第3話 夫を出し抜く方法
わたしは慎重に行動することを決めた。頭の中で作戦会議を立てた結果、視察帰りにそのままローゼンフェルト公爵邸に向かうという極めて一般的な考えに行きついた。ヴァル様は今日、王宮での会議や騎士団での打ち合わせなどの予定が詰まっている。わたしを迎えに来るなど仰っていたけれど、そんな余裕があるはずないのだ。経験と情報収集に基づいた、極めで合理的な判断である。
「奥様、本日の視察の資料でございます」
「ありがとう、ミレイ」
わたしはにこやかに受け取りながら、心の中では別のことを考えている。
馬車にドレスは二着積んだ。一着は、淡い藤色の控えめなドレス。もう一着は、万が一ヴァル様に見つかった場合に「これは夕食会用です」と言い訳ができそうな、上品な紺色のドレス。それ以外にも、靴や髪飾り、香水、手袋、扇と用意は万全。完璧である。
わたしはこれまでに何度か、馬車の中で正装に着替えた経験がある。侯爵夫人としてどうなのかと問われれば、あまり良くないに違いない。しかしヴァル様の監視を突破するためには、もはやそれくらいの技術が必要なのだ。
午後の日差しは柔らかく、屋敷の前に停められた馬車の黒い車体が艶やかに光っている。視察先は、領内の織物工房である。表向きは真面目な夫人の仕事だ。実際、仕事自体は真面目にこなす。ただ、その後にこっそりパーティーに行くだけである。
「では、行ってまいります」
「エレオノーラ」
わたしが馬車に乗り込もうとした時、背後から声が聞こえた。心臓がどきんと音を立てるまま、振り向く。そこにはヴァレンティアス様が立っていた。相変わらず、完璧な美貌である。彼は忙しいはずなのに、どうしてここに?
「ヴァル様。王宮に行っていらっしゃるのではなかったのですか?」
「これから発とうとしたところだよ」
彼は自然な動きでわたしの手を取って、指先に軽く口づけた。そして手首も引き寄せると、熱を帯びた唇を手のひらの中心にしっかりと押し当てる。肌を焦がすような口づけに、わたしは思わず息を詰まらせた。
「ど、道中、お気をつけてください……っ」
「ああ。……行ってきますのキスはしてくれないの?」
耳元で囁かれ、拒む間もなく彼の片手が後頭部に添えられて引き寄せられる。逃げ場を塞ぐように重ねられた口づけは食事中のものとは比にならず、深く、甘く、思考のすべてを奪い去るものだった。甘い吐息を強請るような濃厚な舌使いに脳が痺れ、気が付けばわたしは彼の胸元にしがみつくようにして、かろうじて立っている状態だった。
「——っ、なっ、こんな、急に……!」
「君が愛おしすぎるからだよ。……気を付けて行っておいで、可愛い妻」
青銀色の瞳がじっとわたしを見つめる。その視線に見据えられると、わたしの隠し事がすべてバレているのではないかという気持ちになってしまう。
「きょ、今日は帰りが遅くなるかもしれません」
先手を打っておく。ヴァル様はわずかに眉を上げた。
「そうなの?」
「工房の帳簿確認もありますし、そのあと、孤児院にも寄るかもしれません」
嘘ではない。寄るかもしれない。ただ、寄る予定がないだけで。
ヴァル様はしばらく黙っていた。長い沈黙。その沈黙の間にわたしの心の中が読まれているように思えて、わたしは笑顔を維持するので手一杯だった。やがて彼はふっと微笑む。
「分かった。無理はしないで。迎えは必要?」
「必要ありません!」
しまった、食い気味に答えてしまった。怪しかっただろうか。しかし彼は特に追及することはなく、「そう」とだけ言った。わたしは内心で安堵の息を吐く。大丈夫よ、きっとバレていない。今日こそは、心からパーティーを楽しめる。
◇ ◇ ◇
視察は順調に進んだ。織物工房では新しい染色技術を見学し、職人たちの話を聞き、帳簿も確認した。侯爵夫人としての仕事をきちんとこなすわたしに、工房の人々は深々と頭を下げる。そのたびに、胸がぽかぽかと温かくなった。こういう仕事は嫌いではない。むしろ好きだ。だからこそ、ヴァル様に「外へ出るな」と言われると、余計に反発したくなる。
夕暮れが近づき、工房を出た頃には空が淡い橙色に染まり始めていた。
「奥様、次は孤児院へ向かわれますか?」
御者が尋ねる。わたしは少しだけ考えるふりをした。
「……いいえ。今日は、別の場所へ寄ってほしいの」
行き先を伝えて、裾を持ち上げて軽やかな気分で馬車に乗り込んだ。そして——。
「え?」
ぐいっと、突然右手首を強く掴まれた。次の瞬間、視界が反転する。
「きゃっ!」
そのまま、座席に押し倒された。柔らかなクッションに背中が沈み、わたしは息を呑む。目の前にあるのは、見慣れた青銀色の瞳。近いなんてものではない。鼻先が触れているほどに近い。
「ヴァ、ヴァル様!?」
心臓が破裂しそうだった。どうして、どうして彼がここに。今頃王宮で会議をしているはずでは。騎士団での打ち合わせは? わたしの完璧な情報網は!?
「ま、まま、まさか……!」
声が裏返る。ヴァル様は片手でわたしの手首を押さえたまま、もう片方の手で馬車の扉を閉めた。がたん、と音がする。薄暗い馬車の中、夕暮れの光が窓から差し込み、彼の横顔を赤く染めている。
彼は、笑っていた。ものすごく、いい笑顔で。ぞわりと背筋が粟立つ。そんなふうに動揺するわたしの唇に、ヴァル様は自分のそれを容赦なく重ねてきた。
「んっ……!」
抗議の声を押し潰さんとする、深い口づけ。逃げられないように顎を固定され、頭がくらくらするほどの熱を叩きこまれる。呼吸の仕方も忘れかけた頃にようやく唇が離れ、糸を引く艶めかしい隙間から、ヴァル様は蕩けるような声で囁いた。
「逃がさないよ、ノーラ」
「はぁ、はぁ……っ。な、なにを……!」
滲む視界で睨みつければ、彼はさらに微笑みを深める。
「どこへ行くつもりだったの?」
「ど、どこって、屋敷に……」
言い終わる前に、ヴァル様の視線が座席の下に向いた。わたしもつられて視線を動かす。そこには、夜会用のドレスが入った箱が。ああ、終わった。完全に終わった。
「これは、何?」
「……ドレスです」
「見れば分かるよ。どうして視察に、夜会用のドレスを持っていくのかな?」
穏やかすぎる声。この人は本気で怒っている時、逆に声が穏やかになることをよく知っている。わたしは必死に頭を回転させて、なんとかこの状況を打破できないかと考えた。
「も、もし急な招待があった時のために……」
「ローゼンフェルト公爵からの招待状も入っていたけれど」
「…………」
既に検品済みだった。
「ど、どうして……今日は、お忙しいはずでは……」
「忙しかったよ。でも、君が怪しかったから様子を見に来ることにしたんだ。それに……」
彼はわたしの耳元へ顔を寄せた。敏感な耳たぶに熱い吐息が吹きかけられ、わたしは思わず身もだえる。
「今朝、ミレイがこの箱を馬車に積んでいたのを見たからね」
「ミレイ————!!」
ばれないようにしてって言ったのに! 心の中で絶叫していると、ヴァル様はくすくすと笑った。とても楽しそうだ。
「ヴァル様の予定、ちゃんと調べたのに……」
「僕の予定を?」
しまった。自白のようなことをしてしまった。ヴァル様の目が細められるが、その表情は怒っているというよりもむしろ嬉しそうだった。
「僕のことを調べていてくれたんだね。僕は君に、愛されているんだ」
「ち、違います! 攻略のためです!」
ヴァル様は目を丸くした後、肩を震わせて笑いだした。そんなに笑われたら……わたしが馬鹿みたいなことをしたみたいで、恥ずかしい。
「笑わないでください!」
「ごめんね。でも……」
彼は笑いを堪えながらわたしの額に額を寄せる。そして、再び唇へと口づけを落とした。
「君、最近ますます僕から逃げるのが上手になっているね」
「……褒められても嬉しくありません」
「褒めていないよ」
青銀色の瞳が至近距離で細められる。その奥にある彼の愛を、わたしは嫌というほど知っていた。
「逃がすつもりはないし」
低く囁かれ、心臓がどくんと跳ねる。……やっぱり、この人を出し抜くのは難易度が高すぎるわ。




