第1話 拘束される妻
——どうして、こうなったのかしら。
そんな疑問が頭の中をぐるぐると回り続けているが、答えはあまりにも明白であり、わたし——エレオノーラ・アークレインは己の迂闊さに心の底からため息をつきたくなった。
薄暗い寝室の中では、壁際に置かれたランプの柔らかな灯だけが揺れている。夜会用に着ていた深い青色のドレスはすっかり乱れ、つい数時間前まで音楽とシャンデリアの眩い光に包まれていたとはちっとも思えない。我ながら、まるで別人のようだ。
そして何より、両手首が重い。持ち上げて見ると、わたしの手首には銀色の腕輪が嵌められている。そこから伸びる細い鎖は、天蓋付きベッドの柱へと繋がっていて……。
「…………」
とりあえず、鎖を引いてみる。しゃら、と虚しい金属の音が鳴っただけで、外れる気配は微塵もない。それも当然のこと……いや当然ではない。全く当然であるはずがない。仮にも侯爵夫人であるわたしが、夫の手で、寝室に繋がれているのだから。
「……最悪だわ」
思わず零れた呟きは、情けないほどに小さい。
どうしてこんなことになったのか。理由ははっきりとしている。今夜の舞踏会、ヴァル様——ヴァレンティアス様は、何度も何度も「行かないで」と言っていた。
『男が多すぎる』
『舞踏会ですもの。当然でしょう?』
『嫌なんだ。……君は綺麗すぎる。有象無象達が君にすり寄ってきたらどうするんだ』
あまりにも真剣な顔で言われて、笑うことはできなかった。しかしだからといって、これが欠席する理由にはならない。親友からの招待だったし、久しぶりの大きな夜会だったから。
結婚してからというもの、ヴァル様の過保護が過度になり、ヴァル様の嫉妬が過剰になり、わたしはほとんど社交界から姿を消していた。このままでは不味いと思ったので、今回は絶対に行こうと決めたのだ。
彼が仕事で手を離せないことを確認し、裏門から馬車に乗り込み、護衛を撒くこともできて、完璧な作戦だったはずなのに——会場に入った途端、ヴァル様に捕まった。黒の正装に身を包み、優雅に微笑んでいた夫の姿を見た時、わたしの背筋には冷たいものが走ったものだ。
『こんばんは、可愛いエレオノーラ』
あの時の笑顔を思い出すだけで胃が痛くなる。怒鳴られるよりもずっと怖い。感情の読めない笑顔を浮かべている時のヴァル様は、本当に危険なのだ。
彼に確保された後は、彼の腕の中にいるしかなかった。ダンスは一曲目、二曲目、三曲目と、ずっと彼と踊っていた。他の男性が近づいてくると、ヴァル様が拒否を許さない笑顔で遮った。
『妻は私と踊るので』
その言葉に込められた独占欲は如何ほどなのだろう。わたしは理解しきれていない。
そして夜会が終わり、馬車に乗せられ、屋敷に戻って——気づいたら、この状態になっていた。
「ノーラ」
低く甘い声が聞こえた。わたしは驚いて視線を扉に向ける。いつの間に入ってきたのだろう。ヴァレンティアス様が、扉の前に立っていた。漆黒の髪に、青銀色の瞳を持つ、完璧な美貌の夫。
彼はゆっくりとわたしに近づいてくる。わたしは反射的に身を引こうとしたが、鎖のせいで逃げられる距離が限られている。
ベッドの端に腰を下ろしたヴァル様が、そっとわたしの頬に触れた。その手は冷たい。
「怖い顔をしているよ。そんな顔も、可愛いけれど」
「……誰のせいだと思っているのですか」
「僕のせいだね」
わたしが怒ると、ヴァル様はくすりと笑う。その、彼の鋭さがふんわりと柔らかくなるような笑い方が好きだ。悔しいことに、こんな状況でも胸が高鳴ってしまう。
「……これ、外してください」
銀の腕輪を持ち上げて見せると、彼はそれを見て少し目を細めた。
「嫌だ。これがなければ、君は逃げるだろう?」
「逃げません」
「今夜、僕の元から逃げたではないか」
……そこを突かれると言葉に詰まってしまう。確かに、彼に内緒で勝手に屋敷から出てしまった。しかもかなり計画的に。
ヴァル様はそんなわたしを見て、ふっと息を漏らした。
「エレオノーラ」
優しい声で名前を呼ばれる。怖い。
「どうして僕に内緒で勝手に行ったの?」
「だって、ヴァル様は許してくれないでしょう」
「もちろん許さないよ」
せめて少しでも悩んでほしい。
「ほら! ヴァル様にお話しても、意味がないのです」
「君を他の男に見せたくないから。……いっそこのまま、僕しか見られない場所に閉じ込めてしまおうかな」
ヴァル様は微笑んだ。その笑顔は、社交界で見せるような完璧な侯爵の微笑みではない。もっと甘くて、危うい笑み。その笑みでわたしを見ないでほしい。彼の言葉が冗談ではないと言われているようなものだ。
彼の指が、わたしの髪を一房すくう。とても優しい手つきだ。
「君が綺麗すぎるのが悪いのだよ。そんな君を独占できることは嬉しいけれど、困ることも多いんだ」
青銀色の瞳が、じっとわたしを見つめる。宝石のようにその美しい瞳に、吸い込まれてしまいそうだ。
「君が綺麗で、可愛くて、誰にでも優しく笑うから。僕は心配になってしまう」
そっと頭を撫でられる。彼の声は穏やかだけれど、その静けさの奥にある感情の重さを感じてしまう。わたしは何か言おうとしたけれど、喉がひくりと震えるだけで言葉が出てこない。
彼から少しでも距離を取ろうとすると、じゃらりと鎖の音が鳴る。ヴァル様は視線をそれに落とした後、ゆっくりと口角を上げた。ああ、駄目だ。この笑顔は駄目なやつだ。ヴァル様が、心の底から満足している時の笑顔。獲物を捕まえることができた猛獣のような顔だ。
ヴァル様はわたしの手首を取り、銀の腕輪を指でなぞった。
「君が悪いんだよ……」
甘く、優しく、囁くような声。それなのにその言葉が恐ろしくて仕方がない。
「わ、わたしが悪いのですか?」
「そうだよ。君が僕から逃げるから。逃げなければ、こうして繋ぐこともなかったのに」
「逃げたくもなります! ヴァル様のそれは、脅迫です!」
「愛情表現だよ」
「ではその表現は間違っています!」
思わず叫ぶと、ヴァル様は肩を震わせて笑った。楽しそうなその笑顔を見ていると、怒っている自分が馬鹿みたいに思えてくるから少し悔しい。
彼は笑い終えると、そっと額をわたしの額に寄せた。吐息が触れるくらい近い距離。
「ノーラ。今夜、君がいなくなったと聞いた時、心臓が止まるかと思った」
その声には、先ほどまでの愉悦はない。代わりにあるのは、純粋な恐怖だけ。
「また、誰かに連れて行かれたのかと思った」
「ヴァル様……」
「君が僕の知らない場所で笑っているのが嫌なんだ。僕の知らない間に僕以外の人間と話して、僕が知らない顔で笑うのが耐えられない」
彼の指先が頬を撫でる。知っていたけれど……重い。こうして改めて言葉にされると、その愛情はあまりにも重い。普通なら逃げ出したくなるほどだけれど、なのに胸が熱くなってしまうわたしがいる。
困ったことに、わたしも心から彼を愛しているのだ。だからこそ、彼の愛は恐ろしいけれど、愛おしいとも思ってしまう。
「……本当に、どうしようもない人ですね」
観念したようにわたしが息を吐くと、ヴァル様の青銀色の瞳がわずかに見開かれ、すぐに蕩けるような甘さを含んだ色に変わった。
「怒らないのかい?」
「怒っています。ものすごく怒っています。でも……ヴァル様がそれほどまでにわたしを求めてくださっているのも、知っていますから」
「……っ」
わたしの言葉が、彼の最後の理性のタガを外したらしかった。彼は息を呑むと、わたしの身体を強く抱き寄せた。
「エレオノーラ……」
ふわりと彼の髪が頬をかすめる。次の瞬間、わたしが反応する前に、ヴァル様の唇が重ねられた。最初のうちは、罰を与えるかのような、切なさと独占欲に満ちた熱い口づけだったが、わたしが抵抗せずに少しだけ甘えるように身を預けると、彼の纏う空気がふっと柔らかくなると同時に熱を怯えたものへと変わった。
触れ合う唇の隙間から、甘い吐息が零れ落ちる。手首の鎖がわたしたちの動きに合わせて微かに鳴った。息が続かなくなるほどの長い口づけ。
「……ずるい、人、ですね……」
唇が離れたわずかな隙間を狙い、わたしは抗議するように彼を見る。ヴァル様は満足そうに目を細め、わたしの唇に名残惜しそうにもう一度軽く口づけをした。
「君が僕を不安にさせるからいけないんだ」
囁きながら、ヴァル様は慣れた手つきでわたしの手首から銀の腕輪を外し——そのまま、わたしの上に覆いかぶさる。
「さて。お仕置きの時間だよ、ノーラ」
最後に聞こえたのは、闇に溶けるような甘い声だった。




