第4話:ちゃんと、見ていてくれたのね
私たちの間に変化が起きたのは、ある午後の自由遊びの時間だった。
いつもなら私の方から心くんに声をかける。「今日は何を読むの」「一緒に見てもいい?」
そうやって、私が距離を詰めるのが当たり前になっていた。でも今日は違った。本のコーナーに向かおうとした私の耳に、先に声が届いた。
「愛鈴ちゃん」
振り向くと、心くんが少し照れくさそうに立っていた。両手で分厚い図鑑を抱えている。
「......一緒に、読も?」
(あら)
私は一瞬だけ、目を見開いた。たった一瞬だけ。それからすぐに笑顔を作った。「うん!一緒に見よ!」
(ふふ。自分から言えるようになったのね)
前回までとは違う。いつも誘われる側だった心くんが、今日は誘う側になっている。この小さな変化は、私の誘導が効いた成果だ。しゃがんで隣に座りながら、私は内心で小さくガッツポーズをした。
-----
今日の心くんが持ってきたのは植物の図鑑だった。
「なんで今日は花なの?」
「......どうぶつのつぎはしょくぶつがいいかなって」
「几帳面なのね」
心くんはきょとんとして、「きちょうめんって、どういういみ?」と聞いてきた。
私はちょっと考えてから「じゅんばん通りにするのが好き、ってこと」と説明した。
「......そうかな」
「うん!ちゃんとしてる人のことを、そう言うのよ」
心くんは少し間を置いてから、また本に視線を落とした。
耳が少し赤い。
(かわいい反応ね。この子、最近は褒める度に必ずこうなるわ)
私はページを一緒にめくりながら、ときどき心くんの横顔を盗み見た。
本を追う目が、真剣で、きれいだ。計算も駆け引きも知らない顔。
第一印象の時から、この子はずっとこうだ。変わらない。
-----
心くんが「あ」と小さく声を出したのは、その直後だった。
「どうしたの?シンくん」
「......わすれてた」
心くんがもぞもぞとポケットをまさぐった。出てきたのは、くしゃっと折りたたまれた画用紙だった。
「これ...」
広げてみると、クレヨンで描かれた絵が現れた。
青い背景に、白いぽつぽつがたくさん。
星空だ。ぽつぽつのいくつかは線で結ばれていて、たぶん星座のつもりなのだろう。
歪んでいる。お世辞にも上手いとは言えないが、丁寧だった。
「......なんで、星?」
「愛鈴ちゃん、まえに言ってたから」
「何を?」
「星って......ちゃんと見たことないって」
私は、思わず黙った。
そんなことを、言っただろうか。確かに、縁側で夕空を見ながら何かを言った気がする。
「ちゃんと形のわかる星座って、見たことないや」とか、そんな話だったかもしれない。
でも、それは本当にただのひとことだった。
こぼれたくらいの、本当に小さなひとこと。
(なんで覚えてるの)
私はいつも人を読む側だった。
なのに今、読まれていたのは私だった。心くんが、私のこぼしたひとことを聞いていた。覚えていた。家に帰ってから、クレヨンで星を描いた。白を一粒ずつ、画用紙に置いた。不器用に線を繋げて、星座にした。
(ほんとに無自覚なのかしら、この子)
計算じゃない。演出じゃない。この子は本当に、ただ、私が星を見たことがないと言ったから、星を描いた。
それだけのことを、それだけの純粋さで、してくる。
(ずるい)
そう思ったことに、自分で動揺した。
ずるい? 何が? ずるいなんて言葉、私が使う側じゃない。
人を動かすために使う言葉であって、自分が動かされた時に出てくる言葉じゃない。
(......まずいわね、これ)
胸の中で、何かがぱちりと揺れた。
小さな波だった。でも、確かに揺れた。
(.......だめ、だめ。いつもの私に戻りなさい)
心の中でぱちんと顔を叩いて、私はいつもの顔を取り戻した。口角を少しだけ上げて、視線をゆるやかに落として、声を柔らかく整える。このくらいの切り替えは、前世20年と今世6年で染みついている。
「ありがとうシンくん!覚えててくれて嬉しい♡」
声に出すと、心くんがぴくっと肩を震わせた。
耳どころか、首まで赤くなっている。
「......ど、どういたしまして」
(うん。余裕、余裕)
揺れていた胸は、もう元通りだ。大丈夫。
まだこの子は、私の手のひらの上にいる。
-----
その後、心くんは星の図鑑まで鞄から持ってきてくれた。
「先週かりてきた」という。
つまり、あの縁側の話を聞いてから、わざわざ借りてきたということだ。
一週間前から、ずっと持っていた。今日、渡すタイミングを待っていた。
(......待ってたんだ、この子)
私に渡すタイミングを、一週間も。
「愛鈴ちゃん、オリオン座、知ってる?」
「......名前だけね」
「このみっつが、ベルト。ここからたどって......」
心くんの指が、ページの上を動いた。
私は頷きながら、心くんの指の動きと、耳の赤さと、一生懸命な声のトーンを、さっきより少しだけ鮮明に感じていた。
(......ま、こういう日があってもいいよね?)
私は、貰った画用紙を四つ折りにしてポケットにしまってシンくんの話を聞いていた。
-----
家に帰って、自分の部屋に入った。
ドアを閉めて、ランドセルを置いて、私は画用紙を取り出し机の上に広げた。
皺だらけの夜空が、机の上で静かに光っていた。
(......やっぱりこんなの、持っていても仕方ないわ)
そう思って、ゴミ箱を引き寄せた。
画用紙をつまんで、ゴミ箱の上に持っていった。
しかし手が、止まった。
(……)
持っていても仕方ない、と思ったはずだ。
こんなの、ただの子供の落書きだ。下手な星座だ。捨ててしまえばいい。
計算の外にあるものは、全部切り捨ててきた。これもそのひとつのはずだ。
なのに、指が離れない。
「......なんで」
声に出してしまってから、部屋にいるのが自分ひとりだったことを思い出した。
誰も聞いていない。誰も見ていない。
なのに私は、ゴミ箱の上で画用紙をつまんだまま、一分近く動けなかった。
(......だめだわ)
ゴミ箱から画用紙を離して、ぱらりと机に戻した。
ぎゅっと目を閉じて、もう一度開いた。星空は、さっきと同じ場所で、さっきと同じ顔をしていた。
「......捨てるのがもったいなかっただけよ」
誰に言い訳しているのかもわからない声で、私はそう呟いた。
-----
机の上に飾ろうかと、ほんの一瞬だけ考えた。でも飾ったら、お母さんに「誰からもらったの?」と聞かれる。
聞かれたら、答えなきゃいけない。答えたら、何かを認めたことになってしまう気がした。
だから私は、引き出しを開けた。
空っぽの引き出しの、一番奥に、画用紙を滑り込ませた。
皺を伸ばして、そっと、そっと、置いた。
引き出しを閉める前に、もう一度だけ青い夜空を見た。
ほんの一瞬だけ。
それから、ちゃんと閉めた。
(そ、そう! これは見なかったことにしましょう! 別に……嬉しかったわけじゃ、ないもん)
ぎゅっとカーテンを引いて、私はベッドに倒れ込んだ。
枕に顔をうずめて、しばらくじっとしていた。
胸の中で揺れた小さな波のことは、もう考えないことにした。
それで十分だった。
十分のはずだった。




