最終章:未来へ紡ぐ仁義
「……桜さん、大丈夫です」
宮坂祥平は、煤と涙で濡れた桜(一ノ瀬看護婦)の美しい顔を見つめ、床……いや、上野公園の泥の地面を睨みつけるのをやめて、彼女の瞳を真っ直ぐに見返した。
人見知りの彼が、人生で初めて、大汗をかきながらも一切声を詰まらせずに放った、未来からの確信に満ちた言葉だった。
「……日本は、絶対に平和になるんです。だから、希望を持ってください。21世紀の東京は、こんな煙なんてどこにもなくて、毎日美味しいものが食べられて、みんなが笑って、週休二日制で……本当に、綺麗な街になるんです。だから……っ」
宮坂の馬鹿正直な、嘘のない言葉の響きに、桜はさらに大粒の涙を流した。彼女はそれが宮坂の「大本営の極秘計画(未来の予測)」の確信だと信じ、同時に、彼の胸の奥にある果てしない優しさに、魂の底から救われたのだ。
「祥平さん……っ!!」
桜は激しく咽び泣きながら、周囲の避難民や項垂れる佐藤大佐たちの目も気にせず、宮坂の泥まみれのカーキ色の軍服の胸元へ、全力で抱きついた。
「ひっ……!」
宮坂の脳内で、再び三八式歩兵銃の斉射のようなパニックが起きた。
腕の中に、病院一の美人の、大好きな桜さんの華奢な身体がある。石鹸の匂いと、焦げた匂いが混ざり合った、愛おしい存在。
宮坂は滝のような汗をかきながら、彼女の背中に手を回し、優しく抱きしめた。
……そのつもりだった。
だが、宮坂祥平の30年間の人生における「童貞の脳と身体」は、この極限状態のスキンシップに耐えられるほど強固には作られていなかった。
(あ、あれ……? おかしいな……)
宮坂の頭のネジが、完全にタガが外れた。大バグだ。
彼の身体が、一瞬で悲鳴を上げた。心臓が太鼓のように爆鳴りし、全身の血流が津波のように速くなる。多汗症の汗が、軍服を突き抜けて蒸発しそうなほど熱くなる。
そして、その宮坂の肉体の「大バグ」の異変に、密着している桜もすぐに気づいた。彼女は宮坂の胸元で、自身の身体に触れる彼の「男としての至極当然の、規格外の反応」をダイレクトに感じ取り、一瞬で顔を真っ赤に染めて赤面した。
何故なら宮坂は、女性とこのようなバグ(抱き合うこと)すら、生まれて初めての経験だったのだ。反応するのは、30歳独身の健康な男なら当たり前の手順だった。
桜は真っ赤な顔のまま、上目遣いで宮坂を見つめ、震える声で言った。
「し、祥平さん……大丈夫、ですか……?」
普通の男なら、ここで上手い嘘をつくか、恥ずかしそうに誤魔化すところだろう。
だが、宮坂祥平はどこまでもASDであり、嘘のつけない、現代の馬鹿正直な男だった。彼はほろ酔いでもパニックでもないのに、桜の身体から伝わるあまりの多幸感と手の感覚のリアルさに脳が完全に麻痺し、その感覚を馬鹿正直、かつど直球に、一抹の嘘もなく口からぶちまけてしまった。
「……髪の毛、いい匂い。そして何より、おっぱいとお尻が柔らかいです……(ど直球大汗)」
「…………え?」
桜の瞳から、感動の涙が一瞬で引っ込んだ。
彼女の白い頬が、怒りと羞恥で、昭和20年の焦熱の空よりも真っ赤に燃え上がった。
「この……大バカ変態将校ーーーーっ!!!!」
ドガッッッ!!!!!
当然の帰結として、昨夜のビンタ(面罵)を遥かに超越した、桜の渾身の強烈な鉄拳制裁が、宮坂の顔面の真ん中に直撃した。
視界が火花を散らして真っ白に染まり、宮坂の意識は、完全なる闇へとシャットダウンされた――。
「――うわっ!?」
宮坂は、激しい衝撃とともに跳ね起きた。
鼻の頭と頬のあたりに、ジンジンとした強烈な痛みの余韻が残っている。
ハッと辺りを見回すと、そこは薄暗い木造の病棟でも、灰の舞う上野公園でもなかった。
見慣れた、ユニクロの無地の白いTシャツと、黒のハーフパンツ。
彼は、自宅のアパートのソファの上で横になっていた。
テーブルの上には、すっかり氷の溶けた結露だらけのアイスコーヒーのグラスと、灰皿の中で完全に燃え尽きたキャメルの吸い殻。
窓の外を見ると、都内のビル群の向こうに、眩しい、本当に眩しい夕日が赤々と沈んでいくところだった。
「夢……だったのか? 僕は、夜勤明けにソファで寝落ちして……」
宮坂はボソボソと呟き、左耳のシルバーのピアスに触れた。やはりそこにある。
なんだ、やっぱりただの過酷なワンオペ夜勤が見せた、ミリオタの脳のバグだったんだ。
そう思って、彼が黒のハーフパンツの大きなポケットに手を突っ込んだ、その時。
指先に、くしゃくしゃになったプラスチック手袋(マイプラ手)の感触と一緒に、「カサリ」と、もう一つ、絶対に現代のアパートにはあるはずのない、古い布の感触が触れた。
驚いてポケットから引っ張り出す。
それは、現代のどんな洗剤でも落とせないような、煤と灰の匂いが染み付いた、焦げ目のついた『桜色の古い手ぬぐい(ハンカチ)』だった。
宮坂は、窓から差し込む21世紀の平和な夕日を見つめながら、鼻の頭の痛みをさすり、小さく、本当に小さく、ニコニコと微笑んだ。
「……はぁ。やっぱり、戦時中も現代も、僕にとっては世界は生きづらい。……だけど、また明日からのシフトも、手順通りに、完璧にこなせそうな気がするな」
宮坂祥平は、桜色のハンカチを愛おしそうにポケットに戻すと、新しいキャメルに火をつけた。
昭和20年の焦熱の空の下に置いてきた、不器用で、泥臭くて、最高に愛おしい男の仁義と純愛の記憶は、21世紀の平和な東京の空の下で、今も彼の胸の中で優しく、強く、輝き続けている。
(第一部・不潔区域の先陣:昭和十九年陸軍病院滞在記 【完】)




