟全体を震わせるような凄まじい声で怒鳴り散らした。脳のキャパシティが完全にパンクし、配置を乱され、ルーティンをめちゃくちゃにされた恐怖からの防衛の叫びだった。あまりの豹変ぶりに、周囲の衛生兵たちは恐怖で凍りついた。

だが、自律神経の反乱はそれだけでは終わらない。

怒鳴った直後、宮坂の腹部に、まるで熱した鉄の棒を突き刺されたかのような激烈な激痛が走った。過剰なストレスが内臓を直撃する、突発的な激しい下痢の波だ。お腹がゴロゴロと悲鳴を上げ、冷や汗がさらに倍になって噴き出す。

さらに宮坂の意識の奥深くで、もう一つの致命的な症状が頭をもたげた。

激しいパニックと腹痛のあまり、脳が現実の苦痛を拒絶しようとシステムを強制シャットダウンしにかかる――急激な解離(かいり)症状による凄まじい眠気だった。

視界が急速に狭くなり、周囲の音が遠のいていく。

(あ、ダメだ……頭が、回らない。嘘だろ、この状況で……眠気が、意識が、落ちる……っ)

立っていることすらままならない激烈な腹痛と便意、そして脳のブレーカーが落ちていくような抗えない睡魔。宮坂はハーフパンツのポケットの中のマイプラ手をギチギチに握りしめ、お腹を抱えたまま、白目を剥いてその場に卒倒しそうになった。

「宮坂さん……っ!」

異変を察した一ノ瀬が走り寄り、宮坂のユニクロの白Tシャツの袖を必死に掴んだ。

「みんな、下がって! 近づかないで!」

一ノ瀬は鋭い声で衛生兵たちを下がらせると、大汗をかいて腹を抱え、今にも意識を失いそうな宮坂の肩を支え、あの薄暗い汲み取り式トイレへと必死に彼を誘導した。

バタン、と板張りのドアを閉め、宮坂は個室へ駆け込む。

激烈な悪臭と不潔さ。感覚過敏の彼にとって、本来なら一秒だって耐えられないはずの、昭和19年の汲み取り式トイレ。そこで激しい下痢に襲され、便器にしがみつきながら泥のような汗を流し、朦朧とする解離の眠気と必死に闘う。

(あぁ……最低だ。置いた場所をめちゃくちゃにされて、多汗症で全身びしょ濡れで、大声で怒鳴り散らして、下痢で引きこもって、意識まで飛びそうになって……。現代の職場でも、こうやってパニックを起こして、みんなに『話しかけづらい奴』って煙たがられて……。戦時中も現代も、どこに行っても僕は、自分の身体すらコントロールできない不適合者だ……)

自己嫌悪と情けなさで、目の前が涙で歪む。

どれだけの時間が経っただろうか。

激しい腹痛と、脳を麻痺させていた急激な眠気の波がようやく引き、ユニクロの白Tシャツをごっそりと濡らした状態で、宮坂は傷だらけの身体で這うようにしてトイレのドアを開けた。

外には、まだ夕闇が広がっていた。

正式な病院の裏手の、その薄暗がりの床の上に、一ノ瀬がじっと座って待っていた。

「一ノ瀬、さん……(ボソボソ)」

宮坂は恥ずかしさと情けなさで消え入りたい気分だった。茶髪は汗でベタつき、ピアスは冷え切り、激しい下痢のためにトイレに引きこもっていたのだ。綺麗な女性に見せる姿では、断じてない。

だが、一ノ瀬は宮坂の姿を見るなり、マニュアルを無視して迷わず立ち上がり、彼のもとへ一歩近づいた。彼女の手には、冷たい井戸水で濡らして固く絞った手ぬぐいと、お盆の上に乗せられた温かい白粥(しらゆ)があった。

一ノ瀬は何も言わず、宮坂の前に立つと、彼の額や首筋から滴る凄まじい多汗の汗を、本当に優しく、手ぬぐいでポン、ポン、と拭い始めた。

「……お腹も、頭も、びっくりしちゃったんですね。棚の包帯の位置が変わって、頭の中が忙しくなると、宮坂さんはいつも、身体が一生懸命闘おうとして、汗もお腹も、眠気まで大騒ぎになっちゃう。……本当に、大変でしたね」

「あ、いや……汚いし、すいません……(ボソボソ)」

宮坂は床を見つめたまま、早口で呟く。だが、一ノ瀬は優しく微笑み、温かいお粥の器を宮坂の、マイプラ手の手ぬぐい代わりに握りしめられた手にそっと重ねた。

「炊飯場の薪の火の粉が入っちゃいましたけど……少し、お塩を強めにしておきました。汗をたくさんかいたから、お腹を温めて、塩分を摂らないとダメです」

一ノ瀬は、宮坂が「置いた場所の乱れからの多汗、怒鳴る、下痢、解離の眠気」という、周囲からは『ただの自己管理のできない不機嫌な変人』に見える一連のパニックが、彼の不器用で、誰よりも繊細で、真面目すぎる脳が起こしている命がけの摩擦であることを、完全に理解し、包み込もうとしていた。

宮坂はお粥の温かさを手のひらに感じながら、また別の意味の汗をぬぐった。

現代の21世紀の老人ホームでも、彼はこのパニックのせいで誰にも理解されず、孤立し、一人で生きづらさを抱えていた。

それが、この過酷な昭和19年の病院の片隅で――自分の最も見られたくない、一番汚くて情けない「生きづらさ」の姿を、丸ごと「大変でしたね」と受け止めてくれる、世界でたった一人の女性に出会えたのだ。

「……一ノ瀬さん、僕は本当に、生きづらい男です……」

「ふふ、知ってます。本当に手がかかって、大汗かきで、バカで、愛おしい人。……でも、宮坂さんが倒れたら、佐藤大佐も、ここの兵隊さんも、私も困っちゃいます。だから、私の前では、いくらでも怒鳴って、いくらでも汗をかいて、いつでも眠ってください」

一ノ瀬は宮坂の左耳のピアスにそっと触れ、夕暮れの闇の中で、世界で一番美しく、慈愛に満ちた笑みを浮かべた。

宮坂祥平の抱える激烈なASDの生きづらさは、この激動の戦時中において、一ノ瀬さんという、かけがえのない絶対的な救い(光)と、深く、深く結びついていくのだった。

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