第9話 王女様とのお茶会
王宮の回廊を歩くたびに、お腹の底から熱がじわりと湧き上がってくる。やはり王宮は特別だ。貴族の屋敷とは違う、圧倒的な華やかさと格式、そしてどこか理性を狂わせるような夢心地の空気が満ちている。
わたしはそっと指を滑らせ、胸元で微かに熱を帯びているブローチに触れた。見た目は美術品のように美しく、貴婦人の洋装に調和している。だからこそ余計に、この存在が孕む意味の重さにため息が漏れてしまう。
「綺麗なのよね、本当に……見た目だけは」
問題は、この美しい工芸品に秘められた恐るべき機能だ。ヴァル様が、わたしの居場所をいつでも把握できるという、自由とは何かを考えたくなるような代物。どう考えても、重すぎる。いや、彼の狂おしいほどの独占欲など今さら知っているけれど。
案内の近衛侍女に恭しく導かれ、リュシエンヌ王女の私室の前に立つ。扉が開くと、心地よい薔薇の芳香がふわりと流れ出てきた。
「ノーラ!」
待ちわびていたような明るい声とともに、リュシーが小走りで駆け寄ってくる。淡い桃色のドレスをまとった王女は、相変わらず花のように眩しく華やかだ。黄金の髪がふわりと揺れ、エメラルドの瞳が嬉しそうに輝いている。
「リュシー!」
わたしたちは吸い寄せられるように抱き合った。一か月程度会えていなかっただけなのに、その間に濃密すぎる地獄と天国を味わったせいで、まるで何年も会っていなかったかのような切なさが込み上げる。
「やっと会えたわね! ふふ、顔色はすこぶる良さそうじゃない。むしろ、以前よりも大人っぽくなっているけれど……」
リュシーは顔を覗き込みながらそう言った。意味深な笑みだ。
「どういう確認なのよ、それ……」
「だって、あのヴァレンティアス様に監禁されたって聞いたから心配だったのよ」
「監禁なんてされていないわ……!」
わたしは反射的に全力で否定し、そこでハッと言葉に詰まった。……うん、あれは監禁ではない。一時、ベッドから出してもらえなかっただけで。鎖の代わりに彼の腕でずっと縛られていただけで。
リュシーが、そんなわたしの微細な反応を見逃すはずもない。
「ねえ、ノーラ?」
「……細かいことは、大人の事情として華麗にスルーしてちょうだい!」
「気になるわよ、その生々しい反応は!」
王女はお腹を抱えながら、上品に声を立てて笑った。その親愛に満ちた笑い声につられて、わたしも思わずふっと吹き出してしまう。
リュシーの私室は、この世で最も居心地のいい秘密の楽園のようだった。大きなアーチ型の窓からは息を呑むほど美しい王宮庭園が一望でき、白いレースのカーテンが風に優しく揺れている。丸いテーブルの上には、名物の薔薇のタルト、レモンの香り焼き菓子、一口サイズのサンドイッチ、そして磨き抜かれた銀のティーセットが並べられていた。
「さあ、遠慮しないで座って」
「ありがとう。お邪魔するわね」
わたしがふうと息をついて椅子に腰を下ろした時、リュシーのエメラルドの瞳がぴたりとわたしの胸元で停止した。そして、たまらないと言わんばかりに、にやりと小悪魔的な笑みを浮かべる。
「そのブローチ、とても素敵ね。旦那様からの愛の証かしら?」
わたしは遠くを見つめながら、苦笑いを浮かべた。
「そうね。いろんな意味で、重い愛の証よ」
「素敵じゃない。それで、それで? どんな魔道具なのかしら?」
そうだった。彼女、可愛い顔をしてとても優秀な魔術師なのだった。リュシーは好奇心を抑えきれない様子で、身を乗り出してきた。
「だって気になるじゃない。天下の冷徹侯爵アークレイン卿が本気を出した魔道具だもの。王宮のどこにいるか分かるの?」
「……分かるらしいわよ、残念ながら」
「じゃあ、このまま中庭に出て行ってもすぐに気づかれるってことね。他には?」
「今まさに、夫の脳内ではわたしの心拍数が実況されているらしいわ……」
気まずい沈黙のあと、リュシーは耐え切れなくなったようにテーブルに突っ伏して、肩を震わせて笑い始めた。
「ヴァレンティアス様、相変わらず恐ろしい人ね……!」
「わたしもそう思うわ。毎日心臓が持たないもの!」
わたしたちは顔を見合わせ、しばらくの間、可笑しさで笑いが止まらなかった。ようやく呼吸を整えて落ち着いた頃、リュシーが自ら優雅にティーポットを傾け、香りの良い紅茶をカップに注いでくれた。立ち昇る琥珀色の液体から、ふわりと優しく上品な花の香りが漂う。
「これ、飲んでみて。今年の春に、遠い南方から届いたばかりの珍しい茶葉なのよ。甘い香りがするでしょう?」
わたしは両手でカップを持ち上げ、そっと唇を寄せて一口飲んだ。舌の上で芳醇な香りが花開き、後から蜂蜜のように濃厚な甘さがとろけるように残る。
「……美味しいっ……!」
「でしょう? あなたが気に入ってくれると思ったの」
リュシーは満足げに、花がほころぶような笑みを浮かべた。
そのあとは、久しぶりに訪れた完全なる平和な時間だった。最近流行している、胸元を大胆にレースで飾ったドレスの仕立ての話。王都の路地裏にある隠れた名店の、焼きたてマカロンの話。新しく宮廷に抱えられた、変わり者の若い薬師の噂話。そして、王太子殿下が連日積み上がる書類の山に絶望して遠い目をしているという笑えない噂話。
当然の流れとして、昨今の夫の話へと転がり込んでいく。
「それで、話で聞いたのだけれど、本当に騎士団第二部にぐるぐる巻きにされて連行されたわけ?」
「されたわよ……。人生であんなに恥ずかしい思いをしたのは初めてだわ」
「見たかった! ぜひとも絵画に残してほしいくらいだわ!」
「わたしにとっては一生封印したい過去よ!」
わたしは頬をふくらませて拗ねてみせるが、リュシーはふと優しい微笑みを浮かべ、カップをソーサーに置いた。
「でもね、ノーラ。ヴァレンティアス様って……本当に、心の底からあなたのことが好きなのね」
その言葉に、ふとわたしの胸がきゅっと締めつけられた。好き、という言葉で片づけていいのかどうか分からないほど、あの人の心は読み取ることができない。常にわたしを独占したがり、他の男性の視線すら許さず、時には本気で閉じ込めようとする危険なまでの執着。でも……。
わたしは、カップの中で揺れる琥珀色の紅茶に視線を落とした。
「……重いのよ、本当に。言葉にできないくらい、逃げ場がないくらい重いの」
「うん、知っているわ」
「でもね……不思議と、嫌ではないのよね」
リュシーの表情が、春の陽だまりのように柔らかくほどけた。
「知っているわよ。そんなの最初からお見通しよ」
わたしは小さく笑った。親友の前ではどんな強がりも意味を成さない。
他愛のないおしゃべりに夢中になっているうちに、時間はあっという間に過ぎ去っていく。ふと、リュシーが何かを思い出したようにエメラルドの瞳をぱっと輝かせた。
「ねえ、ノーラ」
「ん? どうしたの、リュシー」
「今晩ね、この王宮でちょっとした夜会があるのよ」
夜会。その甘美で危険な響きを持つ言葉によって、わたしの身体の奥底に眠る好奇心の炎が一気に燃え上がってくる。
「夜会……?」
「ええ。大々的な公式の舞踏会なんかじゃないわ。王宮のサロンで開かれる、こぢんまりとした集まりよ」
リュシーは楽しそうに微笑みながら、タルトを一口運んだ。
「招待したのは、身内やごく一部の貴賓を含めても十数人程度。堅苦しい挨拶なんてなしで、ただ音楽を聴いて、お酒を飲んで、気心の知れた友人同士でおしゃべりをして、軽くダンスを踊る程度のものよ」
心臓が大きな音を立てて跳ねた。大規模な夜会でないということは、見ず知らずの男性たちが大勢群がるような危険はない。しかもここは安全な王宮。ヴァル様は、今まさに同じ王宮の敷地内で執務に追われているはずだ。これは……もしかして、またとない極上の好機なのでは……?
「ねえ、ノーラ。あなたも今夜、わたくしの招待客としてこの夜会に参加しない?」
脳内では、リュシーの甘美な誘惑の警報と、愛しい夫の恐ろしい顔を思い出す生存本能の警告が、同時に激しく鳴り響いた。
参加したい。あの日行けなかったパーティーの代わりに、今度こそ美しいドレスをまとって、優雅な音楽に身を委ねたい。リュシーと並んで、華やかな夜の空気を楽しみたい。でも、ヴァル様の言葉がくっくりと蘇ってくる。
——『絶対に、勝手に王宮から出ないでね』
——『迎えに行く。僕を待っていてね』
今朝、彼と別れる前に言われた言葉。そして何より、胸元で脈打つ魔道具。王宮から出るわけではないけれど、もし許可なく夜会に参加しようものなら、今度はどんなお仕置きが待っていることか。想像しただけで背筋が凍る。
「リュシー……わたし、今すごく重大な局面に立っているわ……」
「何を言っているの。小さなサロンの集まりじゃない」
「小さな問題ではないわ! 夜会に行ったら、このブローチのせいでヴァル様にすぐばれてしまうわよ!」
「バレるでしょうね、間違いなく」
リュシーはあまりにも平然と言ってのける。わたしは頭を抱えて、テーブルに突っ伏したい衝動に駆られた。
「じゃあ、行けないじゃない……!」
絶望的な声を上げるわたしに対し、リュシーはふっと美しく微笑むと、優しくこう諭したのだった。
「——ねえ、ノーラ。あなた、すぐに『どうやってヴァレンティアス様の目を盗んで隠れるか』ばかりを考えるようになっていない?」
「っ……! それは、だってお手上げだもの……!」
「違うわよ。まず、どうやって夫から堂々と許可を得るかを考えなさいな」
あまりにも真っ当で、ぐうの音も出ない正論だった。わたしは返す言葉を失い、窓の外へと視線を移す。夕暮れの茜色の光が、広大な王宮庭園を黄金色に染め上げていく。夜の帳が下りれば、サロンには美しい灯りがともり、心地よい音楽が流れ、人々がグラスを傾け集うのだろう。胸の奥で、甘い期待と切なさが大きく膨らんでいく。行きたい。やっぱり、諦めたくない。
わたしはゆっくりと顔を上げ、強い決意を込めてリュシーへと向き直った。
「……ねえ、リュシー」
「ふふ。その顔、気に入ったわ」
「どんなドレスが、あのサロンの雰囲気に一番似合うかしら?」
「その言葉を待っていたわ! さあ、今すぐ最高に可愛い作戦を立てましょう!」
リュシーの顔がぱっと太陽のように鮮やかに輝いた。




