第4話 連行
向かいに座るヴァレンティアス様は、完璧な姿勢で座り、長い脚を組み、いかにも「妻の逃亡を阻止しました」と言いたげな満足そうな空気を漂わせている。しかし馬車が走り出した途端、彼は長身を滑らせるようにわたしの隣へと移動し、問答無用で腰を引き寄せて自身の膝の上に無理やり跨らせた。
不意打ちの姿勢にわたしが声を上げる暇もなく、濃厚な口づけが降ってくる。服の上からでも伝わる体温と腕の締め付けに、脳が溶かされそうになる。唇を貪り尽くされるような口づけの合間、耳元で囁かれた。
「……で? まだ逃げる気があるのかな、可愛い妻よ?」
「んっ……な、なにいって……っ」
「お仕置きの続きがほしいのなら、今からいくらでも教えてあげるけれど」
その本気の声色に、わたしは全力で首を振るのがやっとだった。悔しい。とても悔しい。わたしが彼を出し抜くことなんてできないのだと突き付けられた気持ちになる。わたしは乱れた髪や服を直しながら彼を睨むと、彼は涼しい顔をして微笑み返した。
馬車が屋敷の門をくぐる。扉が開かれると、先に降りたヴァル様が当然のように手を差し出してきた。わたしは一瞬だけ無視してやろうかと考えたが、彼に良い笑顔で見つめられていると耐えられなくなって、結局その手を取る。大きくて、温かい手。悔しいことに、安心してしまう。
しかしその手に力が込められて、馬車を降りるやいなやヴァル様はわたしを抱き寄せて、耳元に唇を寄せた。
「……部屋に戻ったら、今度は君のその綺麗な足首を鎖で繋いであげるね」
「っ……!」
ぞくりと背筋を冷たいものが走る。わたしは反射的にそっぽを向いた。そんなわたしの反応を面白がるように、ヴァル様は艶やかに微笑んだ。
「疲れていないかい? 夕食まで休む?」
「だ、大丈夫です」
腰に手を添えられながら、屋敷に入る。このまま部屋に連行され、鎖に繋がれるのではないか……と思っていた、その時だった。
「ヴァレンティアス様!!」
切羽詰まった声が聞こえてきた。振り向くと、玄関から騎士服姿の青年が駆け込んできた。ヴァル様の側近ルカス様だ。いつも冷静な彼が、珍しく額に汗を滲ませている。ヴァル様は彼らを見て、わずかに眉を寄せた。
「どうした」
「やっと見つけました……!」
うん? やっと見つけた?
「王宮からの使者が何度も来ております。至急お戻りください」
ヴァル様の表情が固まった。わたしはその変化を見逃さず、ルカス様に目を向ける。
「会議はどうなっているのですか?」
「中断しております」
「騎士団との打ち合わせは?」
「全員がヴァレンティアス様をお待ちです」
どんどん、わたしの中ではある可能性が組み上がっていく。まさか、いやまさか。ヴァル様は、わたしを捕まえに来るために……仕事を放り出したの?
わたしが思わずヴァル様を見ると、彼は咳払いをして目を逸らす。
「……後で向かう」
「後では困ります!」
今度は別の声だ。書類を抱えた文官が現れ、その後ろからさらに二人、三人と人が増えていく。そして包囲網を組むように、彼を中心に囲みだした。
「閣下、王太子殿下がお待ちです!」
「至急決裁が必要な案件があります!」
「騎士団長様の堪忍袋が限界です!」
次々と跳んでくる訴えに、わたしはぽかんとだらしなく口を開けてしまった。ヴァル様はというと、珍しく少し困った顔をしている。その顔を見た瞬間、わたしの胸の奥で何かが弾けた。
そうだ。そうだった。彼は忙しいのだ。ちゃんと忙しかったのだ。仕事を放り出していただけで、本来であれば来てはいけない人なのだ。なんという行動力。なんという問題人。そして、なんという好機。
わたしは表面上で心配そうな顔を作りながら、計算を始める。現在は夕方、ローゼンフェルト公爵邸での舞踏会の開始時間は七時。ここから馬車で、約三十分。着替え諸々にも約三十分。
うん、間に合う。十分に間に合う!
「エレオノーラを部屋まで送ってから……」
「駄目です。今すぐにお戻りください」
わたしは心の中でルカス様に拍手をした。よく言ってくれた! もっと言ってください!
「だが——」
「ヴァル様」
今もなお未練がましいヴァル様の袖をしおらしく見えるようにちょいと引く。青銀色の瞳がこちらに向けられた。……そんな目で見ないでほしい。罪悪感が芽生えそうになる。けれど今夜のパーティーを譲ることはできないのだ。
「お仕事を優先してください」
「ノーラ……」
「わたしは大丈夫ですから」
にこり、と淑女らしい完璧な微笑みを浮かべる。内心ではダンスを踊っているが、それが表に出てこないよう必死に抑え込む。
ヴァル様はわたしを見つめながら黙っていたが、その沈黙の間にも、騎士や文官たちがじりじりと距離を詰めていた。ついに、ヴァル様が観念したように息を吐く。
「……分かった」
彼がそう言った途端、周囲の人々が一斉に安堵の息を吐いた。どれだけ仕事を溜めているの、この人。
ヴァル様はわたしの頬に手を添え、名残惜しそうに唇に熱い口づけを落とす。
「絶対に、外出はしないでね」
ぎくっ。頬が強張りそうになるのを押さえ、わたしは全力で笑顔を維持した。
「もちろんです」
嘘である。ヴァル様はじっとわたしを見つめた。まるで何かを見抜こうとするように。心臓がどきどきする。お願い、気づかないで。
数秒後、彼はふっと微笑んだ。
「いい子だ」
その言葉とともに、額に軽く口づけが落とされる。わたしがわずかに赤くなる間に、ルカス様たちが絶妙な連携で彼を包囲した。
「ではヴァレンティアス様、こちらへ」
「馬車を待たせています」
半ば連行である。ヴァル様は歩きながらも何度も振り返っていた。そのたびにわたしは、にこにこと手を振る。そして夫の姿が見えなくなった時、わたしはそそくさと馬車に戻ってドレスを持ち出し、自室に戻った。
そして——。
「やったぁぁぁぁ!!」
小声で叫びながら飛び跳ねた。ドレス箱を抱きしめて、ベッドの上でくるくる回る。成功だ。完全勝利ではないにせよ、これは大きい。
ヴァル様は仕事に戻った。しかも大量の仕事に捕まっている。確実に、すぐには抜け出せない。
わたしは鏡の前に立ち、髪をほどいた。胸が高鳴る。秘密の冒険に向かう冒険者は、こんな気持ちになるのだろう。
さあ、急がなくては。今夜こそ、自由にパーティーを楽しむのだ。




