第一章:泡沫(うたかた)のクレゾール
激しいワンオペ夜勤が終わった。
30歳の介護福祉士、宮坂祥平の脳内は、限界を超えた疲労と自閉スペクトラム症(ASD)特有の過敏さで、ジリジリと焦げ付くような音を立てていた。
「宮坂さん、申し送り、あとはこっちでやっておくから上がっていいよ」
同僚の優しい言葉すら、今の宮坂にはトタン屋根を叩く雨音のように、ひどくノイズ混じりに鼓膜へ響く。人見知りな彼は、ただ小さく「あ、お疲れ様です……」とだけボソボソと呟き、逃げるようにして都内のアパートへ帰宅した。
介護施設の独特な洗剤の匂いと、夜勤中に流した多汗症のじっとりとした汗。それらを洗い流すため、彼は浴室へ直行し、熱いシャワーを頭から浴びた。ASDの彼にとって、この水圧の刺激は、張り詰めた神経を一度リセットするための絶対的なルーティンだった。
サッパリとした身体に着替えを選ぶ。お気に入りのユニクロの無地の白いTシャツに、黒のハーフパンツ。このシンプルで余計な装飾のない綿の肌触りが、感覚過敏の彼を一番落ち着かせる。鏡を見ると、少し色落ちした茶髪が跳ねており、左耳のシルバーのピアスが洗面所の蛍光灯を反射していた。
冷蔵庫からキンキンに冷えたアイスコーヒーを取り出し、ソファに深く腰掛け、お気に入りのタバコ『キャメル』に火をつけた。
ふう、と紫煙をくゆらせる。
アイスコーヒーの苦味と、キャメルの香ばしい甘みが口の中に広がり、ようやく宮坂の自律神経が「自分の時間」へと帰還していく。
黒のハーフパンツの大きなポケットには、仕事用としてネットで箱買いした、お気に入りの「マイプラ手(使い捨てプラスチック手袋)」が、箱ごとぎっしりと詰め込まれたままだった。手のひらに完全にフィットする特定のメーカーのこれじゃないと、彼は落ち着いて仕事ができない。その強いこだわりゆえに、退勤時、無意識にポケットへ突っ込んで持ち帰ってしまったのだ。
「あー……やっと、終わった……」
キャメルの灰が灰皿に落ちる。アイスコーヒーのグラスに結露した水滴が、トントンとテーブルへ滴り落ちる。その規則的な音を聞いているうちに、宮坂の瞼は急速に重くなり、深い、深い微睡の底へと落ちていった。
――それが、すべての始まりだった。
どれくらい眠っただろうか。
突如、宮坂の鼻腔を、強烈な異臭が突き刺した。
現代の介護施設のような、洗練された消臭剤の匂いではない。それは、鼻の奥がツンと痛くなるほどの濃厚な木酢液の匂い。そして、それに混じる、人間の「血液と膿、そして排泄物が腐った、すえた生臭い匂い」だった。
「うう……っ、熱い……お母さん……」
「痛ぇ、足が、足がねえんだよぉ!」
耳を打つのは、地鳴りのような男たちの苦悶の呻き声。車の走行音も、換気扇の回る音も、何一つ聞こえない。
(え……? アパートの火事? それとも、僕の脳のバグ……?)
人見知りで小心者の宮坂は、心臓を激しく脈打たせながらおそるおそる目を開けた。
そこは、自宅のソファではなかった。
薄暗い、埃の舞う木造の広大な平屋の病棟。天井には剥き出しの梁が走り、白黒写真でしか見たことがないような、鉄製の無骨なパイプベッドがずらりと並んでいる。窓の外に見える景色は、見慣れた都内の高層ビル群ではなく、鬱蒼とした緑と、九四式六輪自動貨車(軍用トラック)の泥にまみれた姿だった。
「貴様、そこで何をしている! 見慣れぬ格好だな、スパイか!?」
鼓膜を破らんばかりの鋭い怒号。
宮坂がパッと振り返ると、そこには九八式軍服を着て、三八式歩兵銃のギラリと光る三十年式銃剣をこちらに真っ直ぐ突きつけている、若い陸軍兵士が立っていた。
宮坂のオタク脳が、恐怖のパニックの裏側で、その銃のディテールを瞬時に認識する。全長1,276ミリメートル。バレル(銃身)内の6条右回りのライフリングが弾丸に驚異的な安定性を与え、世界最高峰の命中精度を誇る、文字通りの『三八式』。木製銃床の複雑な木目、そしてレシーバー(機関部)の上部に刻まれた、かすかに磨り減った十六弁の菊花紋章――。
「ひっ……!」
心臓が跳ね上がる。多汗症の悪癖が爆発し、宮坂の額から一瞬で滝のような汗が吹き出した。人見知りの彼は、銃口の恐怖と、見知らぬ人間に大声で怒鳴られたパニックで、声が完全に裏返る。
「あ、あの、ぼ、僕は、不審者じゃなくて……その、銃口を、人に向けないでください、あ、危ないですから……っ」
床の木目をじっと見つめながら、消え入るような声でボソボソと、しかし妙に冷静に注意する宮坂。そのあまりに噛み合わない態度、そして戦時中の日本ではあり得ない「茶髪」と耳元で揺れる「ピアス」に、若い兵士の方が「え……? 貴様、何をボソボソと言って……髪が茶色……耳に耳飾り……? ユニクロ……?」と完全に困惑し、三八式歩兵銃の銃口をわずかに揺らした。
その時だった。病棟の奥から、ガラガラと激しい音が響き、女性の悲鳴が上がった。
「軍医どの! 重傷の佐藤兵長が暴れておられます! 触れた看護婦も次々に汚物まみれに……!」
宮坂の視線の先。白い割烹着のような看護衣を着た、信じられないほど綺麗な女性が、血のついたタライを抱えて青ざめていた。髪を後ろできっちり結んだその美貌は、戦時中の絵画から飛び出してきたかのように凛としている。だが、その一ノ瀬看護婦の手や衣服には、赤黒い血と便が飛び散っていた。
ベッドの上では、ガリガリに痩せ細った佐藤兵長という男が、高熱でうわ言を言いながら狂ったように暴れている。
「もう畳の上では死ねん……帝国軍人らしく、爆薬を抱えて……!」
「おのれ、静かにせんか! 誰か、兵長を抑えろ!」
初老の軍医が怒鳴るが、当時は院内感染(赤痢やコレラ)の恐怖があり、かつ防護具もない時代。血と汚物まみれで暴れる兵長に、周囲の衛生兵たちは怯えて近づけない。完全に不潔区域が拡大し、現場はパニックに陥っていた。
その光景を見た瞬間。
宮坂の脳内で、それまでの恐怖や「人見知り」が、カチリと音を立てて消え去った。
彼のASDの特性――「不潔な手順を見過ごせない」「決められた衛生管理の手順を乱されるのが一番不快」というスイッチが、完全にONになったのだ。
「あー……ダメだ。不潔区域が広がってる。手順通りに片付けないと、他のベッドの人まで全員感染する」
宮坂は、自分に三八式歩兵銃を向けていた兵士の脇を無言ですり抜けた。
ユニクロの白いTシャツの袖をまくり、黒のハーフパンツの大きなポケットに手を突っ込み、ピチッ、ピチッと、心地よい音を立てて、現代の透明な「マイプラ手」を両手にはめた。茶髪を揺らし、ピアスを輝かせながら、ポケットから数組のプラ手を引っ張り出し、呆然と立ち尽くしている一ノ瀬看護婦の前に、ボソボソと言いながら差し出した。
「これ、つけてください。血液や体液に直接触れなければ、感染の確率は劇的に下がります。……さあ、ガウン(割烹着)を着替えて。そこの汚物を手順通りに片付けます。僕の指示に従ってください」
「え……? あ、はい……っ」
いつもはツンとすましている一ノ瀬だったが、宮坂の纏う「圧倒的なプロのオーラ」と、見たこともない未来の超科学アイテム(プラ手)の説得力に完全に気圧され、思わずコクコクと頷いてしまった。見た目は茶髪にピアスという超怪しい男なのに、その手さばきはあまりにも気高い専門家のそれだった。
宮坂は大汗をかきながらも、迷いのない手つきで暴れる佐藤兵長に近づいた。
「すいません、ちょっと失礼します。手順ですから」
ボソボソと呟きながら、プラ手をはめた手で兵長の体を巧みにコントロールし、一瞬で側臥位(横向き)に寝かせて動きを封じる。その鮮やかな「ボディメカニクス(介護技術)」に、軍医も衛生兵も言葉を失った。
兵長のお尻の衣服をめくった宮坂は、思わず眉をひそめた。
尾骨のあたりが、テニスボール大に真っ黒に壊死し、膿と血がドロドロに流れ出している。現代なら完全にステージIVの重度褥瘡(床ずれ)だ。
「……褥瘡だ。栄養状態が悪いのに、体位変換もせず寝かせっぱなしにするからこうなるんです。軍医先生、ただちに洗浄と、壊死組織のデブリードマン(切除)を。僕が保清とドレッシング(被覆)の準備をします。一ノ瀬さん、生塩水(生理食塩水)か、なければ綺麗な微温湯を持ってきてください。急いで」
「な、何なんだ、その魔法のような透明な手袋は……! 貴様、何者だ!?」
軍医が驚愕の声を上げるが、宮坂はすでに床の汚物処理の手順に没頭しており、完全にシカトしていた。ただ淡々と、マイプラ手を次々に交換しながら、昭和19年の陸軍病院のピンチを、現代の介護知識で完璧にコントロールしていくのだった。
数分後。
あのパニックを完璧に鎮静化させ、佐藤兵長の褥瘡を「劇的に改善」させた宮坂は、その底知れない腕前(と、大量のマイプラ手という謎の物資)を認められ、身元不明の不審者ながらも、病院の片隅の物置小屋をあてがわれて臨時の「衛生助手」として働くことになった。
宮坂のサポート役に指名されたのは、あの時の看護婦、一ノ瀬だった。
彼女は病院一の美人として有名で、本来は生真面目で「軍医殿の命令は絶対です!」と、宮坂に対しても最初はツンツンと厳しく当たっていた。
「宮坂さん! さっきの軍医殿への口の利き方は何ですか! いくら腕が立つからと言って、軍の規律を乱すのは許されません!」
病棟の裏手で、兵隊たちのシーツを2人で両端から持って、パンッと広げる共同作業の最中、一ノ瀬が頬を膨らませて怒っていた。
しかし、当の宮坂はそれどころではない。
目の前に、信じられないほど綺麗な一ノ瀬がいる。現代では独身で、女性とまともに話したこともない人見知りだ。ド緊張のあまり、多汗症の汗が滝のように流れ、ユニクロの白いTシャツの襟元がびしょびしょになっている。目が合わせられず、ずっとシーツの端っこを見つめながら、ボソボソと早口で呟く。
「あ、いや、すいません……でも、軍医先生の言う『傷口は乾かせ』っていうのは現代医学……あ、いや、僕の知識では間違いで、湿潤環境を保たないと治らないんです。……それより一ノ瀬さん、あの、そんなに近くで見つめられると、その、綺麗すぎて、視界のピクセルがバグるというか、目のやり場に困るというか……汗が止らなくなるので、少し離れてください……」
「え……?」
一ノ瀬は一瞬、きょとんとした。
いつもは無表情で、マイプラ手をはめると冷徹なほど完璧に指示を出す男が、自分の前でだけ顔を真っ赤にして、大汗をかいてドギマギしている。揺れる茶髪と耳元のピアスが、今はなぜか不思議と憎めない彼のチャームポイントに見えてくる。
「綺麗って……急に、何言ってるんですかバカ!」
一ノ瀬はみるみるうちに顔を真っ赤に染め、シーツで自分の顔を隠してしまった。しかし、宮坂の額から文字通り滴り落ちる汗を見て、ふう、と呆れたようにため息をつく。
「もう……宮坂さんは、本当に人見知りで、変な人ですね。ほら、動かないで」
一ノ瀬は一歩近づくと、着物の袂から取り出した、自身の桜色の綺麗なハンカチで、宮坂の額の汗をポン、ポン、と優しく拭ってくれた。
「私と喋る時くらい、ちゃんと目を見てください。……でも、宮坂さんがそうやって、上官に嫌われても兵隊さんの体を一番に考えてるお仕事ぶり……私、本当は、すごく尊敬しているんですから」
ツンとした態度の中に、隠しきれないお姉さんらしい優しさと、赤面したデレが混ざり合う。宮坂はさらに汗をかき、「あ、う、お疲れ様です……」と完全に挙動不審になっていた。
だが、そんな2人の甘酸っぱい空間を、冷酷な足音が踏みにじった。
ジャリッ、ジャリッ……と、軍靴の音が近づく。
白いシーツの向こう側から現れたのは、腕に「憲兵」の腕章を巻いた、眼光の鋭い、絵に描いたようにカタブツで恐ろしい憲兵将校だった。背後には、三八式歩兵銃を肩にかけた部下が2人控えている。
「――お前が、噂の『宮坂』だな」
地獄の底から響くような声に、一ノ瀬の体が恐怖で硬直した。「け、憲兵殿……!」
憲兵は宮坂の奇妙な現代のユニクロの服装、そしてその不届き極まる茶髪と左耳のピアス、黒のハーフパンツのポケットから覗く大量の透明なプラスチック手袋の箱を、射殺さんばかりの鋭い眼光で睨みつけた。
「我が大日本帝国陸軍の軍医を差し置いて、妙な医療技術を振るい、軍の機密である戦傷病兵の情報を探っている男がいると聞いた。その反国体的な髪色、耳飾り、怪しげな手袋の物資……貴様、どこで手に入れた。ソ連のスパイか? それとも米英の工作員か? 貴様のその薄汚い素性を、憲兵隊の本部でじっくりと洗いざらい吐いてもらうぞ」
憲兵の手が、腰の軍刀(九八式軍刀。真鍮の透かし彫りがある美しい鍔、そして柄巻の隙間から覗く鮫皮のディテール)の柄にかけられる。
一ノ瀬が青ざめて宮坂をかばおうとするが、宮坂は恐怖のあまり、すでに足がガクガクと震え、多汗症の汗が顎からポタポタと床へ落ちていた。人見切りの彼にとって、こんな怖い男たちに囲まれるのは、人生最大のパニックだ。
しかし、宮坂のポケットの中には、まだ何十枚もの「マイプラ手」が静かに牙を剥いて待っている。そして彼の脳内には、昭和19年の誰も知らない、これからの「帝国陸海軍の全戦史」という、未来の知識が眠っていた。
宮坂祥平の、本当の意味での「戦い」が、今幕を開けようとしていた――。
「……おい、聞いておるのか! 貴様のその薄汚い素性を吐けと言っているのだ!」
憲兵将校の怒声が、木造の廊下にビリビリと響く。九八式軍刀の切羽が、カチリと不穏な金属音を立てた。
一ノ瀬看護婦は宮坂のユニクロの白いTシャツの袖をぎゅっと掴み、恐怖に震えている。
当の宮坂は、恐怖のあまり心臓が口から飛び出そうだった。人見知りの彼にとって、怒鳴り散らす軍人など、最も苦手な人種の筆頭だ。左耳のピアスが小刻みに震え、額からは滝のような汗が黒のハーフパンツへと滴り落ちる。
彼は憲兵と目を合わせることができず、ただ視線を落とした。
――落とした視線の先、憲兵の部下が斜め十字に背負っている、三八式歩兵銃のレシーバー(機関部)が宮坂の網膜に焼き付いた。
(あ……)
宮坂の脳内で、パニックの霧が一瞬で晴れ、引き出しの奥からミリタリーの膨大なデータが引き出される。
「あ、あの……その、三八式……」
宮坂は床を見つめたまま、消え入るような声で、しかし異様にハッキリとした口調でボソボソと喋り始めた。
「……三八式歩兵銃、初期型じゃなくて、小倉工廠か名古屋工廠の、中・後期型ですよね。……でも、それ、遊底覆が外されてます。塵よけのためにせっかく南部麒次郎氏が設計したのに、前線で『ガチャガチャうるさいから』って、勝手に外して失くす兵隊が多いんです……」
「何……? 貴様、何をボソボソと……」
憲兵の眉が跳ね上がる。だが宮坂は止まらない。大好きなミリタリーのディテールに触れた瞬間、ASDの過集中が発動し、人見知りすら忘れて早口のオタク語りが暴走を始める。
「……それだけじゃなくて、安全子の切れ込みが磨耗してます。そのせいで、ボルトを閉鎖したときに、わずかに遊底が完全に噛み合っていなくて、撃針の作動にコンマ数ミリのズレが出るはずです。……三八式の強みである、6.5ミリ弾の驚異的な弾道安定性と、三八式実包の腔圧ラジアル荷重のバランスが、その機関部の歪みで台無しになってます。……そんな手入れの行き届いていない銃、実戦なら一発目で不発か、最悪、薬室が破裂(異常高圧発火)して、あなたの部下の右目が吹き飛びますよ。……スパイを疑う前に、武器係の怠慢を疑ったほうがいいです」
息もつかずに一気呵成に言い切ると、宮坂は「はぁ、はぁ……」と多汗症の汗をぬぐいながら、また元の人見知りに戻って口を閉ざした。
廊下に、不気味なほどの静寂が訪れた。
憲兵将校は、目を見開いたまま完全にフリーズしている。
背後の部下の兵士にいたっては、自分が持っている三八式歩兵銃を恐る恐る見つめ、宮坂の指摘通り遊底の噛み合わせが僅かに歪んでいるのに気づき、「な、なぜそれを見ただけで……!?」と戦慄して顔を青ざめさせていた。
「貴様……なぜ、我が軍の最高機密である銃器の、それほど微細な構造と欠陥を、一瞥しただけで見抜く……!?」
憲兵の言葉が、今度は恐怖で震えていた。茶髪にピアス、ユニクロの服を着たこの奇妙な男は、本当にただのスパイなのか? いや、それ以上の「何か」ではないのか――。
その時、廊下の奥から「ドタドタ」と激しい足音が響いてきた。
「憲兵どの! 憲兵どの、お待ちくだされ!」
息を切らせて走ってきたのは、この陸軍病院の病院長、そして数日前に宮坂が褥瘡(床ずれ)ケアで命を救った、あのプライドの高いカタブツの「佐藤兵長(あるいは連隊長大佐)」の担当軍医だった。
「病院長……! なぜここに」
「憲兵どの、その男に手を出すのはおやめいただきたい! 彼は身元こそ不明ですが、我が病院にとって……いや、この大日本帝国陸軍の衛生にとって、なくてはならない『至宝』です!」
軍医は、宮坂の黒のハーフパンツのポケットから覗く透明な「マイプラ手」の箱を指さした。
「彼が持つ未来の防護布(プラ手)と、彼が説く『湿潤療法』および『徹底された不潔区域の隔離管理』のおかげで、我が病棟の赤痢の院内感染率は今やゼロ! 褥瘡による敗血症で死にかけていた将兵たちも、次々に一命を取り留めております! 彼を連行することは、我が陸軍の貴重な戦力をみすみす殺すも同義です!」
一ノ瀬看護婦も、宮坂の前に一歩踏み出し、凛とした声で憲兵を睨みつけた。
「そうです! 宮坂さんは、髪の色や耳飾りこそ奇妙ですが、誰よりも兵隊さんの命に真摯に向き合っておられます! スパイなどでは断じてありません!」
病院の権威である軍医と、美しい看護婦からの必死の擁護。そして、宮坂が放った、三八式歩兵銃に関する狂気じみたディテールの知識。
憲兵将校は、腰の軍刀にかけていた手をゆっくりと離し、大汗をかきながら床を見つめている茶髪の男(宮坂)を、怪物でも見るかのような目で見つめた。
「……チッ。身元調査は一度保留とする。だが宮坂、貴様のことは常に監視しているからな」
憲兵は忌々しそうに吐き捨てると、部下を引き連れてジャリジャリと足音を立てて去っていった。
「……ふぅ。あ、危なかった……」
ピンチを切り抜け、宮坂はへなへなとその場に座り込みそうになった。ユニクロの白Tシャツは汗で完全に体に張り付いている。
そんな彼の隣に、一ノ瀬看護婦がそっとしゃがみ込んだ。彼女は自分の桜色のハンカチで、宮坂の顎から垂れ落ちる汗を優しく拭いながら、顔を少し赤くして微笑んだ。
「もう……宮坂さんは本当にハラハラさせます。でも、さっきの鉄砲のお話、凄かったです。私、宮坂さんのこと、もっと知りたくなっちゃいました」
「あ、いや、その、一ノ瀬さん、顔が近いです、ピクセルが、あの、また汗が……っ」
耳元のピアスを真っ赤にしながら、ボソボソと逃げるように呟く宮坂。
こうして、茶髪でピアスの人見知り介護福祉士は、昭和十九年の陸軍病院の中で、誰もが無視できない「陰の英雄」としての地位を確立していくのだった。
憲兵の襲来という嵐が去り、都内の陸軍病院には、再びクレゾールの匂いと兵士たちの呻き声が満ちる日常が戻ってきた。
しかし、その日常の片隅で、確実に「革命」が起きつつあった。
宮坂祥平は、ユニクロの白いTシャツの袖を肩までまくり上げ、黒のハーフパンツのポケットからピチッと音を立ててマイプラ手(プラスチック手袋)をはめた。額からは相変わらず多汗症の汗が滴り、左耳のピアスが病棟のわずかな木漏れ日を反射してきらりと光る。
彼の目の前に横たわるのは、褥瘡(床ずれ)の危機から一命を取り留めた佐藤兵長だ。骨と皮ばかりに痩せ細ったその身体は、自力では寝返り一つ打つことができない。
「佐藤兵長、失礼します。右を向きますよ。手順ですからね」
宮坂は床の木目を見つめたまま、ボソボソと、しかし澱みのない声で呟いた。人見知りの彼は、相手が目上の軍人であっても、業務に入ると完全に自分の世界に没頭する。
驚くほど軽い力で兵長の巨体をコントロールし、クッションの代わりに丸めたボロ布を背中と膝の間に挟み込む。身体の圧力を分散させる、現代のボディメカニクスを用いた「2時間おきの体位変換」。
さらに宮坂は、木製のヘラにサラシを巻き付けた即席の器具を取り出すと、兵長の口元へ向かった。
「あー、口を開けてください。口腔ケアです。誤嚥性肺炎を防ぐために、口の中の雑菌を落とします」
「う、うむ……」
当時は「寝たきりの兵隊の口を掃除する」という概念すらなかった。それどころか、血と便にまみれた衣服をテキパキと交換し、陰部を綺麗に洗い流す「下の世話(排泄介助)」、そして熱い湯で絞った手ぬぐいを使って、麻痺した手足を優しく、しかし力強く拭き上げていく「清拭」を、宮坂は淡々と、完璧な手際でこなしていく。
現代の特別養護老人ホームの現場をワンオペ夜勤で回してきた宮坂にとって、これは呼吸をするのと同じくらい「当たり前」の作業だった。
だが、昭和19年のこの陸軍病院においては、それは気狂いじみたほどの、常識外れの超高等医療ケアだった。
「お、おい宮坂……! 貴様がやっているその『たいいへんかん』とやらの時間を、なぜ『二時間』と寸分違わず決めているのだ!? 一体どんな医学的根拠がある!?」
宮坂の後ろでは、ノートを片手に目を血走らせた若い衛生兵たちが、熱心にペンを走らせていた。宮坂が動くたびに、彼らはまるで最先端の海外医学を学ぶかのように、頻回に質問を浴びせてくる。
人見知りの宮坂は、大勢の男たちに囲まれて質問攻めにされるプレッシャーに、ユニクロの白Tシャツをじっとりと汗で濡らしながら、早口のボソボソ声で応じる。
「あ、いや……人間の皮膚の組織っていうのは、同じ場所が2時間以上圧迫されると、微小血管が閉塞して、虚血状態になって組織が壊死……つまり褥瘡になるんです。だから2時間が限界なんです。マニュアルに書いてあります……本の知識です……」
「なるほど……皮膚の虚血! なんという緻密な計算だ!」
衛生兵たちは感銘を受け、狂ったようにノートに宮坂の言葉を書き留めていく。宮坂本人は「早くどっか行ってくれないかな……」と内心で頭を抱えていた。
しかし、宮坂にとって本当の「試練」は、衛生兵たちが去った後に訪れた。
「宮坂さん、お疲れ様です。……はい、これ」
不意に、鼻腔をくすぐる石鹸の清らかな匂い。顔を上げると、そこには病院一の美人看護婦、一ノ瀬が立っていた。彼女は少し顔を上気させ、いつもの桜色のハンカチを差し出している。
「あ、一ノ瀬さん、お疲れ様です……」
宮坂はパッと視線を一ノ瀬の足元へ落とし、茶髪の隙間から汗をだくだくと流した。綺麗な女性が至近距離にいるだけで、彼の心臓は三八式歩兵銃の連射なみに高鳴る。
一ノ瀬は宮坂の隣にちょこんと腰掛けると、シーツを畳む手元を少し揺らしながら、上目遣いで宮坂を見つめてきた。その瞳は、衛生兵たちのような技術への好奇心ではなく、明らかに別の「熱」を帯びている。
「ねえ、宮坂さん。衛生兵の皆さんはお仕事のことばかり聞いてますけど……私は、その、宮坂さんご自身のことが知りたくて」
「えっ……ぼ、僕の、ですか?」
「はい。……宮坂さんって、本当にどこから来られたんですか? その、髪の毛を茶色く染めたり、お耳に綺麗な銀色の飾り(ピアス)をつけたりするのって、宮坂さんの故郷では流行っているんですか?」
「あ、いや、これは……その、ただのファッションというか、僕のこだわりというか……(ボソボソ)」
「ふふ、やっぱり変な人。……でも、宮坂さんって、いつもお仕事の時は凄く冷徹で格好いいのに、私と喋る時はどうしてそんなに大汗をかいて、目を合わせてくれないんですか?」
一ノ瀬はいたずらっぽく微笑みながら、さらに距離を詰めてくる。桜色のハンカチを持つ彼女の手が、宮坂のユニクロの袖にふわりと触れた。
「お、お国のためとかじゃなくて、その、一ノ瀬さんが、あの、僕の好みのタイプというか……すごく、綺麗だからで、その、ピクセルが、目のやり場が……っ」
緊張が限界に達し、宮坂の口から無自覚なド直球の本音が、早口でボソボソと漏れ出した。
「え……っ!?」
一ノ瀬は一瞬、目を見開いた。そして、宮坂の言葉の意味を理解した瞬間、彼女の白い肌が耳の根元まで、みるみるうちに真っ赤に染まった。
「み、宮坂さんの……ご、好みの、たいぷ……!? き、綺麗だなんて、急に、何を言っているんですかバカ!」
一ノ瀬は慌てて立ち上がり、畳みかけのシーツで顔を覆うようにしてツンとそっぽを向いてしまった。しかし、シーツの隙間から見える彼女の耳は真っ赤で、胸元が激しく上下している。
「もう、宮坂さんは急に変なことを言います! ……でも、その、嬉しくない、わけじゃ、ないですから……」
消え入るような声でデレる一ノ瀬。
当の宮坂は、ハーフパンツのポケットの中のマイプラ手をギチギチと握りしめながら、「あー、また余計なことを言った……早く自分の物置小屋に帰って、アイスコーヒー飲んでキャメル吸いたい……」と、滝のような汗をぬぐいながら心の中で絶叫していた。
現代の当たり前を貫く男は、昭和の戦時中において、医療の常識だけでなく、病院一の美人のハートまでをも、完全にひっくり返しつつあった。
木造病棟の裏手にある井戸端で、宮坂祥平はひたすら両腕を動かしていた。
ユニクロの白いTシャツの袖を肩までまくり上げ、黒のハーフパンツの裾を濡らさないように引き上げる。目の前の大きな金だらいには、佐藤兵長たちが使用して汚染した褌やシーツ、リネン類が山積みになっていた。
当時は全自動洗濯機などあるはずもない。宮坂は固形石鹸を擦りつけ、冷たい井戸水を何度も汲み上げては、手作業で大量の洗濯物を揉み洗いしていた。
人見知りでASDの彼にとって、この「無心で同じ動作を繰り返す洗濯」は、意外と落ち着くルーティン作業でもあった。だが、その静寂はすぐに破られる。
「宮坂さん、お手伝いします」
振り返ると、割烹着のような看護衣の袖をまくった一ノ瀬が、可憐な笑顔を浮かべて近づいてくるところだった。
「あ、一ノ瀬さん……っ」
途端に宮坂の心臓が跳ね上がり、頭や脇から滝のような汗が吹き出した。さっきまで冷たい井戸水で冷えていたはずの身体が、一瞬で熱くなる。少し色落ちした茶髪を緊張で揺らし、左耳のシルバーのピアスをきらめかせながら、宮坂はパッと視線を地面の泥へ落とした。
一ノ瀬は宮坂の隣でしゃがみ込み、白い手で一緒にシーツを絞りながら、水を汲む宮坂の横顔をじっと見つめた。
「宮坂さんは、お生まれはどちらなんです? 今も東京にお住まいなんですか?」
人見知りで嘘をつくのが苦手な宮坂は、ASDの特性も手伝って、質問されると隠し事ができず何でも馬鹿正直に答えてしまう。床や水面を見つめたまま、ボソボソと早口で現代の日常を語り始めた。
「あ、いや……僕は、横田基地の近くに住んでいます。職場は、そこからさらに電車で少し離れたところにある老人ホームで……。休みの日には、神保町の古本屋に行って、帝国陸海軍の戦史や植物の図鑑を買い漁るのが好きです。たまには、新宿にも服を買いに行ったりしますよ……」
宮坂にとっては、福生周辺の自宅から青梅線や中央線に乗って通勤し、休日は趣味のために神保町や新宿へ出かけるという、21世紀の当たり前のライフスタイルだった。
しかし、それを聞いた一ノ瀬は違った。
彼女は洗濯の手を完全に止め、目を見開いたまま、昭和19年の知識で宮坂の言葉を必死に理解しようと脳細胞をフル回転させていた。
(よこた……基地? 横田ということは、あの福生にある、新型戦闘機『疾風』を秘密裏に審査・テストしている極秘の多摩飛行場(陸軍航空審査部)のことね! あそこを『横田』という秘匿名称で呼ぶなんて、軍の最高中枢にいる人に違いないわ!
それに、神保町の古本屋で戦史を買い漁っているということは、過去のあらゆる戦術を分析して大本営に献策する、特務参謀のようなお役目を……?
さらに新宿……あの賑やかな街の闇に紛れて、何か重大な防諜活動(スパイの炙り出し)をされているんだわ!
そんな雲の上のエリートなのに、どうしてこんな泥臭い病院で、私の隣で、汗だくだくになりながら褌を洗ってくれているの……?
ああ、これが本物の、男の仁義なのね……っ!!)
一ノ瀬の脳内で、宮坂の発言が凄まじい方向へと変換されていく。茶髪にピアスという奇妙な格好、憲兵すら黙らせる銃器のディテール知識、そしてあの圧倒的な医療管理技術(マイプラ手)。
一ノ瀬は顔を上気させ、宮坂のユニクロの白Tシャツを畏敬の念が混ざった瞳で見つめた。
「宮坂さん……あなたって、本当にとんでもないお方なのですね。私、あなたの秘密、誰にも言いませんから!」
「え? あ、はい……?(なんでそんなに感動してるんだろ……)」
宮坂がだくだくと汗をかきながら困惑していると、病棟の表からただならぬ喧騒が響いてきた。
ガラガラガラ!と、木製の台車が激しく路面を叩く音。
「退け! 退かんか! 南方戦線より重傷の将校閣下が後送されてこられたぞ!」
衛生兵たちの怒号が響く。宮坂と一ノ瀬が慌てて表へ回ると、そこには血塗れの担架の上で、激しく咳き込みながらも周囲を怒鳴り散らしている、眼光の鋭いカタブツの大佐(連隊長)の姿があった。
過酷な南方の泥と硝煙にまみれ、激しく負傷して本土へ送り戻されたものの、そのプライドは微塵も衰えていない。
「軍医はどこだ! 俺を早く前線に戻せ! 帝国陸軍の歩兵第〇連隊長たる者が、このような後方で眠っていられるか! 触るな、無礼者めが!」
負傷して身体がうまく動かせない寝たきりの状態であるにもかかわらず、治療や介護のケアを一切拒否し、近づく衛生兵たちを文字通り蹴散らしている。
その南方の過酷な戦場を生き抜いてきた大佐の姿を見た瞬間、宮坂のオタク脳と介護士としてのスイッチが、同時にカチリと音を立てて切り替わった――。




