第12話 星のドレス
王宮の更衣室。そこには、王家のコレクションとも言える極上の衣装がずらりと並んでいる。その豪華絢爛な中央で、わたしはあまりの非現実的な美しさに言葉を失い、ただ呆然と立ち尽くしていた。
「ねえ、ノーラ。これ、どう?」
リュシーがまるで最高傑作のお披露目をするかのように、得意満面で両手を大きく広げて見せる。
「どうって……これ、一体……」
わたしは、目の前にある一着のドレスから目を離せなかった。
それは、言葉を失うほどに美しかった。極上のシルクチュールが重なり合うスカートは、深い夜空の色ではなく、薄暮の彼方の月光をそのまま閉じ込めたような、淡い青紫色。生地の表面には、無数の銀糸と極小のシードビーズで、夜空に瞬く小さな星々が息をのむほど繊細に縫い取られている。胸元は淑女の品格を保ちつつも緩やかな曲線を描いて美しく開き、そこから肩先、そして滑らかな腕を覆う袖にかけては、蜘蛛の巣のように緻密で薄いレースがふわりと重なっていた。
可愛い。少女のように愛らしく、同時に大人の女性としての艶やかさを秘めたドレスだ。
「これ、本当にわたしが着てもいいの……?」
「もちろんよ! あなたのために用意した衣装だもの」
リュシーはエメラルドの瞳を宝石のようにキラキラと輝かせた。
「ノーラのそのサファイアみたいな瞳の色と淡い金色の髪に、この色とデザインが絶対に似合うって、見つけた瞬間からずっと取っておいたのよ」
おずおずと生地にわたしが指先を滑らせると、指の腹に吸い付くような、滑らかな感触が伝わってきた。軽くて、柔らかくて、触れているだけで肌がとろけそうなほど上質だ。
「……着てみたい、すごく……」
「でしょう? 着なきゃ損よ!」
「でも……」
わたしは思わず、自分の胸元から足元へと視線を落とした。
「これをあの人が見たら……間違いなく怒られてしまうわ」
「ふふ。わたくしはそれを見たいのよ」
リュシーはゾクゾクするような笑みを浮かべる。わたしは苦笑を禁じ得なかったが、ドレスの放つ抗い難い魅力と、女子としての高揚感には抗えず、結局その美しすぎる衣装を両手で抱え込み、足早に更衣室の奥へと向かった。
◇ ◇ ◇
鏡の前に立ち、その淡い青紫のドレスに身を包み終えた時、わたしは自分でも息を呑み込んだ。鏡の中に映し出されているのは、いつもの地味なわたしではない。我ながら、月光と夜の精霊が舞い降りてきたかのような姿だ。淡い青紫の絹布が、わたしの肌の透明感を引き立ててくれていて、繊細な銀糸の星々が動くたびに瞬く。鎖骨から肩にかけてのラインは、自分で言うのも気恥ずかしいほどに色っぽく仕上がっていた。
更衣室の扉を開けて出てきたわたしの姿を見た瞬間、待ち構えていたリュシーは両手で口を押さえ、文字通り飛び跳ねた。
「可愛い……っ! 信じられないくらい可愛いわ、ノーラ! まるで絵画のなかの女神様みたい!」
「本当……?」
「嘘じゃないわよ。自分の目で鏡をしっかり見てご覧!」
リュシーは興奮した様子でわたしの背中を押し、大きな姿見の前に立たせた。スカートの裾がふわりと広がり、二人して「わあ……!」と声を揃えて顔を見合わせ、思わず耐え切れなくなってキャッキャと声を立てて笑い合った。
「ねえ、見てみて、この袖のレースの透け感!」
「本当だわ。星の刺繍の立体感もすごく綺麗……! 後ろ姿なんて、背中の開き具合が絶秒すぎて反則よ」
「ちょっとリュシー。そんなに見つめないでよ、恥ずかしいから!」
「待って、まだ終わりじゃないわ。髪飾りも最高のやつを合わせないと!」
リュシーが次々と宝石箱をひっくり返し、装飾品を取り出していく。月明りのように光る銀の髪飾りや、夜空の星を模したダイアモンドのピン、耳たぶで揺れる三日月の形をしたプラチナの耳飾りなど、高級品しかない。
わたしは言われるがままに椅子に座らされ、着せ替え人形のように美しい装飾品を身にまとわされていく。けれど、嫌な気はちっともしない。むしろ、心地よい高揚感が熱を帯びて広がっていく。
「ふふ、すごく似合っているわ。ねえ、なんだかわたくしたち、昔の学生時代に戻ったみたいね」
リュシーが満足げに微笑みながら言った。わたしも頷く。
「本当に……。結婚してから、こんな風に会えること自体が減っちゃったのも」
わたしたちは顔を見合わせて、可笑しく笑い合った。その和やかな笑い声が部屋に響いていたまさにその時。控えめに扉が叩かれた。
「失礼致します、殿下」
扉の隙間から顔を覗かせた侍女が、どこか緊張した面持ちで告げた。
「アークレイン侯爵様がお見えになりました」
「……えっ?」
思考が停止する。対照的に、リュシーは晴れやかな、悪戯っ子のような笑みを浮かべた。
「わたくしが呼んだのよ」
「呼んだ……!? どうしてそんなことを!」
「だってもったいないじゃない。こんなに可愛いあなたを、彼に見せないなんて。後でわたくしが何と言われるかたまったものじゃないわ」
「だからってそんな急に……!」
半ばパニックに陥ったわたしは、鏡の中の自分に視線を走らせた。言い逃れのできないこの姿。何と彼に説明したらいいのだろう?
「リュシー。お願いだから今すぐわたしをそのカーテンの裏に隠して!」
「何を言っているの。無理よ」
「どうしてよ!」
「だってもうそこにいるもの」
王女が冷酷非道にもふふっと笑ったのと同時に、扉が押し開かれる。現れたのは、いつものように非の打ちどころのない気高さを纏うヴァレンティアス様。彼は最初に部屋の主であるリュシーへと礼を取ろうとしたのか、その視線を室内に滑らせた。
——しかしその青銀色の瞳がわたしの姿を捉えた途端、彼の身体が彫像のように硬直した。呼吸をするのも憚られるような静寂が満ちる。
彼の視線は、ゆっくりとわたしの姿を上から下へと這っていく。その視線に耐えかねて、わたしは思わず彼に声をかけた。
「ヴァル様……?」
返事はない。彼の青銀色の瞳は見開かれたままだ。本気で言葉を失っているのだろう。
見かねたように、リュシーが面白そうにクスクスと笑いながら肘でヴァル様の脇腹を軽く突いた。
「どう? アークレイン侯爵様。わたくしが見立てた、我が親友の姿は。可愛いでしょう?」
気まずいほどの重い沈黙が流れたあと、ヴァル様は唇をわずかに動かし、低い声をも零した。
「……可愛い、な」
あまりにも実直な呟きに、わたしの心臓は激しく跳ねた。彼はもう一度、今度は先ほどよりもはっきりと言った。
「言葉を失うほど、可愛い」
わたしは恥ずかしさのあまり、両手で自分の顔を覆ってその場にしゃがみ込みたい衝動に駆られた。そんな真面目な顔で、恥ずかしすぎることを言わないでほしい。
しかしリュシーは満足げに胸を張り、得意満面に言い放つ。
「でしょう? このドレスは、これからの夜会に——」
その言葉の途中で、ヴァル様はすっと目を細めた。
「——いや。これは、駄目だ」
「「え……?」」
わたしとリュシーの声が綺麗に重なる。ヴァル様の顔は真剣そのもので、見ようによっては恐ろしい顔のままだ。
「駄目って、何が駄目なのですか……? こちらは、わたしに似合っていませんか?」
わたしがたまらず声を上げると、ヴァル様はわたしへと近づいてきた。
「何が、ではない」
彼の手が伸び、わたしの袖口の端に指を触れる。その触れ方はとても優しい。
「可愛すぎるからだよ。こんな姿、僕以外の誰の目にも触れさせてはならない」
一分の冗談も混じっていない、本気でそう考えている瞳。わたしはあまりの衝撃に、ぽかんと口を開けたまま固まった。隣で聞いていたリュシーは、ついに堪え切れなくなったようにお腹を抱えて吹き出した。
「なんということ!? 妻が可愛すぎるからって、監禁する気なの!?」
「そうです、殿下。私の部屋に鍵をかけて閉じ込めておきたい衝動に襲われています」
「恐ろしいこと言わないでください!」
わたしが一歩下がろうとすると、ヴァル様はさらに距離を詰めてきた。あまりの至近距離に耐え切れずにもっと身を引こうとするけれど、自分の足が広がりすぎたスカートの裾を踏みかけてバランスを崩してしまった。
「あ……っ」
転びかけたその時、まるで予期していたかのようにヴァル様の腕が伸びてきて、わたしの腰を力強く抱き寄せた。
「危ない」
「……ありがとうございます……っ」
顔を上げれば、鼻先が触れあってしまいそうなほどの距離だった。ヴァル様の青銀色の瞳のなかに、この美しすぎるドレスに身を包んだわたしの恥ずかしそうな顔がはっきりと映し出されている。彼はその瞳を揺らして、何かを堪えるようにぐっと奥歯を噛みしめた。
「……どうして君は、こうも簡単に僕の理性を焼き切ろうとするのだろうね」
それはわたしに向けた言葉というよりも、自分自身に対する独り言のようだった。その低く甘い声に、恐怖と気恥ずかしさと、そしてそれ以上に大きすぎる愛おしさがぐちゃぐちゃに混ざり合って息ができないほどである。
リュシーはそんなわたしたちを、呆れたような、しかし温かな眼差しで見守りながら、わざとらしく大げさにコホンと咳払いをした。
「はいはい。熱々な夫婦の愛の営みはお屋敷で存分になさって頂戴」
その言葉にわたしとヴァル様は同時にピクリと反応する。わたしは慌てて彼と距離を取った。
「っ、そんなことしません!」
「そうですね。殿下のお言葉の通りにさせて頂きます」
綺麗に意見が分かれたわたしたちを見て、リュシーはますます楽しそうに肩を揺すった。




