第9話:水面の向こう側で
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五年生になった春、私はひとつのことに気づいた。
鏡の中の自分が、少しずつ変わっている。
顔の輪郭が丸みを帯びてきた。腰のあたりが、ほんのわずかにくびれてきた気がする。そして胸が確かに、膨らみ始めていた。
私はそっと、自分の胸に両手を当ててみた。
ふわり、とした感触がある。押すと、少しだけ弾力を感じる。
(……やっと、ね)
思わず声が出そうになった。
女の子に生まれたその日から、私はずっとこれを意識してきた。
栄養バランスを考えた食事、姿勢への意識、寝る前の胸のマッサージーー
前世の知識を総動員して、できることは全部やってきた。
正直、小学生の体でどこまで効果があるのか半信半疑だったけれど、杞憂だったようだ。
(やっぱり、やってきたことは無駄じゃなかったのかもしれない)
私はもう一度鏡を見た。
上から、横から、少し角度を変えながら。
まだ小さな膨らみだが、でもちゃんと形になってきている。
前世では男として「見ていた」側だったものが、今は自分の体の中で育っている。
(この調子でいけば後数年経つ頃には...)
思い描いた。理想のプロポーション。
くびれと、それに見合うだけの大きな胸。
前世でさんざん「いいな」と思いながら眺めてきた、あの感じ。
(なれるかもしれない。本当に)
鏡の前で、私はひとりで笑った。
ちょっとにやけすぎかもしれないと思いながら、でも理想の自分の姿に笑みが止められなかった。
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六月に入って、担任の先生がプールの話をした。
「来週から水泳の授業を始めます。水着と体操服、忘れないように」
教室がわっと明るくなった。「やったー!」「深いほうに行きたい!」「去年より速く泳げるようになってたら嬉しいな」
隣でシンくんが「……水泳、苦手なんだよな」とぼそっと言った。
「シンくん、去年も補修で放課後特訓してたよね?」
「……なんで知ってるの!?」
「ちょっとね。私に言ってくれたら教えてあげたのに」
「それは...」
シンくんが何か言いかけて、やめた。
耳が少し赤いけど、どうしたのだろう?
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プール開きは、晴れた木曜日だった。
更衣室で着替えながら、私は周囲のクラスメイトをぐるっと見渡した
(他の子も何人かは目立ち始めてるわね...)
五年生ともなると女の子は二次性徴を迎える時期だ。
既にはっきりとした膨らみが見える子もいれば、まだぺったんこな子もいる。
(私は小さい方でないけれど、油断は禁物よ。これから急に成長する子だって出てくるんだから)
中学に入って急に成長する子もいる。現時点でのリードなんて気づいたら追い抜かれるということもあるのだ。
そうならないためには、これまでしてきた努力を続けなければ。
(まだまだこれからよ、私)
自分に向かってひとつうなずいき、私は更衣室を出た。
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プールサイドに出ると、男子たちはもう来ていた。足で水をバシャバシャしながら騒いでいる。
側にいたイツキくんがこちらを振り向いた瞬間、ぴたっと止まった。
「……どうしたの」
「い、いや。なんでもない」
顔が赤い。イツキくんが赤くなるのは珍しくないが、今日のは少し種類が違う気がした。
シンくんもプールサイドに立ったまま、こちらを向いてじっとしていた。
(ふふ。気づいてるみたいね♡)
口元がゆるみそうになるのを、私はじっと堪えた。
「おーい、プール来たやつは男女で別れて整列しろ〜」
先生の声がかかり、私たちはそれぞれプールサイドに向かっていった。
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「入る前に準備体操するぞ!危ないからしっかりやるように!」
男女別に分かれて、授業が始まった。対岸のプールサイドに男子たちが並んでいる。
私は準備運動をしながら、ふと女子側を見渡した。
豊が列の端にいた。大きな胸を隠すように、腕をぎゅっと交差させて、うつむいている。
対岸の男子グループから、くすくすという笑い声がした。
「牧瀬ってさ、デカくない?」
「やばいよな笑」
声は聞こえないものの、こんなことを話しているんだろう。
(……元男として気持ちはわかるけど、女側からすると気持ちいいものではないわね)
更衣室で豊が人より早く着替えを終わらせていたのを思い出す。誰にも見られないようにしていたのだ。水着になればごまかせないと、わかっていたはずなのに。
(今は放っておいてもいいけど...)
準備運動が終わると私は豊のほうへ向かっていった。
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「ねぇ、豊ちゃん。ちょっとこっち来て」
声をかけると、豊がびくっと肩を揺らしてこちらを向いた。前髪の奥の目が、驚きと怯えで揺れている。
私は先に用具入れの陰へ歩いた。振り返らなかったけれど、少しして後ろに足音がついてきた。
用具入れの影に入ると、男子たちの視線も先生の目も届かない。ふたりだけの、ひっそりとした空間になった。
「な、なに?愛鈴ちゃん」
豊の腕は、まだ胸の前でぎゅっと交差したままだ。
「腕、離してみて」
「……やだ」
「誰も見てないわよ」
「……だって、みんな笑うから」
(照れ隠しに茶化しただけなのに、この子はそれをずっと引きずってるのか)
「男子のこと?あの子たちはどう反応していいかわからなくて笑っただけよ。豊の胸がおかしいんじゃなくて、自分と違うものに照れちゃっただけ。それだけのことよ」
豊はしばらく黙っていた。
「……そうかな?」
「そうよ」
「……でも、はずかしい」
「ねえ、豊ちゃん」
「……なに」
「触ってみてもいい?」
豊の目が、ぱちくりと丸くなった。
「え」
「だめ?」
「……な、なんで」
「私のも触っていいから。いい?」
豊はしばらく固まって、それからおそるおそる腕を下ろした。
「……愛鈴ちゃんなら、いいよ」
私は豊の胸に、なるべく自然に触れるよう意識しながら手を当てた。
水着越しに、ふわりとした感触がある。
押すと、ゆっくりと沈んで、また戻ってくる。
温かい。自分のものとは明らかに違う、もっと柔らかくて、大きくて...でも、少し押し込むと奥の方に芯のような硬さがある。
外側のやわらかさとは別に、確かな存在感がそこにあった。
(……これはすごい!)
前世の記憶の中にある感触とも、また少し違う気がした。
この歳でこの大きさ。まだまだ成長途中と考えると末恐ろしい子だ。
(これは確かに目立つわね。周りと比較して負い目に感じるのも当然かも)
感心しながら、私はそっと手を離した。
「ぜんぜん恥ずかしくないじゃない。それも含めて豊よ。何も隠さなくていいわ」
豊はうつむいたまま、小さくうなずいた。しばらく間があって、ぽつりと言った。
「……いい?」
「うん?」
「……私もさわっていい? 愛鈴ちゃんの」
前髪の奥から、上目遣いでこちらを見ている。声が、ほとんど消えそうなくらい小さかった。
「言ったじゃない。触りっこだって」
私は胸が触りやすいように上半身を突き出した。
豊の手が、おそるおそる伸びてきた。水着越しに、そっと触れる。
自分で触るのとは、全然違った。
自分の手なら胸の感触が返ってくるけれど、他人の手は、ただそこにある重みとぬくもりだけがある。じんわりとした熱が水着越しに伝わってくる。
それだけのことなのに、なぜか少しだけ、息が止まりそうになった。
(……んっ...)
もっと気持ちいいのかと思っていたけれど、どちらかというと少し痛い。
豊の胸にあったあの外側のやわらかさが私にはまだ薄くて、芯の硬さばかりが直接当たっている感じがする。
(……まあ、そうよね。まだこれからの身体だもの)
前世の知識はあっても、身体はまだ小学五年生だ。性的な感覚がついてくるのはもう少し先の話らしい。
豊はそのまま、何も言わず私の胸を触り続けていた。
ただ、最初はそっと触れるだけだった手が、いつの間にか少しずつ動いていた。
(……あれ?)
よく見ると豊の表情が変わっている。さっきまでの怯えた顔じゃなくて、なんというか——顔が赤い。前髪の奥の目が、どこか潤んでいる。
「豊ちゃん?」
「っ——!」
名前を呼んだ瞬間、豊がはっと顔を上げた。自分の手が何をしていたか気づいたのか、みるみる耳まで赤くなった。慌てて手を引こうとするのを、私は特に止めなかった。
「ご、ごめん、なさい……!」
豊が顔を伏せて、前髪の奥に隠れた。
「別にいいわよ」
私はその前髪に、そっと手を添えた。
「……さっき胸のことも言ったけど、顔も同じよ。なんでそんなに隠すの」
豊は何も言わなかった。
「隠さなくていい顔してるのに」
少し間があって——ぽろっと、豊の目から涙がこぼれた。
涙で顔がぐちゃぐちゃになりながら、豊は小さく鼻をすすった。私は何も言わずに、ただ隣にいた。
体育の先生が「五年二組、整列!」と呼ぶ声がした。
豊が慌てて目を拭いて立ち上がった。
「……ありがとう、愛鈴ちゃん」
「どういたしまして」
歩きながら、豊は少しだけ前髪をかきあげた。
全部は上げず、でも全部は隠さない。そのくらいの距離感で、並んでプールの列に戻った。
列に並びながら、ちらりと豊の横顔を見た。
前髪が少しだけ上がった状態で、目が赤い。それでも、さっきよりずっと良い表情をしている。
先ほどまでのオドオドした雰囲気はそこにはなかった。
(自分で変わる気があるなら手助けしてあげてもいい。でも、どうせなら私好みに変えてあげるのも、悪くないよね?)
豊の美少女化計画が頭の中で勝手に広がっていく。
前髪、姿勢、服装
素材はいい。あとはどう磨くかだ。
プールサイドの対岸では、心が愛鈴の方を見ていた。
幼馴染の成長し始めた姿に無意識に目がいってしまったのである。
(……え?)
いつも微笑んでいる彼女の狩野であったが、一瞬だけ、愛鈴ちゃんの顔が———酷く歪んで見えた。
いつもの笑顔じゃない。もっと、違う恐ろしい何かのように見えた気がする。
見間違えかな。あの愛鈴ちゃんが、そんな顔をするわけがない。
「おいシン。どうした?」
イツキくんに肩を叩かれて、心はハッとした。
「……なんでもない。いまいく」




