第10話 王太子と侯爵(1)
ヴァレンティアス・アークレインは、積み上げられた最後の外交通商書類に最後の一線を引くと、重たげにそのペンを置いた。長時間の執務によって、肩や首筋にはずしりとした心地よい疲労感が広がっている。
「……ようやく、終わったな」
低い声が、静まり返った執務室に落ちる。その向かいの席で、同じように山のような書類の束を閉じたクラウディオ——この国の王太子が、全身の骨を鳴らすように大きく伸びをした。ふう、と情けない息を吐いた後、彼は気だるげに顔を上げる。
「お疲れ、ヴァル。よく耐えたな、この地獄の決裁の山に」
「溜め込んだのは貴方でしょう、殿下」
「仕事は終わった。それに、この部屋には誰もこない。いつものように、クラウドと呼んでくれ」
ずっかり気の抜けた声色に、ヴァレンティアスは表情を緩ませて鼻で笑った。公式の場や他人の前では、厳格な言葉遣いを貫くが、こうして二人きりになると、自然と学生時代からの気心の知れた呼び方に戻る。
身分違いの友人。国を背負う王太子と、最強の能力を持つ侯爵という立場の差はあれども、お互いの腹の内を読み合えるような気安さだけは何年経っても変わっていない。もっともクラウディオは時々「お前は堅苦しくて融通が利かない男だな」と呆れたように文句を垂れるのだが。
机の上には、隣国との危険な駆け引きを伴う通商交渉の極秘報告書、騎士団の兵力再編案、そして血生臭い国境警備の膨大な予算案が、厚い壁のように山積みになっている。今日の打ち合わせは、文字通り息つく暇もないほどに長かった。
取り扱ったのは、国家の命運を握る政治、軍事、財政、そして一歩間違えれば開戦にも繋がりかねない外交の機微ばかり。どれも一切気を抜けない、神経をすり減らすものばかりだ。だからこそ、すべての重責をいったん脱ぎ捨てたこの瞬間の奇妙な解放感は大きく、そして——その脳裏には、仕事の間中ずっと押し殺していた別の熱が、堰を切ったように激しくせり上がってくる。
クラウディオは椅子に深くもたれかかり、首をゴキリと鳴らしてから、にやにやと悪趣味な笑みを浮かべた。
「で、どうなんだ? エレオノーラはちゃんと大人の女性らしく茶会を楽しんでいるのか?」
開口一番、向けられたその言葉に、ヴァレンティアスはわずかに眉を上げる。
「……いきなりだな。相変わらず、人の心を読むのが上手い男だ」
「お前のその、張り詰めているくせに焦点の定まっていない顔を見れば一発で分かるさ。今この瞬間も、頭の半分くらいは『僕の可愛い妻は安全だろうか』『僕のことを思い出してくれただろうか』と考えているだろう」
「否定はしないさ。否定する理由がどこにある」
開き直ったように呟くヴァレンティアスを見て、クラウディオは盛大に吹き出した。
「相変わらずだなぁ、お前という男は……愛が重すぎて、もはや恐ろしいぞ」
ヴァレンティアスは特に言い返すこともせず、苦笑いを浮かべながら、ジャケットの内ポケットに手を差し入れた。そこから取り出したのは、冷たい光を放つ小さな水晶板。魔力を通すと、淡い光の点が浮かび上がる。
この場所は……リュシエンヌ王女の私室だ。光の点はそこから移動することなく、その場にとどまり続けている。つまりエレオノーラは今もそこで、親友と茶を飲んでいるということだ。どこかへ勝手に走り出したり見知らぬ男の影に怯えたりすることなく、彼の定めた安全圏の中で息をしている。その事実を確認できただけで、先頭の直前のように張り詰めていた緊張が、するすると緩んでいくのを感じた。
「おいおい……本当に使っているのかよ。お前が開発したその追跡魔道具なんて洒落にならないものをさ」
クラウディオは呆れ半分、面白がり半分の複雑な顔をしながら、身を乗り出してその水晶板を覗き込んだ。
「非常に便利だ。これ以上の傑作はない」
「便利の方向性が狂っているんだよ。それじゃあまるで、愛玩動物の首輪だぞ」
「愛玩動物とは違う。ただ彼女が僕の視界や手の届かない場所からいなくならないと分かるだけで、この狂いそうな胸がいくらか正気を保てるんだ」
ヴァレンティアスがあまりにも真剣にそう言い放つと、クラウディオは絶句したように沈黙し、やがて腹を抱えて肩を激しく震わせた。
「お前さぁ……重症の愛妻病通り越して狂気だな」
「自覚はある。あるからこそ、厄介なのだと言っている」
だから何だ、と言わんばかりの冷たい眼差しを向け返すと、クラウディオは頭を抱えて「もう勝手にしてくれ」と笑った。ヴァレンティアスは水晶板を再び懐にしまい込み、窓の外へと視線を向ける。夕暮れの光が、王宮の広大な庭園の緑を金色へと染め上げている。
——エレオノーラは今、心から楽しんでいるだろうか。
最近の彼は、彼女を自分の腕に縛り付けるあまり、まともに自由な外出すら与えていなかったという自覚がある。昨夜もあんなに激しく、彼女の理性を焼き切るほど何度も愛し尽くし、泣きじゃくる声を聞きながらようやく眠りにつかせたというのに。
本当は、もっと広く外の世界を見せてやりたい、彼女が望むように自由に微笑んでほしいと理性では思っているのだ。だが実際に彼女が外に出るとなると、どうしようもなく不安と嫉妬の炎が内側から内臓を焼き焦がさんとばかりに燃え盛る。気づいた時には、追いかけ、縛り、捕らえ、身体の奥深くまで自分の刻印を押し付けて安心しようとしている。
「……反省はしているのだがな」
ふと、ガラスに映る己の姿を見るように、ヴァレンティアスはかすれた声をこぼした。クラウディオがそれを聞き逃すはずがなく、動きを止めて問い返す。
「何をだ?」
「……色々と、だ」
「色々とって、お前がその言葉でごまかそうとする時は大体ロクでもないことを考えている時だぞ」
ヴァレンティアスは苦笑いをかみ殺した。細かく説明しようとすれば、夜が明けてしまうだろう。
エレオノーラが事あるたびに外の空気を吸いたがること、夜会などのパーティーに行きたがること。その小さな願いすら、自分が強引にねじ伏せてしまうこと。彼女に嫌われたくない、もっと愛されたいと渇望しているくせに、その手法がどうしようもなく強引になってしまうこと。そんなドロドロと渦巻く複雑怪奇な愛憎の感情を、一言で他人に説明できるわけがない。
クラウディオはじっと目の前の親友の顔を観察していたが、やがてすべてを察したように、ふっと穏やか笑みを浮かべた。
「まあ、不器用極まりないが……お前が誰よりも本気で、命に代えてもいいくらいエレオノーラのことを愛し、執着しているのは痛いほどよく分かっているよ」
「……そんな風に見えるか?」
「見えるさ。重すぎて、そういう癖なのかと思えるほどにな。ああ、実際そうか」
ヴァレンティアスは鋭い睨みを利かせたが、クラウディオはケラケラと楽しそうに笑うばかりだ。……子供の頃からずっとこうだ。この国を統べる次期国王でありながら、妙に人の心の裏を突くのが上手く、他人をからかうことに情熱を燃やす男だった。
やがて、クラウディオはふっと表情を引き締め、手元の引き出しから一通の封書を取り出した。
「っと、危ない。一番大事な本題を忘れるところだった」
「何だ。これ以上厄介な外事の沙汰か?」
「いや、外交というか……もっと頭の痛い、お前の大嫌いな系統の案内状さ」
クラウディオは取り出した書状を見た途端、ヴァレンティアスの整った眉が不快そうに険しく歪んだ。
見るまでもない。嫌な予感しかしない。そこには王家を象徴する豪奢な金の封蝋と、厳重な王家の紋章がこれでもかと押し付けられていた。




