第6話 仕事中の彼
「…………」
わたしは、ヴァル様の膝の上に座らされていた。彼に抱きこまれるような体勢で固定されている。
「ヴァル様。これ、解いてください」
「嫌だ」
わたしの言葉を聞いていないのではないかと思うほどに早い答え。わたしは額を押さえたくなった。両手が使えないので無理だけれど。柔らかな布で手首と腕がまとめられている。痛くはなく、長時間拘束しても負担にならないように巻かれているらしい(ヴァル様曰く)。流石騎士様と言うべきなのだろうか。
ヴァル様は何事もなかったかのように書類へ視線を落としている。わたしの身体は彼の胸に預ける形になっており、背中越しに規則正しい心臓の鼓動が伝わってくる。彼の香りに包まれていて、こんな状況でなければときめいていたかもしれない。いや、正直に言おう。少しドキドキしている。
彼は器用に片手でペンを走らせ、もう片方の手は……わたしの腰に回されて、服の上から腰のラインをなぞるように動かされていた。
「っ……!」
くすぐったい箇所を触れられ、背筋がびくりと跳ねる。彼の指が狙ったように脇腹や腰骨など敏感な箇所を刺激するたびに、甘い刺激が全身を駆け回って、喉の奥からは堪え切れない恥ずかしい声が零れ落ちた。
「んっ……や、やめてください……っ。お仕事中、でしょう……?」
「仕事はしているよ」
涼しい顔で答えるヴァル様の指は止まることなく、ドレス越しにわたしの素肌をなぞるように滑らかに移動していく。
「ほら。声を我慢しないと、もっといじめたくなるよ」
耳元で低く囁かれ、熱を帯びた吐息がうなじを舐めるように吹きかけられる。わたしが思わず身体を硬直させ、身悶えしながら小さな嬌声を漏らすと、ヴァル様は満足げに喉を鳴らして微笑んだ。
「わ、笑わないでください!」
「ふふ。可愛いね」
じとりと彼を睨みつけると、ヴァル様は笑いながら書類に視線を戻した。ずっとわたしに構っているように思える彼だけれど、仕事をしている彼の顔は真剣そのものだ。眉間にうっすらと皴を寄せ、難しそうな報告書を読んでいる。それなのに片手では妻の腰をもてあそび、綾井宇場所を指先でなぞっては甘い声を引き出そうとしている。どうしてこんなに器用なの。
わたしはふいと顔を背けた。窓の外はすっかり暗くなっていた。それを見ると、胸がちくりと痛む。今頃、ローゼンフェルト公爵邸では舞踏会が始まっているはずだ。音楽が流れ、シャンデリアが輝き、貴婦人たちが華やかなドレスで舞っている。自分もその中にいるはずだったのに、現実では夫の職場でぐるぐる巻きにされている。
「人生って理不尽だわ……」
ぼそりと呟くと、ヴァル様が「うん?」と聞き返してきた。
「何でもありません」
「そんなにパーティーに行きたかったの?」
図星を突かれ、わたしは唇を尖らせた。答えるのは悔しいので黙っていると、ヴァル様は何かを考えるように目を伏せた。その間も、腰に置かれた手はわたしの身体を撫で回している。考えている時くらいは我慢できないのか。
「エレオノーラ。どうして、そんなに夜会が好きなの?」
不意に、真面目な声で問われてた。わたしは言葉に詰まる。どうしてと、改めて問われると難しい。
「……人と会うのが好きなのです」
「僕では足りない?」
すぐにそう来る。わたしは慌てて首を振った。
「そういう意味ではありません! もちろん、ヴァル様は大好きですし、ヴァル様がいてくださると幸せな気持ちになります」
ヴァル様の表情が目に見えて和らいだ。まったく、この人は。
「ですが、友人たちと話したり、新しい噂を聞いたり、音楽を聴いて踊ったり、ドレスを着たり……。そういう時間も好きなのです。ヴァル様と結婚する前のわたしは、そうやって生きていましたから」
ヴァル様の胸が、背中越しにゆっくりと上下するのが分かる。しばらく沈黙が続き、ペンの音だけが部屋に響く。こんな時でも仕事を続けている彼は、確かに優秀と言えるのだろうけれど物申したい気持ちにはなる。
やがて、彼はぽつりと呟いた。
「……分かっているよ。君からすべてを奪いたいわけではない」
わたしが目を瞬いていると、腰に回されていた手がふっと緩み、わたしの肩を優しきく引き寄せた。
「ただ、君が誰かに連れて行かれるのではないかと思うと、怖いんだ」
その言葉に、わたしの胸がきゅっと締め付けられる。”あの日”から、ヴァル様は時々、独占欲や嫉妬の奥にある不安を漏らすことがあった。それに触れてしまうと、わたしは何も言えなくなる。
「……わたしは、いなくなりません」
「でも今夜、勝手にいなくなろうとしていただろう」
「それは……! パーティーに行こうとしただけで、ヴァル様から離れようとしたわけではありません!」
思わず振り返ると、顔が近かった。鼻先が触れそうな距離。ヴァル様の青銀色の瞳が、至近距離で細められて、心臓が跳ねた。
「エレオノーラ」
甘い声。その唇が、拒む間もなくふわりとわたしのそれに重なる。不意を突かれた軽い口づけのあと、彼は熱を帯びたひとみで見つめてくる。
「君。今、自分から顔を近づけたね。僕の唇が欲しいのなら、そう言ってくれたらいいのに」
「違っ——」
言い返そうとした時、彼の指が拘束紐の端を軽く引っ張った。
「きゃっ……!」
身体がヴァル様の胸に引き寄せられ、重なるように密着する。さらに逃げ場を塞ぐようにして、今度は先程よりも深い口づけが降り注いだ。抗議の声を吐息ごと吸い尽くされ、わたしの頭はくらくらするほどの熱に溶かされていく。
「んっ、はぁ……っ。も、だめ……」
「君の反応が可愛いから。許してほしいな」
満足そうに微笑むヴァル様は、片手で器用に次の書類へ署名しながらも、もう片方の手でわたしの身体を触り続けている。どうしてこの人は、仕事と色気を両立できるのだろう。
数分後、わたしはすっかり骨抜きにされてぐったりと力を抜いた。するとヴァル様は「大人しくなってくれた」と嬉しそうに囁き、わたしの首筋に熱い口づけを落とす。わたしは愛玩動物なのか。じとりと彼を睨んだが、ヴァル様はまったく気にしない。むしろ機嫌が良くなったようだ。
やがて、机の上の書類の山が少しずつ減っていく。ヴァル様の表情も、最初より柔らかくなっていた。
わたしはふと、その横顔を見つめる。長い睫毛に、整った鼻筋、真剣な眼差し。社交界では、「冷徹な侯爵」として恐れられる男性。そんな彼は、わたしの前だけはこうして愛を見せてくれる。状況はおかしいけれど……心が温かくなる。
「……ヴァル様」
そっと彼の胸に自ら顔を寄せると、彼はペンを止めてわたしを見下ろした。安心したように目を細めたヴァル様は、愛おしそうにわたしの頬を撫でる。
「これ、解いてくれませんか?」
「いいよ。その分夜は長くなるけれど、それでも解く?」
「——っ!?」
ヴァル様の甘い囁きに、わたしはただ顔を伏せるしかなかった。




