第2話 甘い夫
わたしは大きく息を吐いて、ベッドから起き上がった。昨夜の名残か、胸元や首元のあたりにじんわりと熱が残っているような気がして、そっと手で覆う。
鏡の前に立つと、髪が寝癖でかなり乱れていた。侍女を呼ぼうかと思ったが、その前に扉が叩かれる。
「奥様、お目覚めでしょうか」
「ええ。入ってちょうだい」
返事をすると、侍女のミレイが入ってくる。彼女はわたしの身体に残されているであろう痕を見ても何も言うことなく、完璧な侍女の微笑みを浮かべた。その微笑みに気恥ずかしさを覚えつつも身支度を整えてもらい、淡いクリーム色のドレスに着替える。
鏡に映るわたしは、上品な侯爵夫人に見えるだろう。……見えるだけではある。
食堂へ向かう廊下を歩きながら、わたしは小さく息を吐いた。ヴァル様は今朝、どんな顔をしているのだろう。わたしの逃亡をまだ怒っているのか、もしくはわたしを抱けたので機嫌がいいのか。
食堂の扉が開かれる。窓から差し込む光が銀のカトラリーを照らすその中央で、ヴァレンティアス様は座っていた。
「おはよう、ノーラ」
彼はわたしを見て、にこりと完璧な笑顔を浮かべる。昨夜、妻を鎖で繋いでいたとは思えないほどの爽やかさだ。
「……おはようございます」
わたしが席に着くと、ヴァル様は自然な動作でわたしの椅子を押してくれる。優しい。悔しくなるほどに優しい。これだから困るのだ。昨夜あんなに熱く貪るような口づけを交わし、何度も愛を囁きながらわたしを壊そうとしてきたくせに、まるで世界一大切なものを扱うように接してくる。
「手首は痛まない?」
「……少し、赤くなっているだけです」
「見せて」
素直に手を差し出すと、彼は真剣な顔でわたしの手を取った。彼の指が赤い痕を撫でる。その熱を持った指の腹が手首の敏感な箇所をなぞるだけで、昨夜の記憶が蘇ってぞくりと甘い戦慄が走る。
「……強く掴みすぎたか」
「自覚はあるのですね」
「反省しているよ」
青銀色の瞳がしょんぼりと伏せられる。その顔を見ていると、まるでわたしが悪いことをしたかのような気分になってしまうのだ。怒られた犬のような仕草を見ていると、わたしは思わず笑ってしまった。
「もう。そんな顔をしないでください」
わたしがそう言うとヴァル様はぱっと顔を上げる。その表情があまりにも嬉しそうで、胸の奥がきゅっと甘くなった。
朝食は、いつものように豪華だ。ヴァル様はわたしの皿が少しでも空くと、すぐに給仕へ視線を送る。
「ノーラ、これも食べる?」
「そんなに食べられません」
わたしは食に旺盛な方ではなく、どちらかというと小食である。それが彼にとっては心配なのだろう。食べられる量だったらいいのだけれど、多く乗せすぎるのは止めてほしい。
食事の途中、ヴァル様がふとわたしの唇の端を指で拭った。そしてそれを、ぺろりと舐めとる。
「ジャムがついているよ。……甘いね」
「……っ」
近い。朝から近い。ヴァル様はそのまま名残惜しそうに指でわたしの下唇をそっと押し広げ、自身の唇を重ねてきた。予期せぬ濃厚な接触に、わたしは思わず息を止める。朝からこんな甘い余韻を残すような深い口づけを交わされ、頭が真っ白になりかけた。
「ヴァル様、食事中にやめてください……! それに、皆が見ています!」
必死に抗議すれば、彼は艶やかに微笑んだ。
「見せつけているんだよ。僕が君を、どれほど愛しているのか」
「何を……っ。だからといって、今は駄目です」
「じゃあ、今じゃなければ好きなだけしていいのだね」
さらりと言われて、わたしは言葉を失ってしまった。違うと言いたいのに、そう受け取られてもおかしくない言い方をしてしまった。わたしとしたことが……。
「今日は仕事が沢山あるのだろう?」
「はい。慈善事業の会計確認と、孤児院への寄付の書類の確認、それから使用人たちの冬支度の予算を」
「無理はしないでね」
ヴァル様はわたしの手の甲に口づけた。その温もりを惜しむように見つめ合っていると、彼は不意に立ち上がって、わたしの背後に回って耳元に唇を寄せた。
「終わったら、すぐに迎えに行く。今度は、ベッドの上だけでなく……君のすべてを僕の色に染め上げるから、覚悟しておいて」
「——っ、迎えに来てくださらなくて結構です!」
わたしが必死で首を振っても、彼は楽しそうに笑うだけだった。
執務室へ向かう廊下を歩きながら、わたしは深く息を吐いた。
「……本当に、調子が狂うわ」
昨夜は彼に対する疑念が大きかったのに、すっかり甘やかされてしまった。これでは起こり続けることもできない。
部屋に入ると、机の上には書類が山積みになっていた。侯爵夫人の仕事は決して軽いものではない。慈善事業や領地の副使、使用人の管理、社交関係の調整など、やるべきことはたくさんある。
わたしは椅子に座って、気持ちを切り替えた。ペンを取って、数字を確認して、署名をしていく。集中していると、時間はあっという間に過ぎていく。
昼を少し回った頃、追加の書類を抱えた執事のアルベールが入ってきた。
「奥様、こちらもご確認をお願い致します」
「ありがとう、アルベール」
書類を受け取り、何気なく目を通した時。わたしは思わずまじまじとその文章を見つめた。
『今宵、ローゼンフェルト公爵邸にて夏季親睦舞踏会を開催』
ローゼンフェルト公爵家主催の舞踏会。王宮で開かれるものほど格式ばっておらず、貴族たちが比較的自由に交流することで有名な夜会だ。予告なしで唐突に開かれることでも有名である。
行きたい。行きたい行きたい行きたい。昨夜の夜会はヴァル様に捕獲されて、ちっとも楽しむことができなかった。でも、今夜なら。今夜こそは。
幼い頃に抱いていたような、社交界への憧れが熱く燃え上がる。友人たちとのおしゃべりや、煌びやかなダンス。
「…………」
しかし、ヴァル様が許してくれるはずがないだろう。確実に、間違いなく、参加することを却下されるに違いない。昨夜は彼に内緒で夜会に参加しようとして捕まり、一時的にとはいえ鎖に繋がれてしまった。それでも、まだ諦めていないわたしがいる。
「今夜、舞踏会があるだなんて……!」
これは運命では? これは、今度こそ、わたしにパーティーを楽しめという啓示ではないだろうか。
心臓が高鳴る。こうして秘密の冒険をすることは、小さな頃から好きだった。夜会に参加することもわくわくするし、こっそりと行動することにもどきどきする。
「……さて。どうやってヴァル様の目をかいくぐろうかしら」




