第11話 王太子と侯爵(2)
「来月、盛大に執り行われるパーティーの件だ。隣国の第三王子が、正式な使節団を率いてこの王都にやってくる」
「ああ。その話なら既に予備報告に目を通しているが」
「その歓迎と親善のための、国家公式の盛大なパーティーを開くことになった。我が国の主要貴族や行為爵位者は、例外なく全員参加が義務付けられている」
ヴァレンティアスは無言のまま、冷ややかな手つきでその書状を受け取った。断る余地など最初からない、絶対的な王命である。
「当然、お前も参加しろよ」
「……それは命令か?」
「半分は王太子としての厳重な命令、もう半分は親友としての切実なお願いだ。分かってくれよ、隣国とのパイプ作りにはお前の力が必要なんだからさ」
「断ったらどうなる」
「母上が『ヴァレンティアスちゃんが来てくれないなんて寂しいわ』ってハンカチを噛んで泣くことになり、父上の髪が落ちて胃に穴が空く」
王妃の涙と国王の髪を盾にするなど、相変わらずずる賢い脅し文句だ。ヴァレンティアスは頭が痛いと言わんばかりに、こめかみを指で押さえて深く深くため息をつく。
社交界の華やかな喧騒そのものが嫌いなわけではない。国家の貴族として、必要な場であることくらいは頭では十分に理解している。
問題は——そこに、「エレオノーラ」という存在が絡むことだ。
エレオノーラは美しい。本人はこれっぽっちも自覚していないが、彼女がひとたび丁寧に磨き上げられ、夜会の灯りの下に立てば、その透明な美しさは嫌でも周囲の視線を根こそぎ奪い去ってしまう。夜会の群れに放り出せば、無数の野蛮な男共が群がり、表だけの甘い言葉を囁き、あの儚げ出会いらしい笑顔に魅了されようとするだろう。
見ず知らずの男共が彼女に近づき、声をかけ、肩や手に触れようとする——それを想像しただけで、ヴァレンティアスの胸の奥では黒々とした殺意に近い炎が暴れ狂いそうになる。理性が音を立てて崩れ去りそうになるのだ。
「……エレオノーラも連れて行くべきか」
考えまいとすればするほど脳裏にくっきりと蘇る妻の姿に、思わず本音が零れ落ちた。それを聞いた瞬間、クラウディオはまたしても盛大に吹き出す。
「そこを悩むのかよ!」
「当然だろう。あんな肉食獣の群れがうごめく場所に、僕の大切でたまらない妻を無防備に晒せと?」
「夫婦揃っての公式参加なんだから当たり前だろう! 何を今更怯えているんだよ。お前がいつまでも家に閉じ込めているから感覚が狂っているんだぞ」
ヴァレンティアスは腕を組み、再び苦渋に満ちた表情で押し黙った。正式なパーティーに、侯爵である自分が単身で参加し、妻を屋敷に置き去りにするというのは、貴族社会のしきたりとしても不自然極まりない。そんな真似をすれば、余計に不快な噂が立ち、むしろ不届き者どもの下品な詮索を招くだけだ。
理屈では分かっている。分かっているのだが——。
「……隣国の第三王子という男は、あれだろう。女好きで、あちこちの夜会で浮名を流していることで有名な……」
「ああ。事前の素行調査でも、かなりの芸術愛好家にして、気に入った貴婦人にはところ構わず口説き文句を並べる厄介な嗜癖の持ち主だと聞いているが」
「論外だ。そんな男と同じ空間にエレオノーラを置くなど、吐き気がする」
「おいおい、嫉妬の化け物かお前は。子どもじゃないんだからさ」
クラウディオは呆れ返ったように両手で額を押さえたが、ヴァレンティアスは本気だ。血管が引き裂かれそうなほど真剣に、怒りを滾らせている。
隣国の第三王子、レオニード。噂に違わぬ女好きで、これまでに何度も他国の貴族夫人や令嬢をその甘いマスクと巧妙な言葉で口説き落してきたという。もし、そんな男が満面の笑みを浮かべてエレオノーラに近づき、彼女のサファイアのように美しい瞳を覗き込みでもしたら——その場で剣を抜いて王宮の床を血で染めかねない自信があった。
「ヴァル」
ふと、クラウディオの声色がわずかに真面目な響きを帯びた。先ほどまでのふざけた調子は消えている。
「なんだ」
「エレオノーラはお前の妻だ。法の下でも、お前自身の檻の中でもな」
「……言われなくても分かっている」
「そして、彼女は他の誰でもなく、お前を選んでアークレイン家にいる。そして、お前の異常な愛を受け入れているのだろう?」
その核心を突くような言葉に、ヴァレンティアスは一瞬息を呑んだように言葉を失った。
分かっている。頭のてっぺんから爪先まで、そんなことはとうの昔に理解しているつもりだ。エレオノーラは逃げようとして、それでも最終的には自分のもとに戻ってくる。夜会に行きたいと駄々をこねることはあっても、自分を捨てて他の男のところへ行くような残酷な真似をする人間ではないことも、彼女のまっすぐな瞳を見れば痛いほど分かる。
それなのに——自分はいつまで経っても、「いつか彼女が自分の手からすり抜けて、見知らぬ誰かに奪われてしまうのではないか」という底知れない恐怖と独占欲を手放せずにいる。
彼女が優しく微笑んでくれるたび、愛を囁いてくれるたび、誰の目にも触れぬよう自分だけのものにしてしまいたいという狂気が増していくのだ。
クラウディオは、そんな友人の歪み切った、しかしあまりにも純度が高すぎる苦悩の色を帯びた表情をじっと見つめ、小さく苦笑した。
「まあ、お前が一朝一夕でその病的な独占欲を治せるとは思っちゃいないがな」
「治す気など、最初からない。彼女を失う恐怖を忘れるくらいなら、狂ったままでいい」
「おいおい。重すぎて聞いているこっちが背筋寒くなるぞ。少しは自重しろ」
二人は同時に、自嘲混ざりの苦笑をこぼした。窓の外の空は茜色の残り香を飲み込み、群青色へと移り変わり始めている。王宮の庭園には、魔法の灯りが一つ一つと、柔らかく、まるで星屑をばらまいたように灯り始めていた。
その幻想的な光景を見つめながら、ヴァレンティアスは今後の計画を組み立て直していた。
来月開催される、隣国の王子を招いたパーティー。正式な社交の場、逃げることのできない国家の行事。侯爵としての立場上、参加しないわけにはいかない。そして間違いなくエレオノーラも、その華やかな舞台に連れて行くことになる。彼女はきっと、手紙を見せてきた時のように目を輝かせ、どんなドレスを着ようか胸を高鳴らせ、久しぶりの大きなパーティーに胸をときめかせるに違いない。その無邪気で美しい、花がほころぶような笑顔を想像するだけで、胸の奥底には形容しがたい温かい熱が広がると同時に——それ以上に強烈でな独占欲が胃の腑を締め付けるように湧き上がってくる。
「……まあ、流石にこの規模のものともなれば、参加しないわけにはいかないよな」
まるで自分に言い聞かせるように低い呟きを漏らすと、クラウディオは途端に意地の悪そうな、からかうような笑みを浮かべた。
「おいおい、やっと観念したか? 覚悟を決めたのだな、ヴァル」
「あぁ、諦めるさ」
「ほう、珍しく素直ではないか。隣国の王子に取られる心配よりも、夫婦仲の良さを見せつける余裕ができたか?」
「いや」
ヴァレンティアスは一切の冗談を交えず、ただこう言い放った。
「どうやって、その会場で……彼女を他の男に見せないまま僕の腕の中に隠し通すか。そのための計画を今から頭の中で終わらせるところだ」
数秒間の、凍り付くような静寂。そして彼の言葉の意味を理解した瞬間、クラウディオは腹を抱え、涙を流すほどに大爆笑し始めた。
「やっぱりお前、全く諦めていないじゃないか——っ! 最高に狂っているぞ、お前という男は!!」
親友の笑い声を耳から流しながら、ヴァレンティアスは懐の水晶板に触れ、愛しい妻の鼓動を感じながらそっと目を閉じるのだった。




